村上春樹と私、今は亡き王女だったかもしれない戦慄

あんたなんて、出来なくて悔しくて泣いたことなんてないだろう、とたびたび母から言われたことがある。

母は良く、もっと努力しろみたいな事を言っていた。
というか、私の努力なんて努力じゃないと言っていた。
母は、母が努力しても努力しても出来なかったと事を私が楽々と大して努力もせずに出来てしまうことを歯がゆく思っていたようである。
私が、出来なくて悔しくて泣いたのは、病気になってからだ。
出来ていたことができない。
頭が働かない。
本当に良く忘れる、生活に支障が出る。
さすがに今となっては、言わなくなったが、母は私が何も出来なくなって泣いていて満足したんだろうか。そんなはずはないけど。

高校生の時に読んだ村上春樹の小説、『ノルウェイの森』の中で、私の病みを決定づけたような、深く私の心を抉った一節があった。
私はピアノを習っていて、結構上手い方だったのだが、この小説の中で、ピアノの先生がピアノの教え方を話すシーンがある。
原本がないので、正確な抜粋が出来ないが、確かこんなような内容だ。

『ああ、凄いな、という才能があるのに、それを伸ばせない。
もっと努力すれば、凄い事になっただろうに、って思うでしょ、でもね、それは違うのよ、努力出来ないのよ。スポイルされているの。
普通の人より早く進めてしまうから、先に行く努力をしない、
することが出来ないのよ』

ピアノの先生だった人が、精神病院のサナトリウムかなんかで、ある生徒の事を述懐していうのだけど、とにかくその教え方が私がやって貰ったことと全く一緒で、私がうすうす感づいていたことがそのまま書かれていて、私のことかと戦慄した。
私の事だと錯覚した私は、その当たりの記述を全てダイレクトに受け止めた。

『その子は周りの人を不幸にしていく病気なのよ』

その生徒は、ピアノの先生に、貴方も私と一緒なのよと言って酷く傷つけて先生の精神疾患を悪化させるのだ。
私は、この件がきっかけで村上春樹を物凄く憎悪したから、執念で彼の著作を追っかけて読んで行った中で、あ、私じゃなかったと気付いた(当たり前っちゃ当たり前なんだが)話があり、傷ついた自分を酷く後悔した。

『今は亡き王女のための』という短編こそが、真実に近い話で、これはどちらかというと私の周りにいた少女が当てはまっていた。私は、この短編に出てくるような少女にじわじわと傷つけられていた。
今は亡き王女こそが、ピアノの先生を傷つけ、周りを傷つけていく少女のモデルだと思う。
ピアノの先生は、生徒から「あなたも私と一緒なのよ」と言われているだけあるのか、この生徒も先生も、どちらもある意味私に似ていると感じられた。

私は、周りを傷つけているから、いつも一人になってしまうのだろうか。
故意に人を傷つけたことなどないのに。

小説の中の、あのピアノの先生こそが、私だったのかもしれない。
そう思ったのは、映画版を見てからだ。
近年公開された映画版は、これこんなにいい話だったっけと随分救われた気分になった。
病んでない普通の人が見たら、はあという感じのようだが。
小説とは最後も若干違い、ちゃんとピアノの先生が救済されているのだ。

映画版のピアノの先生は、病みから回復し、凛とした輝きを手に入れた最後だったのだ。

映画版の中に登場した女性達の中で誰が一番魅力的?と一緒に見に行った男性に聞いてみたところ、ピアノの先生と言っていた。
私も、いつか歳を重ねた時に、あんな女性になっていたいと感じていたので、その答えはなんだか嬉しかった。


遠くない未来、あの先生のように、救済された私を見つけたい。

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