【読書メモ】アンドルー・ゴードン『日本の200年』「第二部 近代革命 1868-1905」

第5章 武士たちの革命

「現代日本の過渡期を過ごしてきた者は、不思議なほど年をとったという気持ちを感ずる。…この筆者を初めて日本語の神秘の世界へ手引きしてくれた親愛なる老武士は、丁髷と両刀をつけていた。この封建時代の遺物は、今はニルヴァナの世界に眠っている。彼の現代の後継者は、英語もかなり流暢で、実用向きな上下揃いの洋服を着ている。…古いものは一晩のうちに過ぎ去ってしまう」(バジル・ホール・チェンバレン)

・日本の革命は、18世紀末から19世紀にかけてヨーロッパで起こった数々の革命とは異なる過程をたどって展開した。ヨーロッパでは、都市のブルジョアジーたちが、長年にわたって強固な地位を確保してきた貴族階級の特権に異議をとなえ、時にはそれを覆した。対して明治期の日本では、旧秩序に対する攻撃の先頭に立ったのは、旧体制下でエリートのメンバーだった侍たちだった。
・武士階級がこのような役割を担ったことから、日本の革命を「上からの革命」とか「貴族的な革命」と呼ぶに至った。日本の武士層は身分の安定したエリートではなく、他の社会のエリート層ほど失うものがなかったこと、そして倒幕に至る過程で、個々の藩と言う狭い枠を超え、ひとつの国を築きあげるという国民意識が形成途上にあったことが革命を可能にした。

政治統一と中央官僚制
・新政府が最初に取った措置は、280あったすべての大名の藩を廃止し、72の府県に置き換えることで、260年間つづいた政治秩序を解体することだった。まず名声と力を兼ね備えた主要な大名たち、とりわけ薩摩、長州、土佐、肥前の藩主たちを説得し、それぞれの藩領を自発的に天皇に返還させた。さらに諸藩の改革賛成派の有能な人材を、時に武力行使の可能性をちらつかせながら重要なポストに就かせ、主要な藩内に支持基盤を築いたところで、天皇にただちにすべての藩を廃止して県とすることを宣言させた。
・この廃藩置県の布告とともに、大名たち個人への多額の補償金の支払いが行われた。大名はさまざまな費用支出の負担からも解放されることとなり、わすか三年のうちにそれまでの政治秩序は一挙に消滅した。
・かれらは天皇の名のもとに統治を行い、天皇に仕えることこそが官僚の使命であると規定することによって、官僚支配の威信を高めた。

身分制の廃止
・士族への財政負担(家禄)が大きいことが最大のネックとなり、武士階級の経済的な特権を完全に一掃させた。この措置は多くの旧士族の怒りを買ったが、まずは武士の階級を上層の武士と下層の武士に二分し、次いで家禄を当面温存したままで身分を平民へと切り替えるといった慎重な措置が取られた。
・士族以外の人々は法的には平民と称されるようになり、穢多・非人も「部落民」と改称し、法的な差別を終わらせた。

徴収兵の軍隊
・無知で潜在的に反抗的な平民に武器を持たせるのは危険であり、旧士族に主要な役割を保証したいという意見が一度は採用されるも、ヨーロッパ視察から帰国した山県有朋は、国民皆兵は軍事力の構築だあけでなく忠誠な国民を鍛え上げるための鍵だと主張し、徴兵令が公布された。
・とはいえ、徴兵制度の評判は良くなく、反抗のために逮捕され処罰を受けた者は10万人にのぼった。すなわち、それから数十年後に日本の兵士たちが示した徹底した規律と熱狂的な忠誠心は、けっして日本人固有の「国民性」を形成する、時代を超越した伝統的な構成要素などではなかったと言える。

義務教育
・政府は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」という高邁な理想を掲げ、すべての子供に4年間の初等教育を義務化する学制を公布した。すべての国民に教育を施すことが潜在的な反体制分子を生むリスクはあったが、国民を無知な状態に留めておくことのほうが、政治・経済権力を構築しようという自分たちの事業にとってより大きな危険となるはずだと判断し、意識的にこのリスクを冒した。
・小学校を運営する経費は国税である財産税に10%の地方税を加算徴収することで賄われるものとされ、当初は納税者の反発に会い、就学率は25-50%に満たなかった。しかし19世紀の時点では、学校に通うことは天皇の臣民が果たすべき義務として広く受け入れられるようになり、就学率は90%以上に達した。
・義務教育が定着するにともない、人の(すくなくとも青年男児の)人生の進路は出発点では開かれているべきであり、個人の才能と努力を反映すべきだとする考えは、日本でもっとも基本的で広く共有された社会的価値観のひとつとなった。

