本を読む、音を聴くー未完成11

THA BLUE HERBのZAIKOでの配信ライブ「CAN YOU SEE THE FUTURE?」を観る。土曜日にリアルタイムで観ているときには、こちら側では大雨と強い風、ときおり光る雷のなか、小さな部屋を真っ暗にして、向かい合っていた。日曜日、もう一度、観る。2時間40分かな?素晴らしいライブだった。「THA BLUE HERB」と題された二枚組の去年出たアルバムももちろん何度も聴いてる。それから過去の作品も最近、ずっと繰り返して聴いていた。ボスの唇の動きがまるで目の前で見えるようだね、友達と話す。

北海道、彼らの地元のビルの屋上から中継されたライブ、圧巻だった。アメリカで起こっていることから、日本の差別・抑圧に触れ(島崎藤村・破戒からやまゆり事件について触れたあと)、演奏された「2020」という曲では、「下りていく」ということばが繰り返される。「できるだけ 楽しんで 下りていく」。例えば僕にとってそれは、橋本治や内田樹や高橋源一郎の「沈んでいく日本」とも重なって聞こえる。「2020」は「私たちはいつも後で知る」ということばで終わる。深いことば。その次に演奏された「SMILE WITH TEARS」というセカンドアルバムからの曲の間には、「Ain't No Mountain High Enough」というソウルの大名曲のサビがボスの口から引用され、繰り返される。思い入れのある「未来は俺等の手の中」があり、ネオンを眺めながらの「この夜だけは」がある。そして僕は思う。現在の日本語で歌われる、それはラップだけに限らず僕の知る限りの日本語で歌われる声のうちのボスこそが最高峰であり、別格で、それはそう、マーヴィン・ゲイやサム・クックのようで、ボブ・マーリーのようで。圧倒的だった。voice of people.一つの声にたくさんの人々の思いのつまった、そんな声。

「2020」では同時にエレキギターで弾き語り、問わず語りをしている、最近とんとご無沙汰の友達を思い出した。あいつのライブ、やっぱり観たいな。

それから僕が離れたイヴェントの三人で、同時にyoutube配信のZOOBOMBSのライブも観る。久しぶりにロックンロールのライブでゾクッとした。僕自身、ZOOBOMBSのライブを観るのはご無沙汰だったけれど、最高のライブだった。終わりのないファンキーなジャム、ファンキーなロックンロール!やっぱりずっとこのなかにいたいと思った。

先日のmixの次を決めた。ファンク・セット。ソウルとファンクのmixを撮ろう、と。それでそれを撮り終えたら、ようやくアナログ・オンリーではなくCDを使って、もっとたくさんの冒険ができる。そしたらその次は?。その次の次は?。音は旅をする。音で旅をする。別れと出会いを繰り返す。変わらない仲間、去っていく友達、死んでいったことだま、まだ鳴り止まない音とことば。また始まる。

エッセイや小説を、じゃあフィクションで作れば?といわれる。そのうちね。いままでのフィクションのアイディアをならば、一回すべて捨てて、もう1度練り込む時間と作業が必要だな、と思う。主題と登場人物とがまだ浮かんでこない。「ひらめきの夕立」がまだ降ってこない。割とこのnoteを楽しんでくれている友達に、これってノンフィクション?と聞かれる。大体はそうだね。こんなにたくさんのことが起こるんだ?いや、たぶん誰もに起こってるんだよ。だけど、それを覚えてるか、それを反芻する時間があるか、なんだと思う。良かれ悪しかれ、僕はこれだけをやってきた。まだいままでのストックをすべて出し放ってはいない。そこからだとも思う。0になったときに、何が出てくるかだと。

「ハーフ・オブ・イット」を観る。本当に素敵な映画。それこそ「キャロル」のような特別な映画になる。何度も観たくなるような。美術館や映画館に行きたくなる。本を読みたくなる。

いつだって、今日だって、誰もが初めての日で、最後の日だ。ワクワクしてきた。ありがとう。「ANNUI DUB(THANK YOU VERY MUCH MY FRIEND)」をいつかもう一度DJでかけるその日まで。その日を楽しみに。

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