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日本の公鋳貨幣5『隆平永宝』

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延暦15(796)年、『隆平永宝』という名前の直径24〜25mmの銅銭が発行されました。『鳴くよウグイス平安京』でおなじみ、延暦13(794)年の平安京遷都から2年後のことであり、この貨幣が平安時代に初めて発行された貨幣となります。

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発行時の天皇は、桓武天皇。発行の目的は、平安京の遷都に伴い増大した支出を、シニョリッジ(通貨発行益)で補う事と言われます。そもそも、どうして大仏まで建立した奈良の平城京を捨てて、平安京をつくらなければならなかったのでしょうか。

この問題を語る上でも、前回登場した道鏡が関係してくるのです。

増大した奈良の仏教勢力の権力

話は聖武天皇の時代にまでさかのぼります。神亀元(724)年に即位した聖武天皇は、当初、長屋王という皇族に政治を任せていましたが、神亀6(729)年、藤原四兄弟にはめられる形で長屋王の変が勃発。長屋王は自殺へ追い込まれてしまいます。

長屋王亡き後の政権は藤原四兄弟が引き継ぎ、朝廷内における藤原氏の勢力が力を増していきますが、前回解説した通り四兄弟は天平9(737)年に天然痘に罹患し相次いで死亡。聖武天皇は自らの治世下で2度も政権の中枢となる人物を失うという憂き目にあう事になったのです。

そして、聖武天皇の問題行動(当時としては理にかなった行動なのですが)が始まります。まず、天然痘の流行、火災や地震などの天災が続くのは土地が呪われているからと考え、遷都を繰り返しました。もちろん、都を遷して神に祈るだけでは決して世の中は丸く収まらず、支出だけが嵩みました。

神に祈るだけでは事態が好転しないと考えた聖武天皇は、そこで神ではなく仏に深く帰依するようになります。政治の実務は橘諸兄に任せつつ、自身は天平13(741)年に国分寺建立の詔を出し全国各地に寺の建設を命令、天平15年(743年)には奈良の大仏の建立を行ったのです。これも大変な出費となりましたが、聖武天皇の善意から出た出来事ですので誰も止める事はできませんでした。聖武天皇により、朝廷においてはあくまで異邦の神でしかなかった仏教の立ち位置が俄に高まり始めます。というのも、仏教には従来日本に存在した神道とは決定的に異なる要素があり、政治の力を必要としたからです。

仏教と神道の決定的な違い。それは、祈りの場や祈りの対象(偶像)を必要とすることでした。神道の神々は、基本的に自然そのものであり、ただ、その場に対して祈る事で儀式を済ませることができます。もちろん神社や神棚のようなものを建てる場合もありますが、祈りの根本はこの地球上に存在するものでした。ところが仏教は、祈りの場としての寺と、祈りの対象である仏像を必ず設置する必要があったのです。この2つを用意するには、必ず巨額の資金が必要となるため政治の力を借りるしかありませんでした。

こうして、朝廷と仏教勢力が急速に接近し始めました。さらに問題となったのが奈良の大仏建立と同じ年に発令された「墾田永年私財法」です。これは、個人が自らの力で耕した土地は、個人資産として所有して良いという法律です。国家が民や国土を直接管理するという律令制度の精神とは根本から矛盾する法律でした。たしかに聖武天皇の時代には、前述の通り大きく国が乱れる事件が続いたため荒れ地が増えていたという問題があり、それを朝廷だけの力で解消する事は難しい経済事情がありました。なので、民間資本を活用しようとしたのですが「開墾を行うにも資本が必要である」という原則を朝廷は見落としていました。

結局、この法律で自らの土地を手に出来たのは、皇族や有力な貴族、地方の豪族、そして「政治と結びつくことで多大な資本投資を受けていた寺院」に限られました。

全国各地に寺院が管理する私有地が生まれました。特に、奈良時代の都としての歴史が長かった平城京周辺には、聖武天皇によって保護された大寺院の私有地が広がる事態になりました。こうなると、仏教勢力が政治に介入してくるのは当然です。朝廷にとって仏教がうざったい勢力へと成長してきました。聖武天皇の娘である称徳天皇は、一時的に墾田永年私財法の停止を行って仏教勢力の力を削ごうとしていますが、そんな彼女も道鏡を政界へ引き入れ神護景雲3(769)年に宇佐八幡宮神託事件を引き起こしいるわけですから是非もありません。