「八月の末方であったと思う、松村から手紙が来て、容易ならぬ事件を報道した。其頃の僕等にとって容易ならぬ事件と云っても高が知れたもの。松村は来月を以て東京に遊学すると云うのである。得々の状は乱筆御判読も出来兼ぬる縦塗横沫の書翰紙に溢れ、さらぬだにすわりの悪き彼が字はまさに飛舞の致を極めて居る」(徳富蘆花『思出の記』)

政治秩序と天皇
・新政府では天皇を政治秩序の中心に据えたものの、かれらの間では天皇をどう処するかについての意思統一はなかった。日本の君主制が近代的な制度であるというイメージを打ち出すために、皇后と女官たちは洋服を採用し、軍服で書かれた肖像画が全国の学校に掲げられることとなり、天皇のイメージとして定着した。

豊かな国づくりに向けて
・大久保利通の発案になる地租改正条例を公布し、財源の安定確保を図るとともに、個々の土地所有者と国家のあいだの経済関係および土地所有者間の関係を変える意義があった。地租改正は米価の変動にともなうリスクとチャンスを、政府から納税者である農民へと転化した。
・政府が鉄道網の建設を主導し、「鉄の馬」と呼ばれた鉄道は、時間、距離、社会行動についての人々の感覚を変えた。日本の歴史ではじめて、時間を30分単位ではなく分刻みで数えることが重要となり、時計の利用が加速度的に普及した。
・明治政府はさまざまな事業体の設立・運営において、きわめて直接的な役割を演じた。民間の投資家たちには近代的な工場を経営しようという企業心も知識もかけていると確信しており、また英仏による中東の植民地化の突破口となったのが現地の支配者への融資だったことを知って以来、外国の投資を受け入れることは危険だという確信も持っていた。ただ、多額の費用を投じて20か国以上の国から数千人の「お雇い外国人」を雇い入れ、報酬面では非常に優遇された。これらの直接事業は、将来のさらなる成長に向けた踏切版としての役割を担った。

世界への姿勢
・新政府の役人は1850-60年代には攘夷論を熱心に主張していた者が多かったが、かれらが態度を変え始めたのは、典型的には野蛮人を打ち負かすには連中の手口を学ぶ必要があるとして、外国の技術と影響力とを急場しのぎの方便として受け入れたのがきっかけだった。その後、岩倉使節団の18か月の海外視察によって、欧米型の公共的な機関や施設が相次いで導入されることになった。そもそも岩倉使節団を派遣した最大の狙いは一連の不平等条約の内容改定であったが、まず日本が法律・政治制度をヨーロッパ並みに引き上げることが先決であり、それまでは条約改正について考えるつもりはまったくないというのが欧米諸国の姿勢だった。
・国内では西郷隆盛らの熱狂的な愛国者たちが、日本を当然なるべくしてなったアジアの盟主とみなし、盟主たる日本は未開の隣接諸国を近代化に向けて、欧米との平等に向けて導くべきだ、とする見方が広まった。

第6章 参加と異議申し立て

「いったい天下の人民のうち、圧倒的に多いのは愚民であり、有識者ははなはだ少ない。その愚民の心がいったんそれに傾いてしまえば、もはや天下を治めることは不可能となる。…むかしキリスト教が西日本に入ってきたとき、いたるところで愚民をたぶらかして蔓延し、百年にもならぬうちにその狂信者となって殺されたものは28万人にのぼる。邪教が民心に入りこむのがいかに速いかがわかる」(会沢正志斎『新論』)

