見出し画像

『ロング・ロング・トレイル』全文公開(16) 第四章 東吉流・世界の歩き方 (3/6)

2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。

※前回の記事『ロング・ロング・トレイル』全文公開(15) 第四章 東吉流・世界の歩き方 (2/6)はこちら


記事をまとめてご覧になりたい方はこちら↓


スイスの底知れないポテンシャル

 「まるでフーテンの寅さんのような人懐っこい風貌で、一皮剝がすと、その本性はアーノルド・シュワルツェネッガー扮するターミネーター」
 初めてスイスという国を訪れた時の印象である。
 国土面積は日本の九州と同じくらい。そのほとんどが山間部で、四方をフランス、イタリア、ドイツ、オーストリアといった強国に囲まれ、そのどの国にも支配されることなく、永世中立国として繁栄する国。
 どのような国策を取れば、このような小国が世界の国々と匹敵するような国力を持つのか? そこを訪れるまでまったく理解できなかったが、実際にスイスに行ってようやく分かったような気がする。いや実はまだ、なんにも分かっていなくて、分かった気にさせられているだけかもしれない。
 ボクが初めてスイスの土地に足を踏み入れたのは、グリンデルワルトという小さな村だ。
 正面にアイガーが聳え立ち、隣にはメンヒ、ユングフラウが並んでいる。
 雪を頂いた峰々の麓では、緑豊かな大地がなだらかに広がり、そこでは大きなカウベルを首にぶら下げた牛たちが、のんびりと草を食んでいる。
 まさに「アルプスの少女ハイジ」の世界である。が、そのグリンデルワルトの村の中心地の長閑な風景の地下には、核戦争や自然災害に備えて、約500人の人々が半年間に亘って避難生活が可能な地下シェルターが存在する。実際にそこに足を踏み入れると、色、柄が見事に揃った毛布が掛けられた二段ベッドが整然と並び、生活に必要な最小限の食料や装備が備蓄され、快適に避難生活ができる準備が整っている。
 どこかの国の体育館や、プレハブの仮設などとは雲泥の差である。
 日本の明治時代、今から100年以上も前に、アイガーの壁に穴を開けてトンネルを作り、標高3454メートルのユングフラウヨッホまで登山電車を走らせ、その終点駅には東京の渋谷や銀座で見られるレストラン顔負けの高級レストランがある。
 これを日本の富士山に例えるなら、8合目付近まで登山電車が走り、その駅の終点に、高級レストランがある、という状況である。
 しかもそのレストランで出る残飯などのゴミは、登山電車の横に設置されたシューターによって、一気に麓の村まで運ばれ、そこで家畜用の飼料などに分別され、再利用される。同行した政府観光局の担当者の提案によって、自家製のアイスクリームを作る農家を取材した。
 農家の庭先にはやはり牛が寝そべり、アイスクリームを作っているという小屋は、苔むした屋根の田舎家で、少しほっとしていたが、小屋のドアを開けると大型のコンピューターがあり、アイスクリーム製造に於ける温度や調合分量などが自動で管理され、万が一、アイスクリームに異物が混じったり、品質が変化するようなことがあれば、スイッチ一つでその異常がプリントアウトされて出てくる仕組みになっていた。
 どうだろう? 冒頭でのボクの表現を理解してもらえるだろうか?
 これまでに二度、冬季オリンピックが開催され、世界に名だたるスノーリゾートとして知られるサンモリッツに、面白いエピソードがある。
 1855年にサンモリッツで最初に作られたクルム・ホテル(現クルム・ホテルの前身)に、夏になると避暑にやって来る裕福なイギリス人たちが居た。サンモリッツの標高は約1800メートル。周囲約5キロのサンモリッツ湖は、冬には30センチ以上の分厚い氷が張るほど、寒さが厳しい。その代わりに夏は快適に過ごせることは言うまでもない。そのイギリス人たちに、ホテルの経営者であるヨハネス・バドルッツはある提案をした。
 「夏のサンモリッツもいいが、冬は冬で、また素晴らしい。冬にもう一度、このサンモリッツを再訪して、もしもその滞在に満足しなければ、宿泊料金はすべて返金する」と。
 結果から言えば、その裕福なイギリス人たちは、冬にもう一度、サンモリッツを訪れ、返金を要望することなく、存分に満喫した。このエピソードが、サンモリッツがスノーリゾートとしてヨーロッパでの地位を確立した要因であるといわれている。ちなみにスイスで最初にゲレンデにリフトが設置されたのも、ここサンモリッツである。
 そのサンモリッツでは毎年、厳冬期にグルメフェスティバルが開催される。
 今ではその会場をホテルに移してしまったが、ボクが参加した2007年当時には、分厚く凍った湖面の上に大型のテントが張られ、その中で世界各国から選ばれたシェフが集い、自慢の料理を提供する。食事中はジャズやクラシックの生演奏が奏でられ、人々は贅を尽くした料理に舌鼓を打ち、シャンパンのグラスを傾け、食後にはシガーを嗜む。もちろん皆、きちんと正装をしており、ディナーはもっとも豪華なモノで約6万3000円
(550スイス・フラン)。
 このグルメフェスティバルの他にも、凍った湖面の上で氷上ポロが開催され、カルチエやマセラティといった、セレブな企業のスポンサードを受けたポロチームが熱戦を繰り広げる。ヨーロッパ各地から自家用飛行機で駆けつけたセレブたちは、シャンパンを片手にその試合を観戦する。
 
