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日本の公鋳貨幣 13 「渡来銭時代1」

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日本で貨幣がつくられなくなった時代の中国大陸

タイトルを何も考えずに「公鋳貨幣」と付けてしまった事について、非常に後悔をしております。というのも、本邦の政府が次に貨幣をつくるのは安土桃山時代のことであり、実に600年以上にわたり公の貨幣がない時代が続くからです。

が、この公の貨幣がなかった時代のことも書いておかないと、安土桃山時代の貨幣登場の経緯についてよくわからなくなってしまうので、これから暫く日本で流通した公鋳以外の「お金」と、その周辺の話題ばかりになってしまいます。ご了承ください。

平安時代末期は、一部貴族による収奪こそあれ、日本では朝廷による収奪が無くなったことにより農民の生活は奈良時代より安定。日本経済は横ばい、あるいは緩やかな上昇の段階に入りました。その中にあって、急激に経済発展をしていた地域が、博多平泉でした。どちらも大陸との貿易の玄関口として機能しておりました。そのため、この当時としてはかなり大規模な商取引が行われておりました。この二つの港では中国から渡ってきた大量の銭が、取引媒介として用いられていたことが判明しています。

この2都市で流通していた銭がやがて全国を席巻し、天皇や摂関家から権力を奪い取っていくのですが、まずはなぜ、12世紀の日本の港に大量の中国銭が渡ってきたのかについて中国の事情から解説していきたいと思います。

恐らく、日本の貨幣史の本では「中国から銭が大量に渡ってきた」としか書かれておらず、中国の事情についてまで解説しているものは少ないと思います。ですが、この事情が分かっていると源平合戦までの流れがものすごくスムーズに理解できるのです。

日本が国家として中国大陸との貿易を行っていたのは、寛平6年(894)年までのことです。この年、菅原道真が唐との貿易を白紙に戻すことを決定。理由は、唐の衰退が始まっていったからです。わざわざ命の危険を冒し、莫大な費用を用いてまで唐から学ぶことはないと道真は考えていました。

この道真の見立ては、見事に当たるわけですが……。

現在の高校の日本史の授業では南宋までのあいだの中国大陸の情勢がするっと抜け落ちています。それは、このあと100年に渡り中国と日本の国交がなくなってしまったからなのですが、中華文化圏のもっとも端に位置する小国である日本が、中国の影響から抜け出ることはもちろんありませんでした。

もっともこの時期、国風文化が盛り上がるので、国際関係以上に学校の授業で教えなければならないことがたくさんあるのも理解できます。

894年の中国大陸は、混迷の時代でした。すべての原因は755年に唐で起きた、「安史の乱」という大規模な反乱です。この反乱を唐は一国で抑えることができず、周辺国に援軍を求めたり、各地の節度使(県知事みたいなもんです)に、自治や徴税の特権を与えることで味方に引き入れなんとか鎮圧に成功します。鎮圧にかかった期間は実に10年。唐の皇帝の権威は地に落ちました。

唐の中央集権構は完全に崩れ去りました。なので、平安時代日本が遣唐船を派遣していたころの唐というのは実は衰退期に当たります。有力な節度使や宮廷にはこびる宦官によって、皇帝の権威が落ちていた時期なのです。皇帝は、即位から廃位にいたるまで、その人生を周辺の政治家の圧力によって左右される存在でしかありませんでした。

そうして、徐々に力を削がれていった唐の皇帝は、ついに首都を攻め落とされるほど弱体化してしまいます。907年、時の皇帝であった哀帝は、家臣の中でもっとも力のあった朱全忠に帝位を譲り、唐は滅亡しました。

この後、中国は五代十国と呼ばれる、小国が勃興しては滅亡を繰り返す大混乱の時代を迎えるのです。

軍事力を犠牲にして誕生した経済大国「宋」

わずか60年に満たない期間に5つの王朝とその他複数の国家を生み出した五代十国時代を、最終的に勝ち残ったのが960年に趙匡胤がつくった宋(北宋)という国家でした。宋は分裂した中国の武力統一に成功しますが、1004年に、北方の遼という国との戦争に敗れてしまいます。

