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【取材した怪談話150】青い作業服の男

本エピソードについては、怪異の本質的部分を変更しない程度で事実を一部変更しています。人物・場所の特定を防ぐためです。

・・・

宏明さんは、法律関係の事務所で弁理士として働いている。弁理士とは、特許、商標などの知的財産に関する国家資格者だ。彼は主に、中小企業の特許戦略のアドバイス、出願や訴訟の代理などに従事していた。

十年ぐらい前、とある中小企業から知的財産に関する無料相談の依頼が舞い込んだ。無料相談の場合は通常、企業の人間に事務所まで来てもらうケースが多いのだが、諸々の事情が重なり、宏明さんがその企業に出張して相談に応じる運びとなった。

宏明さんは男性の助手を連れて、その企業に赴いた。創業からかなりの年数が経過しているであろう、町工場だ。工具類も年季の入ってそうなものばかりだった。二階の会議室に案内され、そこで経営者と従業員一名と面談した。ふたりとも、青い作業服を着ていた。

仕事は、つつがなく終了した。
帰り際、宏明さんと助手はふたりとも尿意を催したため、工場内のトイレを借りることにした。「廊下の突き当りを右ですので」という従業員の案内に従って、ふたりで向かう。

やや建付けの悪い男子トイレのドアを開けると、思わず鼻をつまみたくなるほどの強烈な臭気に襲われた。室内は、左の手前に小便器1つ、左の奥に大便器1つだけの狭いスペースだ。先に宏明さんがひとりで入って使うことにした。

汚れがこびりついた小便器で用を足しながら、宏明さんはキョロキョロと室内に視線を巡らした。壁のタイルは部分的に黒ずんでおり、天井には蜘蛛の巣が張られ、ほとんど手入れがされていないようだった。

その時、視界の右端に青色の作業服を着た男性が見えたような気がした。奥の大便器の個室から、従業員さんが出てきたのだろうと思った。
その直後に用を足し終えた宏明さんは、挨拶しようと思って振り向いた。

しかし、室内には誰もいない。
あれ。見間違いか──。
首をかしげながら、彼は洗面台に向かう。

視線を落として水道の蛇口を捻り、手を洗い、再び蛇口を捻る。
視線を上げて洗面台の鏡を見た時、宏明さんは息を飲んだ。

鏡には、さっきの青色の作業服の男が映っている。
今度は、鏡越しにはっきりと見える。
その男は後ろ向きで立っており、顔つきや表情は窺い知れない。青色の帽子も被っている。

怯んだ宏明さんは、慌ててトイレから飛び出た。入れ違いに、助手が入っていった。依然として寒気に包まれながらトイレの近くで待っていると、ほどなく助手が出てきた。「お待たせしました」と出口に向かおうとする助手を、宏明さんは引き留めた。

「ちょ、ちょっと待て。中で何か見なかったか」
「何かって、何ですか」
「作業着の人いただろ? 青い服の」
「いえ、見てませんけど」
「もう一回入って、見てきてくれない?」
「嫌ですよ。臭いし」
「なぁ頼むよ。気味悪いんだけど。その人、洗面台の鏡に反射して映ってたから」
「はぁ?」

理解ができないという表情で、助手は続けた。

「鏡なんか無いですよ」

思いもよらぬ返答に、宏明さんは言葉を失った。弱弱しい反論を口から絞り出すのが、精一杯だった。

「いや、鏡あるだろ……」
「じゃあ、見てみてくださいよ」

口を尖らせながら、助手がトイレのドアを開けた。

恐る恐る、宏明さんは中を覗いてみた。
洗面台に、鏡は見当たらない。
かつて鏡が設置されていたであろう跡だけが、くっきりと残っていた。


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