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開発のむきだし、あと風呂

 一人暮らしになっても、ほとんど毎日ジムの大浴場を使っていても、山奥の一軒宿に引き籠もって温泉に浸かり続けたいという欲求はふつふつと溜まってくる。かつて訪れたそのような宿は次々と営業を終えており、列車の廃線のニュースなどを聞くと切迫した気持ちにもなる。

 通勤ラッシュの御堂筋線から始まって、車両2つのワンマンカーまで電車が2時間。降りて路線バスの3時間。さらにそこから徒歩1時間強。電車はよいのだが、バスは酔うから本が読めない。仕方なし外を眺め続けるのだが、そこに見えてくるのは痛ましいまでに剥き出しになった開発の痕跡とその管理の労力である。

 今走っている道路はもちろん、ダム、水を送る管、トンネル、落石防止の構造物、ローカルな製造業、生コン、発電所、橋梁、治水治山の工事、作業員、工事車両、田畑だってそう。それらは全て、人が自然をどうにかし生を維持するための機構であり、それが何らはにかむところなく露わになっている。そしてそれしかない。

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 ダンプやトラックが行き交う川沿いの道を歩いていたらどの警備員も声をかけてくれる。その工事がどうやら10年前の水害の復旧事業であるらしいことは、旅館の人と話していて気付いた。そのエリアを過ぎると、山中の一車線道路を5キロほど歩いていくことになる。多少の勾配と多少の交通がある。

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 日本のありとあらゆゆるところにこのような光景はあり、このような道路網で埋め尽くされているおかげで都市の生活があるのだが、改めて写真を貼るだけで、車道特有のにおいを思い出して胸が悪くなる。それは雄大な山を遠くから見やるのとも、身一つで登山するのとも全く異なる山のシリアスだ。おおむね人は自然を治めている。コンクリート1枚剥がれるとたくさん死んでしまう。

 朝におにぎりとチョコレートを食べたきりだったので、歩くうちに低血糖で内臓が痛かった。

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こんなものさえ、色がついているから、宿の看板がやっと現れたかと錯覚する。そのほかは、左手に川、右手に山、足元にアスファルト。人が切り開いて車で通れるようにした、それだけの道である。歩くことなど全く考慮されていない。されなくなった。昔は当然足で踏まれていたはずの道だ。

 こんなところにMaaSの余地などない。むしろmobility with sheer exhaustionといってよい。ひとつには草臥れること、もうひとつはこの場所のあらゆる資源が都市部のために使い果たされるのかもしれないこと。

 山間部は、店や広告や見世物で埋め尽くしようがない空間をげ・ん・じ・つとして曝け出す。そこには景色も風景もない。広大な、無標の、余白。

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 宿では融通を利かせてもらって助かった。無謀な阿呆に親切にすることは人として最も正しい。風呂に入ることも正しい。

 温泉とは大きく分けて湯と舞台装置で出来ている。湯はまずまずの硫黄泉。源泉は80度で源泉掛け流しなので、湯船に注ぐ時間と量で調整しているものと思われる。谷川に面した露天は男湯だけ、川とほとんど同じ水位になっている。入浴者が出ていったら侵入しようかと高い位置にある女湯から要すを見ていたが、ずっと人がいたので断念。

 川魚とぼたん鍋を中心とした晩ご飯で、腹いっぱいの米と日本酒を2合ほど摂り込んでまた入浴。酩酊時の入浴を推奨はしないが、気持ちいいことも否定できない。宿に近い方の露天は、もとは男湯と女湯に別れていたようだが、貸し切り制でどちらも入れるようになっている。男湯だったと思われる方は、おそらく敷地内の私道だが車が通る道から丸見えの作りで、開放感の度合いとしては適切だ。外気に触れているだけで露天を名乗ってもらっては困る。

 とにかく一番奥、と思ってきた山中だが、宿泊客は多かった。隣は夜中も明け方もお構いなしに大声でアハハハハオホホホホウフフフフアハハハハと談笑するし朝食から戻ると嘔吐していて嫌だった。眠れたもんじゃない。

 朝、天気予報があるかとテレビをつけてみたら、村のテレビ局が村内の固定カメラでライブ映像を流している。24時間それをやっているらしい。

 帰りはバスが出る温泉地まで送ってもらった。一本道で信号もないので車だとあっという間に着く。そこからさらにバスで景勝地を見に行くこともできたのだが、うんざりしていたのでやめてしまった。電車に乗る駅で、行くときに休憩中のタクシーの運転手さんに教えてもらった歴史地区みたいなところを見に行く。

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 そこに至るまでの道からしておそろしく寂れており、しもうたやのような家で卓球をしている音が聞こえてきた。町並みに関しては、こちらが無知なのもあって、町並みがございました、というだけ。

 あまり悪く言いたくもない、言うつもりもない(そのため地名も出していない)のだが、温泉地のほうも含め、あんまり前向きな気持ちになることは難しい。コロナとか季節とか曜日とかを加味するとしても、長年使い込んだ歯みたいになった場所をアプリとかお揃いの幟とかで観光資源化しようという努力はほとんどパセティックにさえ感じられる。人たちは優しい。しかし優しいから取り残されるのだろうか。取り残されているから優しいのだろうか。私たちは優しさを買いに行き続けられるほど、暇もお金も頭数も持っていないのではないか。

 長距離のバスは駅につくと「この路線は地域の皆様、来訪者の方々の欠かせない移動手段として、行政からのご支援をいただき運営しております。積極的にご利用ください」といったアナウンスを流していた。

 停滞のなかの豊かさだとか、尊厳ある縮退だとか、本当にありえるんだろうか。

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