このころから、朝廷の目的に、いかに仏教勢力から政治力を奪うかという命題が生まれたのです。平安遷都を実行した桓武天皇は、宇佐八幡宮神託事件を引き起こした女帝・称徳天皇の跡を継いで天皇となった、光仁天皇の長男にあたります。父・光仁天皇は混乱しきった称徳天皇の治世を正すべく、実力派の若手貴族を次々と採用しました。が、結果的にそのことが貴族間の争いを広げ、新たな火種をまく事になりました。

そのため桓武天皇は即位するとすぐ、有力貴族の藤原百川らと共に奈良・平安時代を通しても類を見ないような天皇親政体制を構築します。仏教勢力が口を出せないようにしたのです。

父が巻き起こしたごたごたは、桓武天皇の即位を遅らせましたが、彼が官僚としての経験を積む時間を与えました。この経験により、桓武天皇は朝廷が抱えている問題を熟知し、平城京周辺で勢力を伸ばし意見具申を行う奈良の各寺の問題を悟っていました。

なので、桓武天皇は次の一手として奈良を捨てて、新たな都へ遷ろうとしたのです。

桓武天皇が仏教勢力と袂を分かった事がはっきりと分かる事例が彼が頼った豪族の秦氏です。秦氏は、その名の通り大陸から機織りを伝えた渡来人の一族の末裔で、仏教・神道どちらの宗教勢力からも距離を置いていました。彼らは、山背国(山城国とも。現在の京都府)の山間部の開拓をしておりました。桓武天皇は彼らと手を組み、延暦3(784)年に宗教勢力の土地からもっとも遠い山間に長岡京をつくりました。

桓武天皇は、長岡京遷都の翌年、日本の天皇としては初めて郊祀という祭祀を行います。

郊祀とは、中国において天子が天地を祀る祭です。つまり、秦氏の一族が行っていた宗教儀式であり、神道・仏教どちらも関係のない儀式です。儀式の実行は、仏教に頼らない新たな国家運営を行うという決意表明でもありました。

しかし、この年は日照りや台風などの天災が続きました。おまけに延暦4(785)年に桓武天皇の弟である早良親王が不自然な形で亡くなったのです。民衆や奈良の仏教勢力はこれを、伝統を軽視した桓武天皇に天皇の資格がないからであると結びつけました。桓武はやむなく、長岡京を呪われた都として離れ、現在の京都市である平安京を造営し始めました。

同時に、ただ仏教を軽視しているわけではないというアピールも行いました。それが、最澄と空海の唐への派遣です。桓武は短期留学生として送り込んだ彼らに、大陸の最新仏教(密教)を学ばせ、彼らを保護する事で、奈良の仏教勢力を古い物と糾弾しました。ついでとして、奈良の寺院の封戸(奴隷となる住民)の削減も行っています。

さらに、現在の急進派政治家のようなことも行って、貴族や国民の狂信的な支持を集めます。即ち、東北地方への軍事侵攻です。延暦8(789)年から3度に渡り開始された東北遠征は、坂上田村麻呂が蝦夷のリーダーである阿弖流為を捕えた延暦21(802)年まで10年以上に及ぶ大侵攻となりました。

さて、ここで743年に出された墾田永年私財法を思い出してください。この法律は、開墾した土地はすべて開墾者のものとなる法律です。大寺院や豪族が切り開いた土地は、国家ではなく豪族のものとなるため、当然平安京への遷都が行われるまでの約50年間のあいだ、朝廷の税収は右肩下がりとなっていました。もちろん、東北侵略が成功すれば、それを補うだけの新たな土地を手にする事ができますが、軍隊の派遣だって「ただ」というわけにはいきません。2度に渡る都の造成と、この軍事費の捻出のため、隆平永宝は必要とされました。

発行時の再度の価値の切り下げで信用が失われる


本貨の銭文は時計回りに「隆平永宝」。裏面には記載がありません。発行の経緯については『日本後記』の巻五に記されています。それによるとこの時代は私鋳銭の盛行甚だしく、官銭は価値が低下して貯蓄しても意味がないありさまとなっていたそうです。そこで桓武天皇は、新たな銭「隆平永宝」を発行して、新銭1=旧銭10の割合で併用させよと命じたそうです。