政治的言説と論争
・すでに江戸時代の末期には、学校や勉強会、詩歌のサークルなど文化活動を行う集まりが、農村で人々の政治意識を覚醒するうえでとりわけ重要な機能を果たしていた。新政府は民衆のエネルギーを活用すると同時にコントロールしたいと強く望み、「五箇条の誓文」を発表した。政府外の活動家たちは誓文の実現に大きな期待を抱いていた。
・活動家たちの最大の関心事は、立憲体制内で議会と民衆の代表がどのような位置を占めるべきかという問題だった。これらの問題をめぐる論争は新聞で展開された。
・欧米の書籍の翻訳と出版も普及し、ジョン・スチュアート・ミルやジャン=ジャック・ルソー、ハーバート・スペンサーが熱烈な読者層を獲得した。
・「明六雑誌」は欧米思想の日本への紹介と普及に大きな役割を担い、創設に関わった福沢諭吉は主著の中で、実学を重視し、因習にとらわれずものごとを自由に深く考える探究の精神と、国民相互間の自立と機会均等を重視する精神とを特徴とする、新生日本の未来像を描き出した。
・福沢をはじめ西周や中村正直などの著作の根底にあったのは、「文明化」と「開化」に向かって「進歩」することが価値あることだとする信念だった。彼らは当時の欧米の国民国家こそ世界文明の最先端に位置していると考え、日本国内で個々人が懸命に努力することを重視したが、それは、そのような努力を通じて人々が個人的な幸福を増進するという理由よりも、国を進歩させ国力を増進させることに貢献することになるという理由からだった。

自由民権運動
・1970年代から80年代にかけて、こうした考え方と民衆の政治参加の意欲・社会の刷新への期待が高まり自由民権運動が起こる。運動家たちの関心事は、①どのような新しい政治構造が採用されるべきか②誰が参加するのか、ということであり、ほどなく憲法を起草する必要性へと絞られていった。政府内の指導者たちも、政府外の運動家たちも、憲法というものは、個人の自由や幸福、あるいは安寧を保証するためのものではなく、国民のエネルギーを抑制しつつ富国強兵を目指す偉大な国家的使命のために動員するという原則について規定した文書とみなしていた。多くの民権家たちは、支配者には慈悲深い統治を行うべき義務があるとする儒教的な観念と、政治問題における天賦の人権を強調する西洋的な理念とを融合させた考えを抱いていた。
・当時の日本では、社会の草の根レベルできわめて多くの人々が自然発生的に活動していた。彼らは勉強会に参加して、陳情書や声明文を読んだり、論じたり、起草したり、さらには憲法の草案を練ることさえした。
・政治論争に加わったすべての陣営が、天皇を元首として政治秩序の中心に据えたいと望んでおり、天皇の権限と扱い方をめぐる議論が民衆レベルでも活発に戦わされた。
・政治運動が質的にも量的にもピークに達しようとしていた1881年1月に、明治政府が、1890年までに憲法を起草して発行させる旨の勅諭を天皇に発表させた。その背景には井上毅の「二、三年のうちには人々は成功を確信するに至り、われわれがどんなに雄弁を弄しても世論は政府の提案する憲法草稿を退け、最後には民間の私擬憲法が勝つことになるだろう」という進言もあった。
・民権運動のキャンペーンは、第一に政府を一連の抑圧的な検閲法規の採択という方向に動かし、第二に政府首脳たちにプロイセンの憲法に範をとった保守的な健保を起草すべきだ、という決意を固めさせた。プロイセン憲法は、国王とその配下の大臣たちに大きな力を与える一方、国民の権利を制限していた。

士族反乱、農民蜂起、新興宗教
・士族の反乱の背景には、倒幕運動に参加しながら、新政府の意思決定の過程から排除されることへの怒りと失望があり、一部の者たちは政治参加についての新しい規則を起草する道を選び、一部の者たちは刀と鉄砲を手に自分たちの主張を押し通す道を選んだ。ともに対外政策に関しては非常に好戦的な態度をとっていた。旧士族の特権回復を主張して西郷隆盛が起こした西南戦争の大敗は、もはや古い社会秩序への後戻りがあり得ないことを明らかにし、また新政府に武力で抵抗しようとしても無理だということが、広く認識するにいたった。
・政府の経済政策によるデフレに対する、農民による抗議行動がもっとも激しかった地域は、農業の商業化が進行していた地域、すなわち農民たちが国内・国際市場の変動にたいしてもっとも脆弱になっていた地域だった。
・新興宗教の教えは、来世での救いを期待して現世での自制を説くことが多かったが、徳川期の新興宗教もそうだったように、富の分配の平等化即刻実現する「世直し」というかたちで、現世における救済についてのお告げをとくものもあった。後者は政府の事務所を襲撃して打ち壊す事件を起こした。

