「そうすれば真実が見えてくるんだ」

 一日に数本しかないバスに間に合うかどうか以上のことを焦らなくてもいい。今からする全てのことはリュックに入っているものだけで用が足りる。そういう時間と場所にときどきは身を置くことがどうしても必要なのだと思う。いつまでかは分からないけれど、今はそうできるだけの余裕がある。

 誰とも共有しなかった、しないことに決めている時間の語り直しを今からする。それは決して体験としての商品-レビューではない、と意地でも言いたくなる。

 東京から青森までの夜行バス。運転手のアナウンスに東北の訛りを聞き取って啄木の歌を思い出す。青森から函館へはフェリーで、着くと真昼間なのに太陽の位置が東京や大阪より低い。

 神戸の北野あたりとよく似た街、でも坂道のずっと朗らかな函館を歩いて、日本一古いという観覧車に乗った。切符売り場の人も観覧車の係員の人も優しくて、「何色(のカート)がいいですか?」と聞いてくれた。下にあったピンクにそのまま乗ったけれど、よく考えて選べばよかったのかもしれない。他には乗客がいなくて、一番上からは海が見える。

 その小さな遊園地の隣に小さな動物園があって、保護動物が飼育されていた。大型猛禽類もいれば、馬や世界各地のニワトリもいる。解説ボードは常々更新されているようで、70年間回っている観覧車もそうだけれど、こうした手入れの行き届き方にぐずぐずと喜んだ。

 早い時間からずっと夕方みたいな道をいくつも坂を見ながら歩いていたら個人宅のピアノ教室から練習の音が聞こえてくる。ソナチネの多分何かなのだろう。

 特急車で宿のあるところの近くまで来て、野良猫を追いかけたり線路の柵まで植え込みをよじ登ったりしながらバスを待った。昼に電話したら宿泊の予約が忘れられていたらしかったが改めてお願いして、バスを降りたら歩いて10分程度の距離なのに車で迎えに来てくれていた。

 明治時代からあるお風呂は日帰りもやっていて、毎日入りに来る夫婦が今入っているとのこと。それは単婚でなくてもいいし婚姻でなくてもいいしヘテロでなくてもいいのだが、人と人が連れ添うことについて考える。場所や歳が変われば例えば自分は同じ人と毎日をできるんだろうか。

 食事のとき、宿の人が発泡酒を持ってきて話し相手になってくれた。私はビール。アサヒだった。お米は宿の前の田んぼで作っているもので、「去年のだけど新米といっしょ」らしい。数年前までどぶろくを密造していたけど誰かがネットで書いたらあっという間に捕まってしまったと。

 もうすぐ90歳で、みんなもう死んでしまったけど長生きするといいこともあるという話をしてくれた。本を読んでいるとときどきハッとする一言があって、今まで分からなかったことが分かるようになるのだと。数年前にホーキング博士の言葉が別の本のある章のエピグラフに使われていてそれに感銘を受けたそうで、それからじっくりと無神論を聞いた。

「私は若い女の人が書いたものでも大丈夫なの。自分の心とぴたっと合えばね、それは自分のもの。そうすれば真実が見えてくるんだ。」って言ってた。

 対人関係療法の基本理念みたいな話も聞いたし、「これでいいのだ」と思って死ぬのが一番だよ、とも言われた。

 お湯の自慢もしないし、周辺の宿の悪口も言わないし、いい男を捕まえろって説教もしないし、老いることへのうらみつらみも言わない。今はハッシュタグの研究をしているらしい。明日の朝早く出たいので、というとあっさり「ごはんないよ、いいっしょ」と言われたけど、おにぎりを作っていてくれた。

 年季の入ったお風呂場は析出物がゴビゴビにへばりつき、もとの素材も定かではない。油臭というのかタール臭というのか、強い香りとサラサラのお湯。湯温が高くて、もったいないけどかなり水でうめながら入った。

 翌日。思ったより寂れた場所だった登別は、電車を降りたときからほんのり硫黄系の香りが漂っている。温泉銭湯には二種類の泉源のお湯があり、とくに片方はクラクラするほどの硫化水素臭がした。

 体を温めて、長い長いゴンドラに乗って、クマ牧場を見に行く。ヒグマのおやつが売っていて、それを投げるとヒグマが取りに走ったり上手く口で捕らえたりする。立ち上がったり吠えたりして食べ物をねだる動物を見て喜ぶ、餌でクマに構ってもらうというやり方はひどく陰惨に思え、その場所は早くに離れた。

 展示室は古いパネルに新たな知見や最新の分類をラミネートされた紙を貼り付けるという形で行われていて、それはある営みの発展を見せるという意味でよいものだったと思う。高齢のクマの白内障手術にも成功しているらしい。それでも客寄せのプレゼンテーションは湯けむり的になってしまう。

 雨がひどくなって、札幌への移動手段を変更し、かなり早く着くことになった。チェックイン時間は20時にしていたのだが、17時ならなにも問題ないだろうと思ってホテルに向かう。安宿だからそんなに期待してはいなかったが、胡散臭い看板とプレハブみたいな建物、ドアを開けると受付も何もなく建築資材みたいなものが窮屈に置かれている。おそるおそる金属のガンガン鳴る階段を最上階の3階まで登っても何もないので眼の前にあった扉を開けてみるとスタッフの人が出てきた。