この時、宋は従来の中華の帝国ではありえない手段をもって戦後処理を行いました。中華思想でいう夷狄の国家である遼に対して、毎年貢物を行うことで和平を結んだのです。中華の帝国としては恥ずべき決断でしたが、この取り決めは国民生活を大いに助けました。

古代から、中国に覇を唱える帝国最大の敵は、常に北方の異民族国家でした。ですが、これと和平を結ぶことができたのです。

宋は、それまでの帝国が北方の防衛費用として用いていた予算の多くを、内政に回すことができました。宋が主にこの予算で行ったのが交通インフラ、特に運河の整備です。中国全土をつなぐ大規模な交通網が完成し、商業の発達を誘引しました。

商業が栄えれば大量の貨幣が必要となります。11世紀半ば時点で、宋は年間60億枚近い貨幣を鋳造発行するほどの貨幣経済国家となりました。

ですが、いいことばかりではありませんでした。

まず、軍備の縮小により、中国全土を治める帝国とは思えないほど軍事力が低下しました。軍事力の低下は軍人の社会的地位を下げ、その分官僚の権力が増大しました。軍人と違い官僚はいくら争っても命を懸ける必要がありません。結果、くだらない権力争いで政争が絶えない国家となりました。さらに、貨幣経済社会をうまく生き抜いた大商人と、貧しいそれ以外での貧富の差も広がっていきました。

この状態を改めようと決意したのが六代皇帝神宗です。神宗は、保守派の官僚や既得権益層の力を削ぐべく、従来と全く違う政策を掲げる王安石を登用。新たな法律による改革を実行します。この改革は、大きな成果を上げたのですが、保守派の官僚と改革派の官僚の対立を生み、政争はやがて国家を二分していきました。

政争は神宗の死後も続きました。争いの中、有能な官僚が左遷や追放の憂き目にあいました。最後に残ったのは、改革も国政にも興味をもたず自己保身を図ることに長けた政治家たちでした。

1115年、北方で新たに女真族が金という国を建国しました。宋に残った無能な官僚は、目の上のたんこぶである遼の裏をかくチャンスであると皇帝に進言します。宋は金と同盟を結び、共同で遼を攻撃することになりました。この両面攻撃に耐えられず1121年に遼は滅亡しました。

ですが、現実を見ていない宋の官僚と皇帝はここで調子に乗ります。なんと遼の残党を集め、今度は金を滅ぼそうとするのです。前述のとおり、宋という国には自国を守るだけの軍事力すらないのにです。

ずさんな計画はすぐに金に洩れました。あっさりと返り討ちにあった宋は、1127年に滅亡。皇帝一族はすべからく北方へ拉致されました。逃げ延びた皇族は南方へ逃れ、宋という国家を続けます。この残党国家を南宋と言います。文化的には北宋と地続きの商業国家とはいえ、滅亡した国の生き残りがつくった国ですから、金に対抗できるだけの軍事力も経済力もありませんでした。

そこで南宋では金に対抗できる軍を編成する経済力を身に着けるべく、比較的良好な関係のままであった日本との貿易に着目しました。さらに、貨幣制度も改革を行います。北宋時代のように大規模な銭を鋳造するにはお金がかかります。そこで、銅銭より低価格で生産できる紙幣による発行差益収入を目指しました。年およそ60億枚ずつ生産されていた北宋の銭は、使用禁止となりました。

となると、商人がもつ古銭の行き先がなくなってしまいます。このゴミとなった銅銭が、12世紀に貿易で大量に日本に売却され流入してきたのです。この南宋が持ち込んだ中国大陸の古銭を、日本史の用語で「宋銭」と呼びます。宋銭はその多くが北宋の銭ですが、南宋の商人は中古の銭なら何でも日本へ輸出したようで、北宋・南宋以外の銭も宋銭と呼ばれています。

宋銭は南宋商人にとっては、もはや使えないゴミでしかありません。なのでどれだけ日本人が南宋から銭を買っても、この銭を用いて南宋商人から商品を買うことはできませんでした。かといって、日本では貨幣を使う習慣が廃れてから百年以上経っているのです。

何故、日本の商人はこのような中古の銭を喜んで輸入していたのか?次回はその理由について解説していきたいと思います。


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