トーマス・ベルンハルト『消去』池田信雄訳、みすず書房

 ローマで暮らす語り手が、オーストリアの実家(大金持ち)から両親と兄が死亡したという電報を受け取り、妹の結婚式で一度帰省してから一週間だというのに再び帰らなければならなくなる。彼が重い腰を上げるまで、一日家族の写真を見ながら、いかに彼らが虚妄に満ちた人生を送っていたか、そしてオーストリアにおいて文化的なものがいかに虐待されているかについて語り続けるのが上巻。なのだが、その朗々としたこきおろしは、弟子であるガンベッティに語りかける形、というか「と私は(かつて)ガンベッティに言った」という形式で語られるのであり、そもそも、この散文全体が「とフランツ-ヨーゼフ・ムーラウは記す」という間接話法の中にまるごと入っている。別にそれは、自伝的なものを書くときに書き手が取りがちなポーズというわけではなくて、この作品自体は自伝とはほど遠いものであるそうだ。

 自分が頭の中でなにかを語っているとき、ふいにそれが特定の人に向けられた語りなのだと気づくことがある。この間接話法はそういった事態の現れであるかもしれない。下巻にあたる葬儀の前後ではとりわけ、「と私はガンベッティに言った」が過去になされた発話ではなく、今、自分の頭の中にいるガンベッティに対するものとしか解釈できそうにない箇所を含むからだ。

 この本の前半部における家族に対する悪口は彼らの写った写真に向けられたものであり、語り手は、直径1センチの頭に向かって罵ることで罵っている自分が笑いものになるのであり、ひいては写真それ自体がありうる最大の嘲り、世界への最大の嘲りであるとまでいう。これは彼のひっきりなしの誇張癖の一部でもあるのだが、同時にこれはベルンハルトによる『明るい部屋』なのだ……と思わなくもない。

 このよどみなく流れる悪口は他者だけに向けられるのではなく、むしろそれはつねに自らに向けられている。表題の「消去」は退廃していく文化的なものについて言われるのと同様、語り手が消し去ろうとする自分のルーツ、そして書いては処分する原稿についての言葉だ。幼年期の回復を一時的に目論みながらも、彼は完全な消去、完全な否定を目指す。そして、兄が両親もろとも死亡したことで土地、屋敷と財産の相続人となった語り手は、散文の中のみならず、実際に全てを処分することができるわけだ。

 そのような志向の一部はもちろん彼による誇張のための誇張の一部として理解することができる。鬱屈した個人的な感情をどうにかするために紙の上でできることは無限にあるからだ。たとえばおそらく語り手は母親からの、とりわけ幼少期の愛情を過小に見積もっていることが示唆されていると言えないことはない。そう考えることは、なんでこの作品が私にとってこんなに面白いのかを説明するひとつの理由を提供する。

 といってもその最大のものとは、くどくどしているのに粘り気のない語り口そのものなのだが。

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