本を読む、音を聴くー未完成5

タルコフスキーの「鏡」を観る。途中でDVDがスローになったり、早送りになったり、挙句にはパソコン自体がフリーズする。でも、最後まで観る。いまアンゲロプロスとタルコフスキーをはじめて観ている。映画の理論・評論を学ぶ学校に居たにも関わらず。というのはアンゲロプロスとタルコフスキーの映画は、僕にとってはだけれど、途中でやめてからしばらくして改めて再生しても、何度観ても、美しいと思いながら、まだ今のところはという留保つきで、物語が頭にほとんど入ってこない。すらすらと流れていく映像の中で、いろんなことを考えるBGMのように機能している。これがメロドラマだとそうはいかない。音楽でいうところのアンビエントに近いのかも知れない。メロドラマを音楽で置き換えると、ことばの強い歌ってことになる。

シュールレアリスム運動については実はよく知らない。イメージのコラージュということばが出てくるけれども、まったくかかわりのない話だと思う。無意識についてもやっぱりよくわからない。ただアンゲロプロスとタルコフスキーを観ていると、頭の中にイメージが、イメージというよりは整理されないままにことばが浮かんでは消えていく。それをノートに書きつける。単語や数行の走り書き。「鏡」では3ページ、ノートに走り書きをした。まとまりのないことばたち。

例えば、短絡的にいえば、アンゲロプロスとタルコフスキーならDVD-BOXを揃えたいな、と思う。むかしはいろいろと持っていた。ジャン・ヴィゴ、マルクス兄弟、ファスビンダー、それにユスターシュはボックスではないけれど「ママと娼婦」や「ぼくの小さな恋人たち」。ブレッソンの諸作もかな。いまでもVHSで、DVDにはなっていないはずのダニエル・シュミットの「今宵かぎりは…」は家にある。いつかスクリーンで観たいな、と思っているし、VHSが観られる環境ではないけれど、売れない。大体はお金に困って売ってしまったのだけれど。ブルーレイでいろいろ買い直したいし、そもそもTVやDVDプレイヤー、音楽の聴けるシステムも実は携帯とパソコン以外はポータブルのレコードプレーヤーしかない。ターンテーブルやCDJやミキサーも売ってしまった。サンプラーも。そもそも携帯の権利も失っているし、無料でむかし配られた微弱なwifiルーターがなければこうして文章すらアップできない。

Gさんは、お金に換える才能がないんですよね…といわれる。課題。お金がすべてじゃない、とも思わない。貧しさは簡単に人格や関係を変える。お腹が空いても食べるものがないだけで、苛々している自分がいるから尚更。20歳くらいまではある程度裕福だった家庭が、お金のことでバラバラになっていく。いまでは母親以外の家族や親戚が生きているのかさえわからない。そこをいずれは小説にしたいと思っているけれど、野球少年だった幸せなかつてから時代とともに移り変わっていく野球と、小さな家庭のおはなし。だけれどまだ優先して描きたいことではない。お金に関しては、精神的にも11月からずっときつかった。ようやく4月末あたりかな?持ち直してきた。少しだけ、徐々に。また良い方向に動き出す。

ただ、これはDISではなく、お金に関していえば、考えていることがある。DJについて、音楽について。あるひとにむかし2万円かな?何度かイベントに誘われて貰っていた。凄く助かった。だけれど、どのタイミングかは忘れたけれど、そのギャラが数千円に減らされた。ギャラについては僕は一切、口にはしない。自分にとって価値があると思えば無料でもDJをする代わりに、そのあるひとが何年か経て、何万円でも払うからまたDJしてよ、という申し出は断った。ここのところは決して、ノーギャラでも出る、という意味ではない。やっぱりお金のはなしではない。ただ、何をするかと同時に何をしないか、ということだけを決めている。あるいはあるイベントに出た。アマチュア、というよりは機材を触ったこともないひとたちのイベントで、でも僕にとっては凄く思い入れのあるイベントだった。好きにセレクトして曲をかけ、思いおもいに時間を過ごし、お酒を呑み、はなしをする。あるとき、有名な方が来て、そしてステージに立って歌った。僕はその時間だけ、そこを出た。外にいた。家に帰って、持っていたその方のCDは処分した。これは、そう、個人的にはとても大切な音楽のはなし。音楽とひと。あるいは凄くお金をオーディオにかけているひとを何人か知っている。SP盤を集めているひと、家を建てるのにまず屋根を設計して音の鳴りを決めるひと、まるで目の前でジョアン・ジルベルトが歌っている姿が浮かぶ、本当に幸せな時間だった。あるいは、どれだけお金をかけても、鳴りが良くない場面にももちろんいた。考えさせられた。ある作家の骨董についての粗い引用をする。高いものだけを集めても、決して審美眼は鍛えられない。骨董屋に行って片っ端から高いものだけを買うのでは、決してこれ!というものは集められない。オーディオ然り。これもまた付き合いのはなし。だから藝術は深い。人間が出る。ひとが出てしまう。もちろん、僕は決して綺麗には生きてこられなかったし、お金を持つ予定は見えていない。

たとえば少し前に仕事のはなしが来た。散々なことがあった。DISられてるとも聞いた。はめられた、と思って去った側はそのDISを黙って流しておけばいい。でも一つだけ。教育を、ビジネス・チャンスというひとと僕は関わりたいとは思わない。

友達がネットに記事をあげる。僕たちの世代の記事。20歳くらいでインターネットが本格的に普及してきて、就職氷河期を経てきた世代の記事。1994年に一〇代半ばだった、震災があり、オウム真理教の一連の事件があり、ゴーマニズム宣言が論壇を賑やかし、匿名の掲示板が流行り出した、世紀末を二〇歳前後で迎えた。彼やその記事を置いて、個人的な話をあと少しだけ。オウム真理教信者が間近にいたので、割とオウム真理教について考えることが多く、本も比較的読んでいた。しかし僕にとっての、オウム真理教とは何だったのか?は、佐々木中さんの「切手」を読むまでは、ときの哲学者も宗教学者も応えられていなかった。少なくとも僕の知る範囲では。いま読むとまた違うのかもしれない。そしてそのなかで求心力を持っていたのは確かにゴーマニズム宣言だった。そのゴーマニズム宣言が、匿名のネット、それもネットのなかでも、ある政治性に偏ったり、男性性の誇示や、差別の温床を生み出すきっかけのひとつになっていくのを見ていた。自戒を含めて書かねばならないけれども、ひとがことばを書き出す時、ひとがことばを使うのではなく、ことばがその発した人間を規定し、あるいはその先へと誘う。何を書くか?何を書かないか?もまた大切なことだと思う。

そしてこの出てきたことばに導かれた雑記も、そろそろ一度、終わりにしようと思う。近況といえば、睡眠剤を何度か久しぶりに飲んだけれど、うまくは効果を得ず、やめた(必ず飲まなければいけないわけではない)。少しだけ神経がひりつく。根が気分屋さんだってのもある。天気にもかなり左右される。食事や財布にも。それから、note自体、推敲せずに放りだしているので、またのちには推敲して書き直してあげることにします。何度でもいい。ある作家がいっていた。作家のモチーフなんてだいたいはひとつかふたつなんだ、勇気の出る発言だった。仕事が決まればまた髪を赤くしようと思う。それでもいまは、うん、いってしまおう。借金がある。家族だっていない。相手だっていない。でもいまは、まず、いってしまおう。

こどもがほしい!!

笑ってしまう。でも真剣に思う。

読んでくださりありがとうございます。



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