行こう!あの夜、彼女がそう言うものだから。

初めての恋人ができたのは25歳の冬が始まろうとしていた季節で、それは人生で最も美しい時期だった。

アルバイトで入ったCDショップに彼女はいた。
入社して2日目、初めて彼女と会った日、僕は彼女と付き合うんだと、直感で思った。とはいえ、慣れない仕事…初めての接客業で、僕は入社してからずっと混乱のなかにいた。そして彼女は彼女で、退社が決まっていた。

店長に命じられて、CDショップが入っていたデパートの最上階にある金庫に彼女がレジ金を仕舞いに向かう。忘れ物に気付いたら店長が、僕に彼女のあとを追うことを命じた。先を歩いて…というよりは、ほとんど走っていた彼女を僕は必死になって追いかけた。それまでも何度も声はかけていたけれど、そんな僕の声に彼女がようやく気付いて立ち止まり、笑い出したときには、もう恋に落ちていた。
レジ金を仕舞い、ゆっくりと二人で歩いてフロアに戻る最初の会話を覚えてる。Gさんって背が高いですね?スポーツ、やってますか?私はずっとバスケをやっていて、今でも社会人のサークルに入っています。Gさんって料理できそうですよね?。初めて一緒に歩いた距離はもちろん、短くて、あっという間に終わった。

次に一緒に入った日は、彼女が退社する日だった。送別会に向かう彼女に、手紙を渡した。その晩遅くに、丁寧な文面のメールが来た。そして、そこから離れるまでの短い間、長いメールのやり取りが始まる。

付き合った日、僕にとっては初めて恋人ができた日、帰りの電車のなかで久しぶりにひどいパニック発作が出て、一駅前でタクシーに乗った。そんなことをメールで告げると、彼女が電話をしてきた。パニック発作のはなしが気付いたら、ねぇ?女の子にいわせるの?と告白のはなしになっていた。

次の日から、彼女と会社近くの喫茶店で待ち合わせて、仕事終わりから終電の数本前まで、ずっとお喋りをしていた。主に現代思想家や宗教学、それに文学のはなし。大学三年生の彼女の専攻分野だった。喫茶店で僕はごはんを食べて、それから冬の夜道を二人で歩く。繋いだ手を僕のコートに突っ込んで、また歩く。

初めて彼女が僕の家に来た日。待ち合わせの改札で、ヘッドフォンを聴きながら、改札口の開けられた窓から、空を眺める彼女をよく覚えている。駅から20分はかかる道すがら、遠いことに文句を言っていた彼女が、家近くにある公園を見つけた瞬間に、いきなり機嫌が良くなったこともよく覚えている。初めてのセックス。ブラジャーを片手で外すことが女の子を喜ばせるんだよ、と教わった。セックスのあと、煙草を吸う僕に寄りかかる彼女の汗をかいた身体。
男は車道を歩くこと、階段やエスカレーターでは下にいることなんかも彼女から教わった。

諦めていたね?でも、これは違うんだよね?。
やっと、きちんと出会えた気がする。
一緒にいると、なんか良いんだ。
拙いことばで、確かめ合った。
寒空の下、車も通らない道路で、目の前の信号がすべて青だったとき。彼女が呟いた。
行こう!。
強く僕の手を引いて、歩き出した。

幸せな時間はそれでもあっという間に終わる。
僕には初めてのことばかりで、始まったことばかりで、混乱が深まっていた。彼女自身の混乱もあったのだと思う。それでも交わすことばはどんどん相手も自分も傷つけることばに変わってしまう。分かって欲しくて、だけれど、分からないと思い込んで。離れたくて、だけれど、離れたくなくて。これだけは、この愛だけはほかのどれともちがうと思いたくて。それでも、クリスマス当日には、距離を置く決断をした。初めての恋人がいるクリスマスで、初めて彼女がお泊まりした朝。僕は距離を置くということが、一生のお別れになるのだとは、そのときには知らなかった。

それから一度だけ荷物の受け渡しで彼女と会った。頑張って。感情のないことば。2月、僕の誕生日の少し前。

しばらくして、女友達と、そんな彼女とのことを振り返って、はなした。Gちゃん、その子はね、Gちゃんに一人前の男のひとになって欲しかったんだよ、といわれた。過去からのプレゼントだった。一度倒れたあとで、彼女との時間がなければ、僕はさらに諦めていた、と思う。
同時に別れたあとに、そうひとと別れたあと、それが喧嘩別れであれ、死別であれ、僕は気付く。僕はそのひとのことを何も知らなかったのだと。彼女を失ったとき、初めて、そんなことに気付いた。

彼女は言っていた。きみがこれからたくさんの恋をすると思うと、きみがあたしにくれることばは嬉しく、同時になんとも言えないもどかしい気持ちになるの。
ときには、私はそのひとの中にある何か、それをことばにすると失われてしまう何かに惹かれるの。あなたには、それがある。

それから何年かして、彼女が結婚したことをSNSで知った。ちょっとだけメールのやり取りをした。あれから、不思議なもので、あなたの専攻だった映画の仕事に就いたの。付き合っていたときには、考えもしなかったのに。
いまでも映画のニュースで、彼女の名前を見ると、やっぱり不思議な気分になる。彼女と映画のはなしをしたのは彼女がソフィアコッポラのはなしをしたことと、21gを借りたけれど観ずに返したことくらいで。それでも当時、彼女の名前が謝辞に載っていた本と雑誌はいまでも本棚にある。

初めて、たぶんあまりほかのひとには思いつかないことばだろうけれど、初めて、このひとのまえなら、裸になれる、とあのとき僕は思った。

繋いだ手は、臆病になって、直ぐに引っ込めたけれど。大嫌いだったはずのミスチルを彼女から教わった。あの頃、信号がすべて青だった夜にも二人で大っきな声で歌っていた。

今日の日が終わる
また必ず会える
さよならは悲しい響きだけど
君とならば愛のことば

#エッセイ
#青春
#ポエム





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?