【異郷日記】3/9/24 クリティシズムと賛辞

明け方、深い眠りから突然目覚めるが、職場の泊まり番だった。とにかく眠いが、あと時間弱しかない。朝来るのは新しいワーカーで、起きて解錠したりいろいろと説明する必要があるからだ。ついついソーシャルメディアを見てしまう。ふと目に入った、嫁ぎ先の義兄の妻と言いたいことを言い合って口論する話しを見て驚いた。もはやコントのようでもあったが、たぶんご本人たちは真剣だと思う。

自分の家族ではありえない、友だちともありえない。私の周りは極力争いを避ける人たちだからというのもあるが、自分自身、相手にそんなにはっきりと言える自信がないことが多い。だって解釈の仕方は千差万別で、みんないいんではと思うから。でも社会正義や倫理に反することなど、結論がゆるがず一つの時には私は強く主張できる。そのソーシャルメディアで見かけた人は、そういう普段ははっきり言わないお茶を濁す日本人的ふるまいで、どうしてもの時にだけ強くなれるが、でもいやなので早く終わらせたい、という軟弱な私とはかけ離れている。なんとゆうか、起爆力と忍耐力がすごい。

しかし今の暮らす異国の人たちも意外とはっきり言わない時がある。本音と建前があるのは日本人だけというが、そんなことはなくて似たようなものがある。でも日本と同じあり方ではないので、本音と建前という日本人がイメージするもので表すのも違うと思う。人間同士のコミュニケーションに、リスペクトを持つという前提がかなり意識的にある気がする。そして、それは自分と他者のバウンダリーを、明確に引くことで表現されている。日本では最初にすべてを持ち寄ってからバウンダリーを後から引くイメージだが、ここではバウンダリーをしっかり引いてから共通点を見つけてシェアしていくイメージだ。

そのために、この社会ではふるまいとして期待されるマナーがあって、そのマナーの内容が日本人とは違う。日本の会社組織などではたぶん見つけにくいが、こちらでのよいマナーは、堂々と話す、自分の意見をもつ、クリティシズムを受け入れる、そしてクリティシズムと補完関係にある賛辞を惜しまない、などだと思う。

クリティシズムは日本語に訳すと批判になるので、攻撃的なイメージがあるが、目標に達するために必要な過程としてのディスカッション、そしてその目標到達の障害物となるような相手の意見やパフォーマンスに対して疑問を投げかけると言うイメージだ。クリティシズムを批判や攻撃とは捉えないで批評ぐらいにして耐えうる度量が求められているのだと感じる。そして必ず、その相手が、自分が、チームが、組織がよりよく成長するために目標に達成するために必要な一意見として伝えるということだと私は意訳している。クリティシズムがある時は、Don't take it personallyという言葉が使われるように、個人の人格などの攻撃になってはいけない。発信者もそのあたりを踏まえて臨む必要があるが、受け手としてもそのクリティシズムが当然のこととして受け入れる度量、やそのマナーがなければ、信用もなく競争に勝てないのだと思う。職場で上に立つ人はこの辺りの言葉の選び方や表現の仕方が上手いことが大半である。気持ちよく感じるマナーの人たちである。

このクリティシズムを補完するのは、ものすごい賛辞、褒め言葉だ。こちらの人は日頃から本当によく褒めてくれる。日本でかわいいね、それいいねというような褒め方と同じ感じだが、その回数が多い。しかし、これはたぶんクリティシズムとセットで、前段階としてたっぷりと日常的に提供し合って、クリティシズムができる関係を自然と作るのだと思う。これは本音と建前と似て見えるが、完全に本音のようにシャットダウンして覆い隠し、まるで何もなかったように見えるようにするわけではなく、クリティシズムを伝えていくと言う意味では、必ず伝えることが前提なのだと思う。

そういえば昔、こちらの院時代に実習で小学校に行った。その時に、小学校名got talentという学内の催しがあり、一芸に秀でる者が名乗りをあげ、オーディションを潜り抜けて、全校集会でパフォーマンスを披露するというものだった。オーディションでは本当に上級生何人かと先生の1人が審査員になり、1人1人のパフォーマンスを見ていた。私もその場にいたが、おふざけに近いもの、ダンス、けん玉、歌、ギター演奏などあったが、ほとんどが人前で披露してみんなからそのパフォーマンスの質に賛辞をもらうレベルというより、とにかく参加してみたい、脚光を浴びたい、自分はすごい、できるという根拠のない自信を元に集まっている様子だった。審査員たちは全員にとてもポジティブなフィードバックを返していた。クリティシズムとは全く遠い、賛辞に近いもので、出場権をあげるから練習してくるようにと伝えていたりした。そして迎えた当日。ほとんど誰にもパフォーマンスの向上は見られなかった。中でも、ギターでタイタニックのテーマを弾いていた子は、間違いが多すぎる上に半音ずれていて、タイタニックとして聞き取るのは大変難しかった。その上、おぼつかないので、会場の体育館に静寂が頻繁に訪れる。私はその音の空白ができる度に息を呑んで勝手に胸を痛めていた。会場もある種の疑問のような戸惑いは起こる。固唾を飲んで見守る感じだった。しかし、なんとか終えたあと、全員が会場からすごい拍手をもらい、本人は満足そうにステージを去った。

この時に、私は現地のこの褒め文化の根底とその育まれ方を見た気がして、現地の人々の様子に大変納得がいった。そしてこれは勝てないと思った。なぜなら、このような明らかに練習や努力なしのパフォーマンスでも拍手をもらい、それでも褒められるのだ、その勇気のために。このような自己肯定のされ方を積み重ねれば、クリティシズムにも耐えうるし、自分を責めたりすることもないのだろう。脚光を浴びることに抵抗もなく、自分を前面に出していく。

オリンピックのブレイクダンスの女子代表のあまりに低いレベルのパフォーマンスが話題になった時にすぐに思い浮かんだのはこのタイタニックのギター演奏だった。あのような人が認められて、舞台に立てた理由の一つの源流はこれではないかと思った。あれはクリティシズムの欠如と言えると思うが、日本はこのぐらい褒めてあげたいほど努力を惜しまない人たちがたくさんいる。褒める潮流は学校教育に流れ込んで数十年だと思うが、もっともっと褒めてあげたい。そして次はクリティシズムに耐え、同席できるような力をつける学校教育を日本に望む。そのクリティシズムの取り入れ方の現地の様子を観察したい。

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這々の体で就業までたどり着いたが、もうひとがんばりでメディテーション。怖いことを思いながら、一番こわい、こんなことは起きてほしくないいうぐらい一番こわいことを思い出すとようにとのガイダンスだった。それが何かは明確にはわからなかった。いろいろ思い出したが、どれも軽く感じて移ろった。ただそのこと自体はわたしの心を軽くした。たいしたことじゃなかったのかもしれないという感覚と、そう思えるほど手放してきた感覚もあったからだ。胸を広げて上に突き出すポーズで胸が伸びて息が通り。痛い首も楽になった。舌を喉の奥につけて呼吸を繰り返す。腹から体全体に振動がある。それは本物だ。心が震えることだ。この震えを大切に、その感覚で自分の良いところを認め、改善点も受け入れていきたい。

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