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まだ見ぬ未来がよいものだと信じて進むのだ。

1月吉日、ジェーン・スーさんと桜林直子さんとのトークイベント「諦めの呪いの、とき方」を観た。

オフラインには参加できず、アーカイブを視聴したのだけど、これが私にとっては大正解だった。

テンポよく交わされる会話のキャッチボールと、少しでも立ち止まったら置いていかれてしまうくらいの内容の濃さ。何度も何度もアーカイブを再生して、少しずつ理解して腹落ちする感覚があった。

諦めの呪いといえば、去年の7月に「人生設定」について書いた。人生設定がやや不幸モードだった私に向けて、幸せを望むことを自分に許可して生きていくぞと決意を込めた記事だ。

ただ改めて読み返すと、当時の私は本当のところよくわかっていなかったのかもしれない。


「自分が幸せを望むことを許す。」これが第一歩なのに、私にとっては想像以上に難しいことだった。自分が幸せを感じられる方向に進んだとしても、その先にある未来がよいものだと思えない

好きで、快適に感じられるものはある。だけど心の奥底で「苦しみがないとリアルじゃない、いま幸せでも未来がどうなるかわからないじゃん」なんて声が聞こえる。

我慢が当たり前の状況から、少し意識を変えるだけで、いままでいた場所から脱することは出来なかった。

そんな状況から脱却できたのは、今回のトークイベントがきっかけだったと思う。


私に必要だったのは、まだ見ぬ未来が良いものだと信じることだった。

たとえば、新しく学習を始めるとき、私にはできないと思いながら勉強する人は多くはないだろう。もっと純粋に学ぶことを楽しんでいたり、新しい知識を習得した後の生活を想像してワクワクしたり。

でも自分の人生となると、すでに未来が決まっているような気がして、前向きに捉えられないのはどうしてだろう。未来を向いているという点では一緒のはずなのに。スーさんと桜林さんはイベント内でさらに切り込んで、この疑問に答えをくれた。


「未来に対して前向きでも、後ろ向きでも根拠なんてないんだよ。根拠がないのは一緒で、でもそれぞれがどう世界を見ているかによって変わってくるの。」

確かに学習も人生も、これからどうなるかなんてわからない。たとえずっと苦手だと思っていたことが、10年後も同じだと断言できない。なんでもネガティブに考えていてはなにも始められず、どんどん世界は狭くなってしまうし、絶望して生きていけない。

それならば、根拠はないけれど前向きに未来を信じるほうが断然よい。なんでも根拠を求め、考えすぎて深刻になりがちな私にはすごく衝撃的で、でも緊張と不安でこわばっていた肩の力が抜けたような気がした。気楽にいこうぜ、と。

それに、スーさんの話を聞いていて面白かったのは、なにかを始めたり決断するときに絶対的な自信があるわけではなく、なんとかなるというふわっとした自己肯定があるということ。未来がよいものだと信じるために、覚悟も勇気も特別な心持ちも必要ないのだ。

ただ、やっぱりいままでの考え方のクセで、安心できる場所がない状態では、未来がよいものだなんてすぐには信じられないと思う。だからこそ、未来を信用するために、自分が信用できる人と一緒にいて、なにかを成し遂げなくても、私が私でいること自体が素晴らしいと思える居場所を育てていきたい。

前回学んだ幸せを許可することに加えて、まだ見ぬ未来を信じることを忘れないように心に置いておく。不安で足がすくんだ時、深刻になって世界をぐっと閉じてしまいそうな時、思い出して元気になれますように。