女性の参加
・男女の適切な役割と権利はどうあるかをめぐって、精力的な議論が政府内外で戦わされたが、この議論は女性をどう扱うべきかをめぐる男たちのあいだの議論としてはじまった。「明六雑誌」に寄稿した論者たちは、男女それぞれ別個の領域で男女を等しく尊敬することと、政治的権利あるいは社会的権利の平等を尊重することとを、注意深く区別した。彼らは両性間の対立と分断を招き、社会の調和を損なう結果になることを懸念していた。
・西洋の思想が広がるにつて、公の場での男たちのあいだの議論や、さらには政府内の議論でも、女性は政治的な役割を担うことによって国家に貢献できるはずだとする意見が、一定の支持を獲得するようになった。けれども女性の政治活動の交代をもたらした責任の多くは、一連の法律を制定した政府にあった。

「一組ずつに組み合った男女が、つま先立ち、音楽に合わせて、次から次へと、まるでこま鼠が回るように回った。…おしなべて礼節に欠ける国とはいえ、一国の宰相が、外国の使節をこのような催しに招待するとはなんたることか。無礼を咎めれば際限ない。礼節も儀礼もないが、ただ親密の表現と見なして許し置くことにした」(村垣範正)

条約改正と国内政治
・各国の代表団は、日本が関税自主権と開港場におけるほぼ全面的な主権を回復する代わりに、日本の領土を外国人の居住と商取引に全面的に解放する、という協定案の起草作業を行った。
・不平等条約改正の難航は、活動家たちに根強い排外意識と天皇への忠誠心を増幅させた。そして、このような古い考え方と、国民に自由と政治的権利を保障する政治体制だけが国力を高め、国際的な尊敬を勝ち得るという新しい信念とを結合させていた。

明治憲法
・政府が憲法の最終草稿の遂行作業を進めていたさなかに、条約改正の内容に対して激しい反対運動が生じ、その結果閣僚が二人も退陣に追い込まれるという事態に直面して、明治の支配層は民衆を政治に参加させることがいかに厄介で危険かということを思い知った。1889年2月11日、憲法は天皇からかれの臣下たる首相と国民への贈りものとして下賜された。
・憲法は国民の政治参加を最小限に抑制する意図をもっていたが、議会の影響力の大きさが予想以上であり、選挙民によって選ばれた議員たちの意思に留意せざるをえなくなった。

第7章 社会、経済、文化の変容

地主と小作人
・農村社会は明治期日本の経済的転換において、決定的に重要な役割を担った。増加する人口と都市への移動に伴う食糧生産を、国内の生産量を増加することによって支えた。農業生産性の向上は、①従来は先進地域だけに限定されていた優れた農法が広範囲に普及したこと②新たな作物や新たな種子が導入され、さらに多くの肥料が投入されるようになったこと、が要因となってもたらされた。生産性の上昇は、工業技術と軍事技術を輸入するための貴重な外資を確保することを可能にし、1890年前後には政府の税収の半分以上が地租によるものだった。さらに、茶と絹製品の輸出、海外への移民によって外資を獲得することができた。これらの産業は農村地帯の小規模な工場で行われ、経営者は企業家精神に富んだ農村エリートたちだった。
・明治政府は数々のプロジェクトへの出費と、西南戦争の鎮圧の出費によって深刻な財政赤字に陥った。大蔵卿の松方正義の厳しい財政・金融の緊縮政策の実施により松方デフレと称される事態が生じた結果、何千何万もの農民が債務不履行に陥り、土地所有権の大規模な移転が起きた。

産業革命
・初期の工業化を主導した産業は①生糸・綿糸を中心とする繊維産業②石炭と鉱物を採掘する鉱業③輸入出品の運搬を補助する鉄道産業だった。急速な工業化は広範な「企業勃興」を引き起こした。
・形成途上にあった日本の資本主義システムの最大の特徴となったのは、財閥と呼ばれるいくつかの独占的企業体で、他分野への多角的な展開という点では諸外国に並外れていた。財閥の台頭は、①先進諸国に追いつき、国際的に競争できるようになるために迅速に資本、労働力、技術を動員できるのは大きな組織だけだとする「後進性」②徳川期から引き継いだ経済面と人口面における複雑なネットワークの2つが要因として考えられる。
・日本の経済成長は、政府のイニシアチブと民間のイニシアチブのダイナミックな相乗作用に支えられた。①国家が経済のインフラ整備に積極的に関与したこと②生産性の低い労働者を安価な賃金で働かせたこと③民間部門における競争や経営意欲が並々ならぬものだったこと、が挙げられる。
・こうした発展を支えた国家の官僚たちや日本の資本家たちは、市場の創造性を手放しに礼賛したわけでも、利益追求の自由を賛美したわけでもなかった。彼らは儒教の概念を援用して、「無私の」利益追求というべき考え方を打ち出した。

