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ヨーロッパワーホリ2:気力ゼロの3ヶ月間

ワーホリに行ったメインの理由は自分の恋愛の継続だった。
常日頃から思っていても、こうして文字に起こしてみるとさらに浅はかに聞こえる。
彼と一緒に暮らしたいという理由が一番強かった、というかほぼそれしかなかったため、その国に関する知識は一切なく、何なら興味もなかった。現地で出会う人々とも「どうせこの1年が終われば関係は終わるし」と考えてしまい、関係を深めるための行動をほとんど取っていない自分自身にも気付いた。
この地で新たに始めた趣味も、全て一人で、家で出来るものばかり。
もともと自分のことを比較的社交的な人間だと思っていた私にとって、内向的な自分の側面に向き合い、受け入れるには、かなり時間がかかった。
今回は完全な孤独を感じていて余裕のなかった2~3ヶ月目を振り返ってみる。

彼と暮らすという目的のみで達成感や幸福を感じられたのは、最初の1ヶ月足らずだけだった。
その後は何も準備せず全く知らない国に来てしまったことへの絶望感が私を襲った。
特に2カ月目から3ヶ月目は、その国での手続き上の関係で希望していた仕事も語学学校等も始められず、また少し田舎に住んでいて街の方へ出るにも少し時間がかかったため、家にて一人、こもりきりの時間が本当に多かった。
彼を除いて誰一人知らず、どこのコミュニティにも接触せず、国についての知識も自分の家の周りの土地勘さえも全くなく、さらに極めつけはそれらのことについて「知りたい」という欲求さえない。
今まで経験したことのない立ち位置や自分の気持ちを前に戸惑った。
自ら選んだ道にもかかわらず、自分の身を置いている場所に不満を感じていた。その不満を解消するための努力もしていなかった。
自分のことを異国の地の小さな塔に囚われた悲劇的な人間のように感じていた。
それまでは何かしらに興味を持ち、自分から道を切り開いていたのに、この土地に来てからはなぜか全くその気が起きなかった。そんな自分を責める気持ちとなぐさめる気持ちと、毎日毎日葛藤だった。
友人たちには盛大に見送ってもらった手前、こんな鬱々とした日々を過ごしていることは話せなかった。私のプライドがそれを許さなかったんだと今では思う。
家族の中の一人だけには素直な気持ちを話すことができたが、その人も忙しいだろうと思い、なるべく電話をかけないよう我慢した。

あの時住んでいた家の窓からの景色を今でも鮮明に覚えている。
人通りが少なく、低い建物ばかりで遠くの空まで見渡せる。たまに鳥が群れになって飛んでいる。彼が家にいない時間は毎日9時間ほど。朝起きて、彼が家を出た後、これから9時間何をしようか。彼が帰ってくるまでの時間をいつも数えていた。帰る時間がいつもより少しでも遅いと、ひどく落胆した。理不尽な怒りを彼にぶつけてしまったこともあった。
近くの公園へ散歩に行くこともしばしばあった。日本にいる友人や家族と電話をしながら歩いている時は心が躍り、安らぎを感じた。
公園の周辺には小学校があった。アジア人が珍しかったらしく、私の顔を見てチャイナ!と叫んで去っていった子どもがいた。
とても天気が良くて清々しい風景とともに、その頃のやるせない気持ち、自分自身への戸惑いも一緒に思い出してしまう。

常に「正」であることを大切にしてきた私。
社交的であるべき、ルールは守るべき、勉強は何でも頑張るべき、仕事も手を抜かず頑張るべき、人が喜ぶことをすべき。
家族や友人、周りから善く思われること、素敵だと思われること、正しいと思われること、それらをほぼ無意識的に軸にして生きてきた私は、社交的でアクティブではない、閉じこもってしまう自分の側面を見て、ものすごくうろたえたし自分自身を非難した。
これを書いている今現在は、物心ついた時から「正」であることに執着して無理をしていたんだなと気付いたし、自分のことだけにフォーカスしすぎて物事を悲観的にとらえがちだったと分かって多少楽になったが、その頃の私にはそうやって考える余裕がなかった。

私がここに書いているのは、海外の地で様々な体験を楽しむキラキラしたワーホリ体験談ではない。
自分の意志で、辞めなくても良かった仕事を辞めて海外へ行き、なぜか何もせず落ち込んで過ごしている、絶賛モラトリアム中の人間の記録だ。
何やってんだ自分、と思いつつも、自分の弱さやかっこ悪さも書き留めておきたいのでこうして書いている。


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