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奈良原到翁の逸話 ——夢野久作『近世快人傳』より

其の眞黒く、物凄く輝く眼光は常に鐵壁をも貫く正義觀念を凝視してゐた。其の怒つた鼻。一文字にギューと締つた唇。殺氣を横たへた太い眉。其の間に凝結、磅礡してゐる凄愴の氣魄はさ乍らに鐵と火と血の中を突破して來た志士の生涯の斷面其のものであつた。青黒い地獄色の皮膚、前額に亂れかかつた縮れ毛。鎧の假面に似た黄褐色の怒髭、亂髯。其れ等に直面して、其の黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上つたであらう。況んや其の老いて益々筋骨隆々たる、精悍其のもののやうな巨躯に、一刀を提げて出迎へられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張つて動けなくなつたであらう。どうかした人間だつたら、其の翁の眞黒い直視に會つた瞬間に「斬られたッ」と云ふ錯覺を起して引つくり返つたかも知れない。事實、玄洋社の亂暴者の中では此の奈良原翁ぐらゐ人を斬つた人間は少かつたであらう。さうして其の死骸を平氣で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかつたであらう。奈良原到翁の風貌には、さうした冴え切つた凄絶な性格が、ありのままに露出してゐた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人と云ふ感じに、一眼で打たれてしまふのであつた。

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健兒社の連中は、廣い營庭の遙か向ふの獄舎に武部先生が繋がれてゐる事をどこからともなく聞き知つた。多分獄吏の中の誰かが、健氣な少年連の態度に心を動かして同情してゐたのであらう。武部先生が、わざわざ大分から引返して來て、縛に就かれた前後の事情を聞き傳へると同時に「事敗れて後に天下の成行を監視する責任は、お前達少年の雙肩に在るのだぞ」と訓誡された、其の精神を實現せしむべく武部先生が、死を決して自分達を救ひに御坐つたものである事を皆、無言の裡に察知したのであつた。
其の翌日から、同じ獄舎に繋がれてゐる少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、其の方向に向つて禮拜した。「先生。お早よう御坐います」と口の中で云つてゐたが、其のうちに武部先生が一切の罪を負つて斬られさつしやる……俺達はお蔭で助かる……と云ふ事實がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなつた。毎日毎晩、今か今かと其の時機を待つてゐるうちに或る朝の事、霜の眞白い、月の白い營庭の向ふの獄舎へ提燈が近附いてゴトゴト人聲がし始めたので、素破こそと皆蹶起して正坐し、其の方向に向つて兩手を支へた。メソメソと泣出した少年も居た。
其のうちに四五人の人影が固まつて向ふの獄舎から出て來て廣場の眞中あたりまで來たと思ふと、其の中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まつて四方を見まはした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしてゐる樣子であつたが、忽ち雄獅子の吼えるやうな颯爽たる聲で、天も響けと絶叫した。「行くぞオォ――オオオ――」 健兒社の健兒十六名。思はず獄舎の牀に平伏して顏を上げ得なかつた。オイオイ聲を立てて泣出した者も在つたと云ふ。「あれが先生の聲の聞き納めぢやつたが、今でも骨の髄まで泌み透つてゐて、忘れようにも忘れられん。あの聲は今日まで自分の臟腑の腐り止めに成つてゐる。貧乏と云ふものは辛勞ひもので、妻子が飢ゑ死によるのを見ると氣に入らん奴の世話にでもなりとうなるものぢや。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんやうに成るものぢやが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡つた爽快な聲を思ひ出すと、腸がグルグルグルとデングリ返つて來る。何もかも要らん『行くぞオ』と云ふ氣もちに成る。貧乏が愉快に成つて來る。先生……先生と思うてなあ……」と云ふうちに奈良原翁の巨大な兩眼から、熱い涙がポタポタと滾れ落ちるのを筆者は見た。
奈良原到少年の腸は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以來、死ぬが死ぬまで腐らなかつた。


「ワシは長卷直しの古刀を一本持つてをつた。二尺チョッと位と思はれる長さのもので、典獄時代から洋劍に仕込んでおつたが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが變らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のやうに吹出し乍らたをれる。ああ斬れた……と思ふ位で水も溜まらぬと云ふが全く其の通りであつた。其の癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のやうな感がした。臺灣の激戰の最中に生蕃の持つてゐる棒なぞを斬ると歸つて來てから鞘に納まらん事があつたが、其れでも一晩、牀の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と眞直に成つてをつた。生蕃征伐に行つた時、大勢の生蕃を珠數つなぎに生捕つて山又山を越えて連れて歸る途中で、面倒臭くなると斬つてしまふ事が度々であつた。あの時ぐらゐ首を斬つた事はなかつたが、ワシの刀は一度も研がないまま始終切味が變らんぢやつた。
生蕃と云ふ奴は學者の話によると、日本人の先祖と云ふ事ぢやが、ワシもつくづくさう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿體ない位、立派な奴どもぢや。彼奴等は、戰爭に負けた時が、死んだ時と云ふ覺悟を女子供の端くれまでもチャンと持つてゐるので、生きた儘捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんやうな面附きをしてをつた。彼奴等は白旗を揚げて降參するなど云ふ毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰ひ附いて來よつたのには閉口したよ。そいつを抵抗出來ぬやうに縛り上げて珠數つなぎにして歸ると、日本人は賢い。首にして持つて歸るのが重度いためにかうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使はれてゐるのだ……と云うてをつたさうぢやが、此れにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合ひに望んだ處に來ると、此處で斬るのぢやないかと云ふ面附で、先に立つてゐる奴が白い齒を剥き出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顏を振り返りおつたのには顏負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても歸順する奴ぢやないけに、總督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端から斬り棄る事にしてをつた。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」