「自分を犠牲にしても、国家の将来のため、社会人類のために働くという覚悟は、事業に成功する極意のようなものだと私は断言する」(渋沢栄一)

労働力人口と労働条件
・女子労働者の多くが担った負担は大きく、劣悪な労働環境により結核が蔓延することもあった。年間の離職率が100%を超えるのは当たり前のことだった。彼女たちは厳しい規律や懲罰的な能率給に暗く悲惨な思い出を抱いている一方で、女工仲間との楽しかった交友や、農村の実家で食べていたよりもましな食事を腹いっぱいとれたことについては良い思い出を抱いている。
・若い女性が高い収入を得ることのできる稼ぎ口のひとつは売春で、女性の就業先としては繊維産業に次ぐ規模を誇っていた。売春は法律で認められていた。

事務職員柳なら 女詩人は花すみれ
女教員は蘭の花 工女はヘチマの花かいな
製糸工女が人間ならば トンボ蝶々も鳥のうち
飛騨の高山コジキの出場所 娘は製糸工場(きかい)で血の涙
(女子工員の即興歌)

・男子労働者は1897年に日本最初の近代的労働組合を結成し、最盛時には5400人の組合員を擁した。ストライキや労働組合の結成は、賃上げを願う気持ちだけでなく、人間としての尊厳を否定されることに対する怒りを反映していた。

教育の普及
・1880年代を過ぎると、文部省は国家主義的、道徳主義的なカリキュラムを重視する方針を打ち出した。1890年に天皇の名によって発布された教育勅語は、このような保守的な教育改革が行き着いた最高到達点を示すものであり、社会と国に尽くすことを学ぶことこそが教育の目標である、という政府の信条を反映していた。政府の高官たちは、個人の自発性を重視しすぎた明治初期の教育制度の下ではこの目標がないがしろにされてきたと考えた。
・教育勅語は、人間関係に関する儒教の核心的な徳目を列記しながら、欧米のナショナリズムとも相通ずる国家への忠誠を呼びかける矛盾する表現も盛り込まれた。これらを結びつけたのは、これらの価値観を天皇とその祖先に直結させる文言だった。
・教育勅語は発布後やがて、神聖で冒しがたい文書として驚くほど強いオーラを纏うにいたった。教育勅語の謄本は全国すべての学校に配布され、天皇のご真影と一緒に祀られ、儀式の日には校長などが一堂に会した生徒たちにこれを捧読した。生徒たちにとって漢語だらけの勅語をきちんと理解するのは難しかったが、日本は天皇を戴く特別な国であり、天皇の臣民たる者は、下は両親から上は天皇にいたるまで権威ある偉い人々にしたがわなければならないのだ、という基本的なメッセージを理解することはできた。

文化と宗教
・「文明開化」の掛け声の下、政府関係者、教育者、芸術家はこぞって、国民の文化生活のあらゆる側面を「西洋化」することについて究明をはじめた。
・1880年代半ば以後、いわゆる伝統的日本文化の保護ないし復活を目指す取り組みが、西洋志向の改革者たちとの対決ムードの中で登場した。アーネスト・フェノロサと岡倉天心の考えは、東洋と西洋のあいだの「正」と「反」の相互作用のなかから、より優れたグローバルな文化としての「合」が生まれてくるはずだ、とするヘーゲル流の弁証法的な視点に立って、保守主義者たちのように喧嘩腰でないかたちで論陣を張った。
・西洋から輸入されたさまざまな文化形態と土着の文化形態との出会いと相互作用を通じて、古くからあった文化形態の多くは劇的な変貌をとげた。のちの時代の人々は、変容後の文化形態を、「伝統的」であるとか、「まさに日本的」であると見なすようになった。
・政府は、神道、すなわち「神ながらの道」を、国を導く国教とするむねを宣言し、神道と新たに重要性を備えるにいたった天皇家との密接な関係を強調し続けた。神道こそはすべての日本人を統合する古くからの宗教だとする認識は、その認識を普及させるための諸制度ともども、明治の近代的な国家の建設者たちによって新たに作り出されたのである。

