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日本の公鋳貨幣34「天正大判」

来年の大河ドラマ「どうする家康」にて、徳川家康の側室、お万の方の登場が確実になりました。

実は、今年最後の仕事の納品物が、まさにそのお万の方を紹介する動画のシナリオとディレクションでした。監修の原島広至先生にも、大変良くしていただき……。2022年は編集・ライター一本で生活してきた自分に、動画のシナリオという新しい仕事の形を紹介していただきました。今後の人生の選択肢が大きく広がったと感じており、この縁に感謝しております。

東京駅八重洲口正面に立つ、新槇町ビルさんの1Fフロアモニターで放映しておりますので、近くを通りかかった際に見ていただければ。

織田信長の金銀利用

公的機関が製造し発行した貨幣を、私のなかでは公鋳貨幣と呼んでいます。ですが、源頼朝が武家政権を樹立してから400年あまり武家政権は貨幣発行を行おうとした形跡はありませんでした。

このような本邦の状況は、戦国時代に入り一変します。大名たちは、他地域や外国と交易をおこない、経済力を高めることで生き残りを模索しはじめました。この過程で領内で貨幣を発行することの重要性が気づかれ始めました。

では、戦国時代最初の勝者に王手をかけた織田信長はどのような形で貨幣発行を行ったのでしょう。

創作では、信長の改革者という面が大きく取りざたされることが多いですが、基本的に信長の行った事業というのは保守的なものばかりです。有名な楽市・楽座制度は浅井長政の政策ですし、関所の撤廃なんていうのはもっと前から様々な人が行っていますね。

信長の貨幣政策はざっくり以下の4つの柱にまとめられると思います。

1.金銀の増産に努め、支払い手段として使用させた。
2.各種銭貨の通用価格を調べて、実情に合った価格統一を行った。
3.2に付随して、米による売買を禁止した。
4.輸入品以外に限り高額取引は金銀を用いる、それ以下の取引は精銭を使用を徹底。

この内1に関しては、金貨幣を鋳造したというわけではないだろうと考えられています。安土城で信長と謁見をしたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、その日本滞在記録『日本史』のなかで、「日本には鋳造された金貨または銀貨は存在せず、その重さによって取引される」と記載しています。ヨーロッパに日本の実情を詳細に伝えることも任務であった彼が、"鋳造貨幣がない"と断言したわけですから、やはり信長は金貨幣を鋳造していなかったというのが実情でしょう。


フロイスの『日本史』

ちなみに、イエズス会は日本の人々の記録よりも詳細に信長の周りのことを記録しております。というのも、当時日本に来ていた日本イエズス会は年度報告という形で、イエズス会総長に『イエズス会日本年報』という報告書を提出していたからです。

その報告書によると、本能寺の変で信長を殺した明智光秀は、信長が城内にため込んでいた金銀を、部下や諸寺院に分配したそうです。この金銀はことごとく、「一定の目方の棒」であったと記録されています。おそらくこれは、"竹流し金"や"棹金"という名称で、古銭市場に流通している棒状金塊のことでしょう。


竹流し金※造幣局のサイトより流用

信長は金銀をため込み、支払い手段として使っていましたが、貨幣として鋳造を行うことは行なわなかったのです。

豊臣家の貨幣発行計画

対して、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は金貨幣の鋳造を行っています。これは、全国の金銀山を支配できたことによって従来の政権が所有したことのない量の金銀を、たった一人の手元に集めることに成功したからでしょう。同じ人間の手元に集めた金銀なのに、わざわざ全部違う形に切り固めて保管するなんていう効率の悪いことは行わないでしょうから、重量と形状を一定に定めようという事になったのです。

秀吉が作った金貨のなかでもっとも有名なのが『天正大判』となります。初鋳は天正16(1588)年。天正とつけられていますが、厳密には鋳造時期は江戸時代にあたる慶長年間にまで及んでおります。つまり、天正大判んとは、豊臣家が鋳造を命じた大型の金貨全般を指す名称ということになります。


天正大判※※図録 日本の貨幣 第1巻より

最大の特徴はやはり、その大きさでしょう。総重量は44匁1分(165.4g)。金の品位も造幣局による鑑定では、約700/1000~730/1000に統一されています。この重量の金塊を薄く楕円形に延ばしたため、長辺が14cmから17cmという巨大さとなりました。

もっとも初期型のものは、表面の上下に「丸枠切紋」の験極印が一個ずつ打たれております。中央には金の重さを表す「拾両」の文字と、製造責任者であった「後藤」の名前が墨書きで記されています。秀吉はこの大判を製造させるにあたり、室町幕府お抱えの彫金師であった後藤一族の中から、名人とうたわれていた五代・後藤徳上に命じたと伝わっています。この大判はすでに何度か述べてきたとおり、あくまで褒賞用、贈呈用として用いられていました。ですが、特殊な数え方をしており、重さ10両であるにもかかわらず、「1枚」・「2枚」と数えていました。これがのちに「1両」という重量単位が重量を指す言葉ではなく、大判を数える計数単位へと変化していくきっかけになったと考えられています。

あくまで秀吉の天正大判は、重さが一致していることが大事な貨幣でした。そのため、長編の長さが異様に長大なもの、横幅や鏨目が一致していないものなど、様々な種類を生み出しました。なかでも特殊なものが「天正大仏大判」などと、一般的には伝わっているものになります。


天正大仏大判

これは、秀吉が方広寺の大仏を作らせる際に発行した物とまことしやかにささやかれていましたが、近年はむしろ、息子の豊臣秀頼が秀吉の業績を悼みつつ、慶長伏見大地震で倒壊した方広寺の大仏を、再建する際に発行した物と考えられており、厳密に言は秀吉の金貨ではなく秀頼の金貨であるという見方が一般的です。

となると、発行されたのは慶長14(1609)と考えられます。

江戸時代から発行が始まっているされたものだけあり、徳川家康が発行していた慶長大判に似た形状へと変化を遂げていますが、いまだに表面は墨書されています。墨書は、1枚1枚手書きで施すため製造に大変時間がかかります。そのため、大量生産には向きません。秀頼はそもそも本貨を大量生産させる気がなかったという気でしょう。

ということで、今年最後の更新となりました。今年は後期が新しい仕事を始めたり、書籍を連続発行したりで大変忙しく、こちらの方の更新が滞ってしまいました。来年は某媒体の編集長を務めたり、また、お金関係の本の製作が始まったりとすでに1月から忙しいことはかくてしていますが、こちらの更新も怠らないように頑張ってまいります。

では、みなさまよいお年を。


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