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想像であなたに逢いに行く

「懐かしい」という気持ちについて考えている。

「楽しい」「悲しい」という形容詞よりは少し複雑な感情であるような気がする。そこには「楽しい」「悲しい」も含まれているし、そもそも「懐かしむ」ことは、いろんな感情を思い起こさせる機能を持ち合わせている。

卒業アルバム、押し入れの箱、実家の畳、母のご飯、よく歩いた道、もういない人の後ろ姿。

あなたにとっての懐かしい何かが想起されるとき、過去の時間は目の前に現れて、同じ時空内でタイムスリップが生じる。当時の自分や、あの時の誰かに会える。

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いとうせいこうさんの『想像ラジオ』を読んだ。

深夜2時46分から始まるDJアークによるラジオ。特徴は、想像上でラジオが配信されていること。チューニングが合った人は、このラジオを聴くことができる。聴ける人は、既に亡くなった人という設定。

「2時46分」から、この小説が東日本大震災を題材にしていることは冒頭から理解できた。でも、ここには死や悲しみに対するタブーな視線が一切ない。むしろ「想像」によってあの時やこの時の思い出が呼び起こされる奇跡があり、生と死の境界線を曖昧にして、もう会えない人との優しい邂逅がある。

あの世の空間を文学の中に登場させ、逝った者と残された者を結ぶリボンのような小説だった。

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死者が生き返らないこと、もうこの世には存在しないことは、みんな重々承知している。でも「想像」を通して彼らに会ってもいい。「想像」内では触れられないし、話せないし、「実際」よりは不十分である。でも「想像」に映し出された存在は、誰にも奪われることの無い永遠性がある。

『想像ラジオ』はこの力を借りて、死者と生者が抱きしめ合う場を作り出した。

だから生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ。


宗教心理学者・デニスクラスという人が「continuing bonds(継続する絆)」という理論を唱えている。「死者とは断絶するのではなく、絆は継続し、関係を再構築していく」という考え。どう考えても、生と死の間には大きな隔たりがあるけれど、壁があっても必ず繋がっていられる可能性を持っているのだ。

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私たちはいつも残される側である。でも、死者は私たちを意図的に「残した側」だろうか?それはなんだか違うような気がする。

『想像ラジオ』を読めば、死者側から見た生者への気持ちが身に迫ってくる。彼らもいつも、生者に会いたいのだ。切実に。

私たちは、互いを思いながらこれからを歩き続ける。私たちはいつも、もう会えない誰かを生かし、生かされ、十分すぎるほどしっかり「形ない大切なもの」を創造しているように思えてならない。

私の人生にも多くの死があった。でもその呼び掛けに応じるように、進路も決めた。人生は形作られた。懐かしいあの日の彼らの笑顔や姿を思い出せば、私は生かされる。

私の中にも死はあり、亡くなった彼らの中にも生がある。いつも響きあって、ひとりじゃない。




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