日本人としてのアイデンティティ
・明治期の日本で目がくらむような速さで進行した変化に対する恐怖心は、①政治秩序が混乱することへの恐れ②ジェンダー秩序が混乱することへの恐れ③「われわれ日本人とは何者か」という問いへの答えを求めたいという文化的な関心、という三つの領域で表面化した。
・政治秩序が混乱することへの恐れは、学校での軍事教練の強化をもたらしたし、教育勅語における国家のための犠牲精神の強調をもたらした。ジェンダー秩序が混乱することへの恐れは、1890年に政府が女性の政治活動を大幅に制限する決定を下したさいにも浮上した。
・近代化に向けていっせいに突進していた1870年代初めから80年代初頭までの時期に大勢を占めていたのは、変化を受け入れることこそを愛国的日本人としての不可欠な要件と見なす見方だった。しかし、改革を目指す様々なプロジェクトの背後に潜んでいたのは、日本国内の住民と国外の人々とを分け隔てする理論だった。この理論から、一連の問いかけが派生した。われわれがこのような変革を行っている究極の目的はいったい何なのか?われわれは鉄道を建設したり、ヨーロッパ式の憲法を採択しているが、日本人に固有なアイデンティティを持っているのか?持っているとしたら、それはいったい何か?
・こうした一連の恐怖や不安は、天皇に政治的・文化的な拠りどころを求めることで対処がはかられた。政府は政治秩序を安定させるために天皇のイメージと発言を利用する、という確固とした方針を固め、国家と天皇への服従は、世俗的な義務の中で最高のものであり、私的な道徳原理や進行を超越するものとされた。
・明六社の中村正直は女性の新しい理念として「良妻賢母」のスローガンを打ち出したが、この発想自体は必ずしも完全に反動的とか制限的というわけではなかった。新しい時代に対応してきちんと子育てをするためには、母親にも読み書きが不可欠となり、女性が教育を受けることが必要だとする点でこのスローガンは斬新だった。

第8章 帝国と国内秩序

帝国への道筋
・1870年代と80年代の日本の対外活動で、最重要の焦点となったのは朝鮮半島である。山県有朋の戦略論的な見方によると、朝鮮は「主権線」(日本の領土)を守るための「利益線」(緩衝地帯)の一環をなすべきものと位置付けられていた。
・朝鮮をめぐる中国や朝鮮内の反対派との対立が繰り返された25年間のうちに、日本のマスコミと反政府勢力は、日本がアジア諸国の先頭に立ってこれら諸国を教え導き、軍事的に統率することによってアジアの団結を実現すべきだという汎アジア連帯というビジョンを振りかざすことになる。
・政府では国内秩序維持のための軍事力としての機能と、帝国建設の手段としての機能の両方を兼ね備えた強力な軍隊を建設するプロジェクトが進行しており、山県は軍の統帥機構を、可能な限り議会や国民の統制を受けにくい形に作り上げた。
・1894年に生活苦と外国の進出に対する朝鮮農民の反乱(甲午農民戦争/東学党の乱)が起こった。朝鮮政府が清国に反乱軍鎮圧のための出兵を要請したことを契機に、日本は朝鮮に出兵し、日清戦争が勃発した。日清戦争は、朝鮮に対する支配権をめぐる日中間の戦いだった。

「さまざまな段階の統治を体験するのにイギリスは約800年、ローマは約600年を要したが、日本はそれを40年でこなしてしまった。私には、日本にとって不可能なことがあるとは考えられない」(チャールズ・ベリズフォード卿)

・日本の民衆の間では、日本の戦争行為を「文明」のためのもので正当なものだと賞賛する声が高まった。領土拡張政策が国民を一体化させる効果を生んだのは、まさに政府の狙い通りだった。
・日清講和条約をもとに、日本は朝鮮政府を思い通りに操ろうとしたが、日本に支配されることにも、改革が目指す方向についても、快く思わなかった朝鮮の指導者たちは、ロシアに支援を求めることで外国勢力同士を敵対させる、という策を取り続けた。その後数年間で日本とロシアとの間で外交交渉が試みられたが、日本の主要な知識人たちの間で、妥協的な対ロシア交渉を排し武力対決を求めるという主戦論の主張が次第に強まっていった。
・日本を帝国主義国となるように駆り立てた主要な要因は3つある。
 ①国学ないし水戸学に根差す土着の知的伝統の存在。神国である日本は世界において特別な地位を占めるべきだという主張であり、明治期日本の新指導者たちも、アジアで日本の地位を確立するにあたって、そしてまた国内秩序を支える屋台骨として天皇を祀り上げるにあたって、こうした態度を身に着けた。
 ②明治の指導者たちが受け入れた、国が進む道としては、帝国となるか帝国への従属か、のいずれかしかなく、中間の道はありえない、とする地政学的な理論。
 ③日本の有力者たちが、海外、とくに朝鮮半島で大きな経済的権益をもつにいたったこと。
・日本を優越視する独断的な世界観は、当時西欧で非常に根強かった人種差別的な考え方と接する中で、よりいっそう強められた。

