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心が楽になる話

武術研究家のモノノフです。

武術にはメンタルが非常に影響してきます。僕自身昔は若く一個人として悩み苦悩しました。逆に我を出して迷惑がられたこともあったでしょう。恋愛では悩んだことがありません。モテないので。(悲しい!)

さてさて、ひとは何を悩み、何に苦悩するのでしょうか。それは

こだわり

です。

ひとはこだわりで苦しむのです。
「お金が欲しい!」、「容姿が良くなりたい」、「あの子と付き合いたい!」、「若くありたい!」、「仕事ができるようになりたい!」、「スポーツで結果を残したい!」、
武術をしていたら「強くなりたい!」、「この技の原理を知りたい!」
僕だったら「小顔になりたい!」とかかな?(誰の顔がデカいねん!)

ただ、こだわりにはいいこだわりと悪いこだわりがある。
いいこだわりは「スポーツで結果を残したい!」のようないいモチベーションになるものだ。むしろアスリートはそれで練習しているようなものだろう。僕で言うなら「この技の原理を知りたい!」みたいなことだ。それをモチベーションに研究をしている。

悪いこだわりは「お金が欲しい!」とか「小顔になりたい!」などのどうしようもないこだわりだ。お金だったらキリがない、小顔に関してはどうしようもない、そういったこだわりは苦しみを生む上に、解決しないのでずっと持ち続けることになる。そうして、ひとは不幸になる、もしくは苦しみ続けるのだ。

もっと言うといいこだわりも場合によっては悪いこだわりになり苦しみを生む可能性がある。なんせ、こだわりが苦しみを生むのだ。

さて、ではなぜこだわりというものが生まれてくるのだろうか。それは「時間軸を止めて考える」からだ。

「時間軸を止める」とはどういうことだろうか?

そもそも時間は一般相対性理論でいうみたいに、伸び縮みするいい加減なものだ。しかし、止めることはできない。これを止めて考えるとおかしなことになる。時間を止めることはできない、つまりどうしようもないことが生まれて解決しない苦しみを生む。

わかりやすいところで行くと「若くありたい!」なんていうのは時間を止める発想そのものだ。そう思って運動するだけならいい。整形に依存するようになったりする。もはやキリがない。

あと、「時間軸を止める」発想に「所有」がある。お金だったら今、手元にあるお金と数ヶ月後手元にあるお金とほとんどの人が一緒ではないだろう。莫大な財産がある人は同じかもしれないが、そう言うひとはそんなにお金に悩んでいない。あるならあるでこだわると失う恐怖という苦しみを生んだりもする。10万円しか持っていない人は1億円を失う恐怖を知らない。
例えば彼女ができた、その時は好き同士でも別れることもある。それを「時間軸を止める」と、「こっちは今も好きなのに!」となる。「向こうも好きなはずだ」とか、「勝手に別れるなんて許さない!」とかいう謎な発想になってしまう。本来どちらかがおしまいといったらおしまいだ。結婚の場合は契約があるので少し厄介になるが、付き合っている範囲ならそんなものだ。

時間は止めることはできないのだ!

物事は諸行無常であり、時間は流れ、形あるものは崩れ、生き物は死ぬ。これは絶対なのだ!特にヒトという生き物の致死率は100%なのだ!

お金も流れているし、前述した話だとひとの心もうつろうものだ。この前提を無視するから苦しむのだ。般若心経でこんな一節がある。

「色即是空空即是色」

僕はこの部分が般若心経の根幹だと思っている。「全ては一切空」なのだ。つまり何もないのだ。何もないものを見てみんな一喜一憂しているのだ。つまり自分の心持ち次第でどうとでも感じることができるということだ。

ヒトという生き物の五感で感じられるものなど、世の中全ての5%程度だと言われている。自分の五感という感覚で区切られた5%ぐらいの世界観でみんな一喜一憂しているのだ。すごく馬鹿らしいことだと思わないか?

「仕事は何がなんでもしないといけないんだ!」というひとも本当にそうだろうか?こだわりを持ってそれで実力以上のものを発揮して成し遂げたならいいだろう。体調を崩して、メンタルを病んで仕事を休まざるおえなくなったひとはいないだろうか?その仕事はあなたがそこまで犠牲になってまでやることだったのか?

こういう形でメンタルを病むひとは基本的に真面目で優しい。自分を犠牲にしてでも周りのためにと思っている。しかし、そういうひとのことを周りはどう思っているだろうか?僕は大してなんとも思っていないと思っている。本当に思っているならそうなるまでに手を差し伸べるだろう。周りに迷惑がかかるとかいっているひとは基本的に自分に迷惑がかかるのが嫌なだけなのだ。自分の意見とそぐわない上司に言われた通りにやって、結果が伴わず叱責を受けたことのあるひとはいないだろうか。僕はある。納得がいかなかった。

つまり、自分を犠牲にしてまでやることは自分の好きなこと、もしくは自分のためになること以外ないのだ。

ひとのためになることもある。それは利害が一致していたり、このひとのためならと思えるひとのためにすることもあるだろう。医療みたいに行為そのものがひとのためになることもある。

ただ、誤解しないで欲しい。その行動自体は自分に責任を生むのだ。自分が優先されたらいいと法を犯してはいけないし、自分のためにひとが動いてくれると思ってもいけない。僕は自分を通すようになってむしろ周りが助けてくれるようになった気がする。そのかわり僕もなるべく手を差し伸べられる範囲は差し伸べているつもりだ。これは僕の中で綺麗事ではない。助けた方が助けてもらえるのだ。僕の感覚でいうと助けてもらっている方が多い。なぜなら僕は一人しかいないが、周りはいっぱいいるからだ。そもそも助けてくれたことのあるひとは助けようかなと思っても自分が困っているときに何もしてくれなかったひとを助けたいとは誰も思わない。

僕は明確に自分のために人助けをしている!

ただ、たまにひとにお願いばかりで自分は何もしないひとがいる。そういうひととは関わらない方がいい。

というわけで、

こだわりは捨てて、人助けはした方がいい

というのが僕の結論だ。

僕は正直メンタルが弱く、イライラして眠れなかった日が続いたこともあった。
30ぐらいの頃にメンタルがやられ過ぎたのか免疫力が下がりすぎて、風邪を拗らせて肺炎になったことがある。健康な成人男性がなる病気ではない。肺炎双球菌とかコロナウイルスとか出ない、ただただ弱っただけのやつだ。おじいちゃんぐらいしかならないタイプの肺炎だ。誤解のないように言っておくと僕はどちらかというと体力自慢で、早寝早起き健康的な方だ。大学生の頃とか皆勤だったりした。大学をそんなに真面目にいくやつはいないかもしれないが、それほど健康管理はしっかりしている方だと自負している。

今はもうそんな悩みはない。それはもちろん怒りや悲しみの感情がないわけではない。怒りや悲しみは負の感情のように思うかもしれないが、感情は出した方がいいのだ。ポイントは後に引きづらないことだ。ガッと出してガッと引っ込めるそれがストレスもないし、相手もそこまで嫌ではない。

これを読んで心が楽になるひとが一人でもいたら嬉しい。

モノノフ




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