見出し画像

誰も愛したことないんじゃないのかな、私は。

今までの人間関係のこと(特に恋愛や婚姻関係のこと)を、ずっと何度も振り返り続けているのだけど、私はいつも自己犠牲的な重い愛情表現をしがちだったなぁと、最近、特に強く感じる。

自己犠牲的な態度で示す愛情表現って、結構「私のこと大切にしてよ、愛してほしい(こんなにしてあげてるんだから)」みたいな本音がすけすけで、健やかなメンタルの人からしたら居心地悪くってたまらないだろうし、むしろ居心地良いと感じる人は大抵クズだよな、と。
客観的には分かってたけど、やっと"自分ごと"として、感覚をインストール出来たみたい。(大人にしちゃ遅いけど、まぁ分かっただけエライでしょ!と思うことにする。)

相手の行動や思考をやたら把握したがる感情が強い人間だったけれど、実際問題、必要以上の把握って"支配"で、自由を奪う行為だよなと思えるようになった。

本当は、相手が言葉で伝える努力をしなければならなかったことを、経験則や様子なんかで先回りして、相手がラクになるように立ち回って世話を焼きたがる癖もあった。心の中に、歪んだ母性みたいなものがあったなぁって思う。

必要以上の干渉や、自他境界を失くした状態でお互い支配し合うことが、いかに不健康な関係だったことか。愛情を交わす関係の意味自体を履き違えていた気がする。
自分を大切に扱うことや、相手と自分の尊厳を尊重して過ごすということが、やっと少しずつ分かってきたみたい。

私には私だけの線があって、相手にもその人だけの線があって、その線を越えたい!!と感じたとしたら、それはもう健やかな関係じゃないね。
その人の持つ線の形や、お互いの間にある距離や空気感ごと居心地の良い人がいたら、きっとそういう人と仲良く過ごせる日常を大切にしていくべきだし、平和な毎日を幸せに過ごすための重要なポイントなんだろうなと思う。

そのことに気付いたら、今までの私は、自分を含めて誰のことも愛したことがなかったんじゃないかなぁと思うようになった。

自分を愛しているからこそ守りたい・守るべき線があって、自分の境界線の中を自分自身の力で充実させることが出来ていれば、相手を尊重した距離で付き合うことができるはず。

精神科のカウンセリングを20回以上受けて、33歳にしてやっと、かなり重要な感覚の存在に気付いて、ゼロベースに近いこの地点から新たに構築を試みるのは結構ボリューム大きいな…と慄いているところ。

でもまぁ、重要な他者がこの先の人生で現れようが現れなかろうが、私自身が自分の意思で自分の気持ちを充実させていくことが私の人生の主軸だから、もうその事だけは迷わずに行こうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?