「(神州は)固より大地の元首にして、万国の綱紀なり」(会沢正志斎『新論』)

帝国、資本主義、国家建設の背景
・1890年代から20世紀初頭にかけて、民衆の参政権に立脚する議会政治の実現を要求する力強い運動が展開された。世紀の境目の前後に日本の支配者たちが整えた安定化のための装置は、かれらの狙いどおりに完全に国民を結束させる効果を発揮できなかった。国内の混乱は①帝国建設に向けての邁進②産業革命③国家建設の政策、による新たな徴税や賃金労働者の増加、また新興の事業者への多額の納税義務に対して参政権が与えられなかったことなどが要因となり発生した。1890年代になると、毎年大都市では何百もの合法的な政治集会が公然と開催されるようになり、一般参加者のうちの大部分を占めつつあったのは、それまで視野も狭く、政治への関心も薄く、そして多くの場合貧困にあえいでいた、日本の平民男女だった。

激動の議会政治
・特権的できわめて保守的な人々によって構成された貴族院の目的は、衆議院から自由と民権の拡大を求める声があがった場合に、それを抑制する機能を果たすことにあった。
・1890年に行われた衆議院の第一回総選挙の結果、300議席のうちの171がかつての自由民権運動の活動家たちからなる立憲自由党と立憲改進党によって占められた。その後数回の選挙では、政府側は天皇が事態を「憂慮」していることを引き合いに出して、議員たちに政府を支持するように迫ったり、警察による選挙への暴力的介入や、贈収賄の手段に訴えることが多かったものの、いずれも野党側が過半数の議席を獲得した。
・1904年頃から政友会の実質的なリーダーを務めていた原敬は、自分の党が政府の予算案に賛成するのと引き換えに、党員のための政府内のポストを獲得し、党員の出身地域のインフラ敷設のための公共支出を取り付けるという目標を実現した。原は、以後今日まで絶えることなく続く日本型の選挙区への利益誘導の慣行を完成させる元祖となった。
・明治天皇の治世が終わった時点で、もはや政治支配者たちも選挙で選出された議員たちの力を無視できなくなったこと、そして政友会というひとつの党が議員の過半数を支配する強い結合力をそなえたシステムを形成するに至っていたことが明らかになった。

都市民衆騒擾
・大正政変の特徴となった暴動を背景に、原は「憲政」擁護を主張する強硬派の期待に背く妥協を受け入れた。原は社会意識に目覚めた大衆が政治目的を絞って立ち上がることを強く恐れていた。原としては、大衆やその指導者たちを勇気づけるようなことを避けたかったのである。
・ポーツマス条約に抗するための日比谷焼打ち事件に参加した人々は、帝国と天皇への支持を大声で表明してはいたが、同時に、天皇につかえる大臣たちが、いわゆる「人民の意志」を無視していることを厳しく糾弾した。彼らは集会において、減税やアジアにおける覇権や西欧から尊敬されることをはじめとする、国民と天皇の共通の願いを尊重するような制度の実現を訴えた。

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」(夏目漱石『こころ』)

ナショナリズムの醸成
・20世紀のはじめから1910年代の末までの期間に、内務省、陸軍、文部省という三つの組織が中心となって、権威への忠誠の強化に向けた取り組みがおこなわれた。町村の合併や、神社の統合、中央集権的な組織への参加の奨励や、教育カリキュラムの変更を行った。その結果、社会秩序を維持し補強することを目的として、政府は地域社会の奥深くまで影響力を及ぼすようになった。

「国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、こまた国家のために便所に行かせられたりしては大変である」(夏目漱石「私の個人主義」)

では、そんなところで。

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