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日本の公鋳貨幣12「乾元大宝」

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発行当初から全く使用されなかった貨幣

いよいよ、奈良〜平安時代に朝廷が発行した最後の貨幣「乾元大宝」の紹介にまでたどり着きました。『日本紀略』に、村上天皇の御代である天徳2(958)年、3月25日の条

『改銭貨文延喜通宝為乾元大宝』

という一文があります。訳すなら『貨幣の文言「延喜通宝」を改めて、「乾元大宝」にしたよ』というところでしょうか。発行事由に関する明文は書かれておらず、いつもの新旧銭の交換比率も残っておりません。

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発行した村上天皇は、天慶9(946)年から 康保4(967)年まで在位していた第62代の天皇。文化事業保護を篤く行い平安時代の国風文化を決定づけた天皇として、その政治を「天暦の治」などとよんだりします。まあ、実質藤原北家の傀儡です。彼の時代の朝廷は、藤原純友と平将門が反乱を起こした承平天慶の乱(935〜940年)の鎮圧により財政が逼迫しており、文化的な事業しか行えなかったというのが正確な評価かもしれません。

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↑村上天皇

むしろ、明治維新を先導した公卿の岩倉具視の直接のご先祖様という事の方が大事かもしれませんね。

前銭である延喜通宝から続いて、鋳銭司は鉛を多く用いての鋳造を試みております。そのため、状態のよいものでも含有金属量は鉛75%ほどとなっております。

当然、世上の評判はさんざんで、当初から信用はまるで得られなかったようです。応和3(963)年には旧銭の通用を停止して、乾元大宝の通用のみを命じる令が出ていますが、効果はなかったようです。とはいえ当時の朝廷に経済政策という概念が今程あるわけもありません。同年11月17日に伊勢神宮を含む全国15の寺に命令し、人びとか銭を用いるように祈祷を行わせる奇策に出るくらいしか打つ手がありませんでした。

『日本紀略』には、この令が出てから20年後の永観2(984)年の記録がありますが、そこには

近来世間銭嫌尤甚、適所取銭号二寸半、銅銭原直也
書き下し:近来世間の銭を嫌う事尤も甚だし、たまたま取る所の銭は二寸半(ふたきなか)と号し、銅銭は原直(金属の潰し値)なり

と記載されています。

もはや、乾元大宝は貨幣としての機能を失っていました。『日本紀略』には、その3年後の永延元(987)年11月2日の条にも本貨幣含む銭のことが記載されていますが、そこには『上下の人びと銭貨を用いず』と断言されてしまっているのです。この年、銭を使わない人を犯罪者として取り締まったという記録もあります。この、無意味な取り締まりも人びとに銭に対する恐怖心を植え付けたようです。

銭がこのころから決定的に嫌われたことを裏付けるような研究結果も、京都大学名誉教授の小葉田淳氏から出ています。小葉田氏は、昭和22年から昭和32年にかけて発行された『平安遺文』から、田畑・家屋の売買記録を記した売券だけを抽出しました。『平安遺文』とは、東京大学名誉教授だった竹内理三氏が、天応元(781)年から元暦2(1185)年までの古文書を収拾し、編年順にまとめたものです。その結果、長保年間(999年〜1003年)以降、銭貨を用いた取引記録がまったくなくなり、米穀や絹を用いるようになっていることが判明しました。

朝廷はつくっても使用されない銭をつくることをやめました。


朝廷権力の低下により発展した日本経済


さて、ここで一旦日本の「物」としてのお金の歴史は幕を閉じることになるわけです。日本は再び物々交換に戻り、経済活動も縮小していく……わけではありませんでした。勘違いされている方も多いのですが、日本のお金の歴史が一旦終わったこの時期、日本の経済は明らかに成長しているのです。

それは、何故か?

皮肉な事ですが、すべては律令制が崩壊したからです。

大宝元(701)年に制定され、奈良・平安時代の朝廷政策の指針となった大宝律令には、租庸調という税制を全ての国民に対して課しました。

・「租」とは、国民ひとり当たりに与えた土地から穫れる米の収穫量の3%~10%を収める税。
・ 「庸」とは20歳以上の男性へ賦課され。京へ上って労役を行うか、その代納物として布・米・塩などを京へ納入する税。
・ 「調」とは、繊維製品の納入、または代わりとなる地方特産品や貨幣を納入する税。

です。

問題となったのは、まず税の運搬方法です。律令法では、これらの納入に車や船を使う事を禁じていました。なので、納税者が自らの足で都まで運搬する必要がありました。インフラも治安も整っていない時代のことですので、納税の旅は命がけになります。実際死者も大量にでたそうです。

次に、そもそも南方の植物である稲を比較的寒冷地の多い日本で育てるのは大変難しいという問題もあります。すぐに弱ってしまう稲を育てるには付きっきりにならなければならないのに、納税で都へ出向いている数ヶ月のあいだは耕作地をほったらかしにするしかありませんでした。当然、年を経るごとに米の出来高は減少していきます。付け加えるなら、留守の間、「調」のための布を織る余暇もなくなってしまいますしね。

数ヶ月耕作地を離れるだけでも厳しいのに、この上、律令制には徭役という強制労働税もありました。奈良の大仏をつくるとなれば呼び出され、平安京をつくるとなれば呼び出される。米も布も作っている時間がなかったのです。

当然、農民達はこの税制に耐えられません。最初は戸籍の改竄(租庸調は原則男性にかかる税なので、戸籍を女性として申告する)から始まり、やがて国家から与えられた班田を放棄し逃げだすようになりました。

こうした農民たちの受け入れ先となったのが、貴族や寺社が開拓していった荘園でした。荘園は、大貴族の物であればある程、強力な不輸・不入の権があるため国家の租庸調から逃れることができるのです。たしかに貴族の奴隷的な扱いとなり耕作地に縛られる事になるかもしれませんが、過酷な税からは解放され、農業に集中することができるのです。

荘園の発達により律令政府の財政基盤は破壊されましたが、農業を中心とした第一次産業はおおいに発展しました。これらは律令制外で生産された米穀ですので、車も船も使いたい放題。地方の荘官らが、荘園内で生産された米を本家へ納入したり、あるいは余剰物を売りさばくために雇われる輸送商人も誕生します。物流業が勃興しました。

皇朝十二銭は国内の経済規模が小さいなか外圧を受ける形で誕生し、その後主に朝廷の財政補填という思惑をうけ継続して発行され続けました。が、そこに民衆の意思というものは反映されていませんでした。

貨幣は、国家の都合ではなくあくまで国民の需要があってこそ普及します。

平安時代後期、律令制度が崩壊した事により日本に経済発展の素地ができあがり「輸送を楽にしたい」「取引の記録を楽にしたい」という需要がうまれました。やがて、民間から貨幣を求める声が上がってくることとなるのです。

さて、勢いで書いてきた皇朝十二銭の紹介は、ひとまずここで終わります。が、このシリーズ『日本の公鋳貨幣』と銘打っている以上、この後の日本のお金の話も、最低、昭和20年くらいまではしていかなければなと思ったりしています。

ですがその前に、奈良・平安時代のお金について番外編でもつくって説明しなければならないなと思っています。

皇朝十二銭以上に、日本中で使われていた、朝廷公認だったお金。

次回は、「米」「布」、そして「砂金」についてのお話です。

↑ちょっとその前に、せっかく皇朝十二銭まとまったし、しっかりと記事内にリンク貼り直しておこうっと。


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