大正元年頃であつた。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奧から引つぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに舊友頭山滿翁を當時の寓居の靈南坂に訪れた。
互ひに死生を共にし合つた往年の英傑兒同志が、一方は天下の頭山翁と成り、一方は名もなき草叢裡の窮措大翁と成り果てた儘悠々久濶を敍する。相共に憐れむ雙鬟の霜と云つたやうな劇的シインが期待されてゐたが、實際は大違ひであつた。兩翁が席を同じゆうして顏を見合せてみると、雙方ともジロリと顏を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかつた。知らぬ者が見たら、銀坐裏でギャング同志がスレ違つた程度の手輕い挨拶に過ぎなかつたが、然し、其の内容は雲泥の違ひで、兩翁とも互ひに、往年の死生を超越して氣魄が、老いて益々壯なるものが在るのを一瞥の裡に看取し合つて、意を強うし合つてゐるらしい。其の崇高とも、嚴肅とも形容の出來ない氣分が、席上に磅礡して來たので皆思はず襟を正したと云ふ。
其れから入代り立代り來る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎へ、見送つてゐたが、やがて牀の間に置いてある大きな硯石に注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。「オイ。頭山。アレは何や」 頭山翁は、其の硯をかへりみて微笑した。「ウム。あれは俺が字を書いてやる硯タイ」 奈良原翁は、其れから間もなく頭山翁に見送られて玄關を辭去したが、門前の廣い通りを默つて二三町行くと、不意に立止つて鴉の飛んで行く夕空を仰いだ。タッタ一人で呵然として大笑した。「頭山が字を書く……アハハハ。頭山が字を書く。アハハ。頭山が書を頼まれる世の中に成つてはモウイカン、世の中はオシマイぢやワハハハハハハハ……」
其処いらに遊んでゐる子供等が皆、ビックリして家の中へ逃込んだ。


翁は一服すると飯を喰ひ喰ひ語り出した。「北海道の山の中では冬に成ると仕樣がないけに毎日毎日聖書を讀んだものぢやが、良え本ぢやのう聖書は……アンタは讀んだ事があるかの……」「あります……馬太傳と約翰傳の初めの方ぐらゐのものです」「わしは全部、數十囘讀んだのう。今の若い者は皆、聖書を讀むがええ。あれ位、面白い本はない」「第一高等學校では百人居る中で戀愛小説を讀む者が五十人、聖書を讀む者が五人、佛教の本を讀む者が二人、論語を讀む者が一人居ればいい方ださうです」「戀愛小説を讀む奴は直ぐに實行するぢやらう。ところが聖書を讀む奴で斷食をする奴は一匹も居るまい」「アハハ。其れあさうです。ナカナカ貴方は通人ですなあ」「ワシは通人ぢやない。頭山や杉山はワシよりも遙かに通人ぢや。戀愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに讀んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人ぢやよ」「アハハ。此れあ驚いた」「キリストは豪い奴ぢやのう。あの腐敗、墮落したユダヤ人の中で、あれだけの思ひ切つた事をズバリズバリ云ひよつたところが豪い。人觸るれば人を斬り、馬觸るれば馬を斬るぢや、日本に生れても高山彦九郎ぐらゐのネウチはある男ぢや」「イエス樣と彦九郎を一所にしちや耶蘇教信者が憤りやしませんか」「ナアニ。ソレ位のところぢやよ。彦九郎ぐらゐの氣概を持つた奴が、猶太のやうな下等な國に生れれば基督以上に高潔な修業が出來るかも知れん。日本は國體が立派ぢやけに、餘程豪い奴でないと光らん」「そんなもんですかねえ」「さうとも……日本の基督教は皆間違ふとる。どんな宗教でも日本の國體に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸の無いやうな奴が大勢寄集まつて、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸を持つてをつた。猶太でも羅馬でも屁とも思はぬ爆彈演説を平氣で遣つづけて來たのぢやから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男ぢやらう。日本の耶蘇教信者は毆られても泣笑ひをしてペコペコしてゐる。まるで宿引きか男めかけのやうな奴ばつかりぢや。耶蘇教は日本まで渡つて來るうちに印度洋かどこかで睾丸を落いて來たらしいな」「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸を書添へておく必要がありますな」「其の通りぢや。元來、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的ぢやつた。其れぢやけに本家本元の耶蘇からして去勢して來たものぢや。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸、保存令ぢやと云ふ事を忘れちやイカン」 筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車の中で殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸の講釋を聞くと云ふ事は、一生の思ひ出と氣が附いたのでスッカリ眼が冴えてしまつた。


底本:「近世快人伝」黒白書房 1935(昭和10)年12月20日発行


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