謙虚な創造
今「ガウディとサグラダ・ファミリア展」と言うのが開催されているらしい。スペイン、バルセロナの未完の聖堂、サグラダ・ファミリアで有名なアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)の設計した建築…。
(名前をよく見るとGaudíの最後の“i”にアクセント符号がついている。つまり本場では最後の“dí”音節にアクセントを置いて発音する。)
りなるさんの紹介で知りました🙂
と言うことで、今回はガウディさんから想起された雑記です。(雑記なので纏りはありません。また引用多め。)
美と創造
そのポスターに、ガウディの言葉と思われる…
「人間は創造しない。人間は発見し、その発見から出発する」
と書かれている。こういう謙虚な態度は、
「自然はわたしの師だ」
というところから来ているのでしょう。
宮沢賢治も似たようなことを述べています。
賢治の場合は、自然は「師」と言うよりも友人かもしれない。もらってきたものをその通り書いたというのですから、これもまた謙虚な態度です。
横道にそれるけれど、日本にガウディのような芸術家はいるのだろうか。建築家はよく知らないけれど、芸術家として個性の強さなら多分、岡本太郎が相当するかもしれない。もちろん芸術のタイプは全然違うだろう。「太陽の塔」や大壁画「明日の神話」をみて、皆さんはどう感じるでしょうか。ガウディと岡本太郎を比べること自体無茶なことだろうか、それとも、それも一興あるかもと言うだろうか。芸術に対する情熱はそれほど変わらないと思うけれども、感性についてはどうだろう。あるいは幻想芸術という視点からどうだろう。岡本太郎なら何ならピカソと比してもよいかもしれない🙂。しかしわたしには二人を比較できるほどの教養がないので皆さんにお任せます。(責任放棄😅)
冒頭に紹介したガウディ展公式サイトにこのように記されている。
ガウディにとって創造という言葉が使えるのは自然(神?)であって人間ではないのだろう。人間はただ、この自然の中の法則や美を学び、そのハードウェアの枠組みの中でその応用〜造形という表現〜を探っているに過ぎない。しかし、その応用の可能性は無限であるけれども…。
謙虚な態度で美を探求する、いや探求するという思いもなく美を創作することもある。そこにはもう芸術家としての名前も必要なくなる。柳宗悦が提唱した民芸(民藝)がそれである。究極の謙虚さですね。
ところで「発見」と並んでよく使われる言葉に「発明」がある。しかし発明と発見は異るものなのだろうか。
今日書いているこの記事自体、発見から出発したわたくしの人生という過程のなかで、見つけられ生み出された謙虚な創作に過ぎない。
■見出し画像の著作権
「Bernard Gagnon - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9029499による」
今日のおまけ
The Longing (Storm Seeker版)
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