 受付係がちょうどいないので部屋には案内できないが荷物は預かるとのことで、風呂場の使い方などを教えてくれた。内装は新しそうで、狭いけれどありふれた最低限のホステルといった雰囲気で、長期滞在者が多いような口ぶりだった。この人は感じがよくて、天気のことを心配してくれたりもして、大きな荷物だけ置いて外出することにした。

 そのまま夜まで戻らなくても良かったのだが、これから会う人へのお土産を置いてきてしまったことに気づき、寒くもなってきていたから、一旦戻りたくなった。何度か電話をして、それが090の番号であることを少し不審に思いながらも、個人経営ならそんなものだろうし、とも考えた。最初のスタッフとは打って変わって高圧的な人の対応で、ナンバーロックの開け方を説明された。一旦戻りたいと言うとバタバタしているからと変に渋られ、「え、今から戻ってくるんすか?」と2回位言われた。

 そうは言ってもお土産なんて自分で持って帰るようなものではないのだし、歩いて15分位のところにいたから取りに戻るとホテルの前にパトカーが停まっていて、バタバタというのはそういうことかと得心した。駐車場で事故でもあったんだろうと思った。それで階段を登っていくと、3階の入り口のところで4人ぐらいの警察官が1人の人を壁に手をつかせるような姿勢で取り押さえていて、扉を叩きながら「……さん、……さん」と呼んでいる。

 困ったなあと思って「今って入らないほうがいいですか?」と間抜けなことを聞いてしまうと「今ちょっと事情聴取してるんで」と同じくらい間抜けなことを言われた。けど結局「……さん、お客さん来てますよ」とホテルの人を呼んでくれて、そうしたら出てきて、警察の人は都合よくホテルの人と話ができたみたいだった。大慌てで鞄から物を出しているときに、「……それはホテル側としてもちゃんとしないといけないんじゃないですか、ちょっと多過ぎますよ、あまりにも」と聞こえた。

 様子もあまり見られないまま退散。夜に戻ると警察はもういなくて、やっと部屋の鍵の説明を受けた。そのとき部屋の移動を提案される、というよりも提案の語彙のもとで部屋を移らされる。狭いし、隣で作業してるからうるさいだろうし、というようなことで、多分聞かれたくない話があったのだろう。奥のツインの部屋に移った。無料でアップグレードしておくから高評価を付けてくれと言われる。その後写真のことなんかを聞かれる。なかなか切り上げてくれない。椎名誠が描写していそうなドロッとした目つきで、髪の色が赤とか青とかだったときに道で声をかけてきた目的の分からない人たちみたいに、どういうわけか流れていかない、きっぱりしないとずっとそこに貼り付いているようなやりとりをする。それでも警察を見ていなかったら、話の下手な人はこの程度のものだと納得していただろうと思う。

 廊下の洗面所で歯磨きをしていると、利用客とおぼしい人が私の泊まる隣の部屋を訪ね、そのあとヒソヒソと「……今日だけ隣が宿泊なんで……明日にしてください」と聞こえる。その部屋だけ鍵がネカフェのいい部屋みたいな電子キーで、そこは夜中までと未明からずっとボソボソと人声がしていた。

 別の部屋では、最初の感じのいいスタッフとホテルの人が声を低めて話している。感じのよさというものにこんなにもたやすく騙されるのだと驚いた。

 ブラインドは下がらないし、ティッシュは1枚しか入っていないし、コンセントは挿しても使えない。楽天トラベルのレビューを見ると、マルチの勧誘やキャンセル料のぼったくり、果ては何故かマッサージを提供されて胸を触られて本番を要求されたみたいな話まで出ているし、Google Mapのレビューには気持ち悪いような絶賛評価に混じって「治療院」「よく効きます」といった言葉が並んでいる。建物自体の看板はホテル名ではなく「開運院」みたいな名前になっていて、憶測だけれどそういう詐欺まがいのことをやっているところなのかもしれない。そういう感じならさしあたり身の危険はないだろうと思い、ボソボソ声や無闇に多い出入りの足音に妨げられながら少しは眠れた。

 チェックアウトは必要ないとのことだったので朝は早々に出た。電車とバスを乗り継いで支笏湖に行き、そこからレンタサイクルで11キロくらい走ったところにある温泉に入るのだ。

 まさに支笏湖から湧いているその温泉は、めずらしい足元湧出の露天風呂に入れることで名高い。内湯と普通の露天風呂のある場所から通路を渡ると湖面と同じ高さの場所に出て、そこは完全に湖と繋がっている。

 雨が降り始めていたが、耳を澄ますと雨音の合間に砂利の間から湧き出すポコポコという音が聞こえてくる。温泉成分というより湖そのもののような香りだった。岩を縛って壁が作ってあり、お風呂からは直接湖が見えない目隠しになっている。その一箇所が開いていて、直接湖と繋がり、温度調節の役割を果たしているのだそうだ。

 お湯を出て少し登ると湖がよく見える。全裸でこんないい景色を見ることは滅多にできないと思うけれど、どういうわけか湖は全裸で見なければならない筈だと分かった。それは対決だったかもしれないし、カルデラに受け入れられたのかもしれない。ともかくそこには単に景色を楽しむ以上のものがあった。ヌーディストになりそう。道々で野生の鹿やリスも見れた。

 帰りは飛行機で、夜の空港はキラキラしていた。離陸のとき消灯になるので、誕生日ケーキが出るぞ〜と思って飛行機の特に離着陸の怖さをごまかしていたら、上から見るターミナルビルが半分にしたホールケーキみたいで嬉しかった。

 写真とかはまた。

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