豊潤な愛を見せて

新宿JAMがビール呑み放題を二千円でやっていたころ。たくさんのバンドをつめこんでイベントをしていたころ。毎週のように僕はそこに通い、ライブを見ては泥酔して記憶をなくしていた。彼女が歌い出したとき、ステージと向かい合わせの客席に作られた小さなサブステージで、僕はモヒカンの友達とかわいいねなんていいながら、「跳べると信じていただけ」なんて歌う彼女を見ていた。僕と同じギター、エピフォンのセミアコの色違い、彼女は緑の入った青のギター、僕は真っ赤なそれだった。声やギターの音色が好きだった。のちに彼女に好き?と聞いて、否定されたけれど、spangle call lilli lineみたいだなぁと思った。酔っていた僕やモヒカンの友達は彼女にアンコールをリクエストする。急なリクエストで彼女が歌い出した最初の歌詞は「遠い夜空の向こうまで連れてってよ」そうフィッシュマンズだった。それからたまに、JAMで彼女のソロのライブを見ることになる。渋谷のHOMEなんかでもライブを見た気がする。物販も買った。CD-Rに焼かれた二枚の彼女のバンドのシングルは、もう10数年前に最後に実家に帰ったときに、母親の車のなかに置いたままだ。三つのバンドだけ、母親の運転する車にCD-Rを置いてきた。そのうちの一つ。

秒速5センチメートルの舞台になった街で彼女が育ったことや高校生の時に部長だった演劇部で全国大会に出たことなどを話してくれたのを覚えてる。

僕は彼女に初めてのピアスを開けてもらった。それも新宿JAMの隅っこで。僕は自分で開けようとしてうまく穴をあけられなくて、ピアッサーだけが左耳をぶらんとぶらさがっていた。女子高育ちの彼女なら開けられるはず、誰かに開けたことがあるはず、といういま考えると変なバイアスで、彼女に頼んで、新しいピアッサーを買って持って行った。消毒液やガーゼとともに。実際、うまくいった。それからしばらく僕の左耳には、緑の入った青色のピアスがつけられていた。それも好きだったおじいちゃんが亡くなり、最後に実家に帰るときに外したまま、穴ぼこは埋まってしまった。

彼女のバンドを唯一見ることができたのは、彼女のバンドの活動休止、最後のライブだった。彼女たちの企画で、下北沢の大きなライブハウスがパンパンになっていた。僕は隅っこで、最初のバンドから彼女たちの最後の曲までをひとり、見ていた。小さな身体で緑の入った青いセミアコを抱えて、マイブラッディバレンタインがライドがそうだと想像しかできなかった轟音のノイズとそのなかに潜む甘いメロディーを搔きな鳴らしていく。爆音。爆音で搔き鳴らされた音が止められたあとの耳鳴りと静けさ。僕が帰ろうとすると、ライブ終わりの彼女が駆け寄ってきた。「よかったでしょ?」珍しいなと思った。普段ならライブの感想なんて聞かないのに。でも本当に良かった。それが彼女の歌う、僕自身は最後のライブ体験だなんて思いもしなかった。

一回だけ、下北沢で呑んだ。たぶん、一回だけ。下北沢の唯一好きな日本料理屋さん。凄く楽しい呑みで、相変わらず僕は記憶をなくすまで呑んだ。薄れていく記憶のなかで、僕が集めていた、そしてそのとき被っていたいちばんのお気に入りのハンチングを彼女にあげるよ、といって渡した。ぶかぶかで、じゃあ返して、っていうと、それもつまんないから貰っとく、といった。

とりあえずの最後に会ったのは、僕のDJを見に来てくれたとき。少しだけ大きなライブハウスで、その日はそのときの僕の好きな人がほとんど来てくれた。彼女が途中で階段を下りてフロアに入ってくるのを見ていた。花束を抱えて。僕の恋人だった人や仲間と一緒に僕の住む街までその晩は呑みに来てくれた。僕の恋人だった人が彼女に嫉妬したのを覚えてる。途中で、僕は酔いつぶれたのだけれど。その晩はまるで青春の日々を一晩に凝縮したようで、やっぱり好きな人たちが集まっていた。その時の恋人といちばん口ずさんだのがフィッシュマンズのその彼女に教わった曲で、「今日からはふたりぼっち」って歌詞はずっと恋人と鼻唄で歌っていた。だけど、その曲を始めて教えてくれたのが彼女だったってことはいえなかった。

いまどこで、何をしてるのかな?と思う。いつかあすこで子供を育てたい、といっていた地元に、僕も行ってみたかった。「時は淀みなく流れていますか?」そんな一言だけの手紙がいつ届いたのかを忘れた。いま手元にある彼女たちのバンドの歌詞を引用して、この夜を終わりにしよう。おやすみなさい。

誰を今想っているのかな

誰を見つめていてもいい

誰に今歌っているのかなぁ?

例え消えたとしてもいい

#バンド

#音楽

#エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?