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いまはもういないあの場所に、いつかいた二人の幻を見る

アルノー・デプレシャン監督の、レア・セドゥのいつわりを観る。
いまやめっきり映画館で映画を観る時間も体力もなく(ゆえ、ダニエル・シュミットもブレッソンもアケルマンもリヴェットもロブ・グリエもほとんど観られていない…)、久しぶりの自宅での鑑賞。

デプレシャンについては、いやカラックスもべネックスもアサイヤスも、コンプリートして観てるわけじゃない(いつかそうしたいけど)。
あの頃、エッフェル塔の下では良かったな。
それから、学生時代に観た(そしてDVD-BOXを買ったけれど、まだ封さえ開けていない)、二十歳の死。
当時の友人が孫引きで僕に言う。
デプレシャンは境界の作家だと。
境界…映画を語れる程には観ていないので、
そうしてレア・セドゥのいつわりを観る。
レア・セドゥは、アデル、熱いブルーから好きだったし、本作に(恐らく)言及されているシーンがある。

ほぼ会話劇で繋げていくこの作品、
中心となる作家がいて、その周りを女性たちが、
ぐるぐると夜の星のように泳いでいく。
12にわけて構成されているけれど、
その実、彼は空虚だ、なんて批評家を気取って、
いまこうして書いてみる。
さらっと観れる。嫌いじゃない。

カラックスのアネット(また観たい、大好き)にも感じたけれど、アサイヤスが実はいちばんいまは好きだけれど(というより冷たい水!からずっと)、デプレシャンも、どんどん自由になってきている気がする。

恐るべき子供たちが誰を指すのか、ユスターシュのドアを誰がノックし、誰がノックしなかったかは知らない。なんとなく、自由になってきてるなぁ、と思った。

昨日はそして早上がりさせて貰い、
ちょっとしたカウンセリング、面談。
僕がようやく建設的に未来のプランを立てているのを、喜んでくれた方がいる。
この10年で死にかけたし、死にかけたw。
未来など見えなかった。
初めて付き合った恋人に、僕はずっと戦ってきたし、戦うよ、と言ったら、
あたしだって戦いたいよ、でも怖いんだよ、と目を伏せられたことを思い出す。
けれど、いまは戦うだけがすべてじゃない事を知る。教わった、と書いた方が正確かな?。



仕事で、畑仕事なんてのがある。
雨降りの翌日だと、土から石が浮かんでくる。
僕はそれを取り除きながら、
こうして雨が降り、石が浮かんで、それを取り除いたり、耕しをしたり、肥料をまいて、あっという間に育つ野菜や花たちを見ながら、どんどんこの畑の土壌が良くなっていくんだな、と思うと、
なかなか面白い。
石をポンっとザルに投げながら。
自然って面白いな、と思う。
そしたら雨降りも満更じゃなくなってくる。

お休みに行った、近代美術館のMOMATコレクション、それもぽえむの言い分って小特集について書くつもりが、もう仕事に向かう時間だ。
レイ・ハラカミの似合う朝。
良き一日でありますように!。

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