 冬になると湖面が凍るという点では、ボクが暮らす河口湖も同じである。が、河口湖の冬は誰もいない。以前からこの地では「4月から11月までの8ヶ月間で、一年分を稼げ」といわれるほど、冬には閑散としてしまう。
 今ではアジアからの観光客が増え、少しは冬の河口湖もにぎやかになったが、冬にこの地を訪れる日本人は少ない。同じ厳しい自然環境にありながら、イギリス人たちに対してしたたかな提案をする知恵者も居なければ、冬の自然環境の厳しさを逆手に取って、ビジネスの成功に繫げるアイデアもないのである。
 富士急とスイスのマッターホルン・ゴッタルド(MGB)鉄道は姉妹提携を結び、河口湖、大月間でMGBと同じデザインの鉄道を走らせているが、上辺だけの姉妹提携で終わらせずに、より積極的にスイスの人々のアイデアを取り入れれば、もっと世界中から人が押し寄せると思う。
 スイスでは2009年から興味深いプロジェクトがスタートした。
 その名も「スイス・モビリティ」。スイスの国土は九州と同じくらい。その国土の全土を、人力で結ぶというものである。
 インラインスケート、自転車、カヤック、ラフティング、あるいは徒歩によって旅を続けることができるというシステムである。そのコースの地図や標識は、そこを移動する人のスキルや体力によって3段階に区別され、持ち物はモビリティ協会のクルマがすべて運んでくれる。
 つまり手ぶらでアクティビティを愉しみながら移動し、自分の衣類や洗面道具、あるいはPCやデジタル機器は、その日の宿泊施設に先回りしている、というシステムである。もちろん疲れたら、途中から鉄道などの公共交通機関によって移動することも可能だ。
 このプロジェクトの大きな目的はエコロジー。排気ガスを発するクルマなどを極力使わず、人力でスイスという国を観光するという訳である。スイスでもっとも有名な山、マッターホルンを擁するツェルマットでは、電気自動車以外のクルマの通行が随分と前から禁止されているが、環境に対する配慮が、日本の何年も先を行っているのである。
 そんなスイスを旅していて、もっとも印象深かったのが「氷のホテル」。
 イグルー(アラスカのイヌイットたちが古くから使用する圧雪したシェルター)形式のこのホテルは、壁も床も天井もすべて氷に覆われた宿泊施設で、もちろんベッドも氷の上。が、氷点下40度まで耐えられる羽毛の寝袋が、氷のベッドに敷かれた毛皮の上に設置してあり、寒さに震えて目覚めることはない。
 そのホテルにチェックインすると、まずは一本のログが支給される。それを燃やせという訳ではなく、食事中に足を載せろ、という訳だ。床も氷なので、そのままだと足元が冷える。せめて木の上に足を置けということだ。
 夕食はスイス名物、チーズフォンデュ。チーズフォンデュを食べるのに、これ以上のシチュエーションはあるまい。
 木のログを足元に置いても、温かいチーズフォンデュを食べても、氷の室内は寒いことには変わらない。そこで宿泊客たちは隣接されたサウナに入り、そこでしばらく身体を暖めて談笑する。で、十分に暖まったら、また氷の部屋に戻って食後の酒を飲む。
 まあ怖いもの見たさのような宿泊施設で、リピーターはそんなに居ないようだが(ボクももう一度、泊まりたいとは思わなかった)、話の種にはなるホテルではある。それに氷の壁に配されたキャンドルがとてもロマンチックで、ハネムーンに利用する宿泊者も多いと聞いた。
 確かに熱々のカップルならば、寒さに身体を寄せ合って過ごすのに、とても適したホテルかもしれない。
 いずれにしても、神から与えられた自然環境を、独自の知恵と創造力を駆使して、スイスの人々はそれを巧く利用して力強くしたたかに生きる。もちろんその自然環境を壊さない努力も怠らない。
 日本人もそこから学ぶべきことはたくさんあるだろう。
 スイスという小さな国は、「世界のケーススタディー」と呼ぶべく、さまざまなアイデアが詰まった国なのである。


画像1

木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。


読めばきっと走り出したくなる。ランナーや旅人の心に鮮烈に響く珠玉のエッセイ集『ロング・ロング・トレイル』のご購入はお近くの書店か、こちらから↓

Kindle版(電子書籍)はこちら↓