この記録は、当時の他の記録や実際に出土する官銭「神功開宝」の数と併せてみると、どうも実態とかけ離れています。神功開宝の価値の低下は、どちらかというと銅質の低下や貨幣の濫発が原因のようです。実際、桓武天皇の就任後である天応元(781)年、それまで必要に応じて臨時的に設置されていた官営造幣工場の鋳銭司が頻繁に設置されるようになっています。桓武は、自身の政策の財政補填として神功開宝を用いており、不必要に大量の貨幣が世の中に出回ったため、1枚当たりの価値は当然下がったのです。桓武天皇は天応2(782)年に貨幣価値を高めるべく鋳銭司の廃止を命じていますが、これには行政機関の簡略化による経費削減の他、予想以上に悪化したインフレーションの防止が目的にあったと考えられます

しかし、桓武天皇の政策を実行するには多額の資本が必要なのは事実でした。そのため、桓武天皇は延暦9(790)年、鋳銭司を復活させ、再度、神功開宝の鋳造を開始しました。もちろん、神功開宝の価値はさらに下がっていきます。悪循環に陥った貨幣政策を見直そうと、当時の役人が頼ったのは前例でした。幸いなことに、天平宝字4(760)年、当時の新鋳銭「万年通宝」発行の際に新銭1=旧銭10の比価でデノミを行うという無茶を行っていました。

強制的なデノミ政策は第3回で解説した通り経済をかく乱させます。ですが、桓武天皇の政策を実現するには多少の混乱には目を瞑るしかなかったのでしょう。こうして隆平永宝1=神宮開放&万年通宝10=和同開珎100での使用がはじまりました。隆平永宝と和同開珎は、銅質から直径までほぼ同じですので、製造費もほぼ同じだったことでしょう。隆平永宝は多大な富を朝廷にもたらし平安京の造成や軍事費の補填に役立ちました。

ですが、よく考えてみてください。この時代に起きていた経済問題は、貨幣の総数が増えすぎた事によるインフレーション(銭安物価高)です。「30年前は和同開珎1枚=10000円相当だったのに、今は100円でしか通用しない。だから、お前の貯金の和同開珎(=10000円)は今後100円な」と上から命令されて、果たして納得がいきますか?

もちろん、この不満が長引かないための措置もとられています。延暦19(800)年までは新旧銭を併用で使わせるが、以降は「隆平永宝」のみ使用を認めるとする一文がそれです。旧銭3種を強制的に退場させ、庶民の不満の声を排除しようとしたのでしょう。

しかし、当時の造幣能力、しかも戦争中に十分な量の「隆平永宝」を用意する事はできなかったようです。『日本後記』巻十七の大同3(808)年の記録に「百姓(→ここでの百姓は一般人くらいの意味)の間、隆平永宝未だ多からず、宜しく新旧を列用し、暫く民の乏しきを済うべし」とあります。廃止予定日を8年過ぎても、庶民の手元には隆平永宝が回ってきていなかったようです。

わずか30年の間に二回も10分の1デノミが実行されたことで、朝廷の発行する貨幣は著しく取引における信用を失いました。この頃から、京に暮らす人も、貨幣を帯留めに使ったり装飾品として用いていたという記録が出始めます。貨幣の信用力・ひいては朝廷の権威が低下していった証左でしょう。権威の低下は、奈良の仏教勢力を否定し新たな権威を構築したいと考えていた桓武政権にとって由々しき事態でした。

そのため、晩年の桓武政権は、強権的な政策を改め民に寄り添った政策が目立つようになります。延暦24(805)年、藤原百川の息子である藤原緒嗣から「平安京の造作と東北への遠征により民が疲弊しているので、一度これらを取りやめたらどうか」という提言が出されます。すると、桓武天皇はあっさりとこれを呑みます。東北への侵攻軍は、全国の農民を徴兵する事によって成り立っていましたが、徴兵は廃止されました。代わりに、各村から武勇に秀でた物を選抜し、専門の兵士として育てる健児制へ切り替わりました。

民の負担は大きく減り、強大な軍の維持費も無くなったため、朝廷の財政は大きく回復しました。ですが、そう都合良く村々に武勇に優れた者がいるはずもありません。健児制の定着は、同時に平安時代の朝廷が軍事力を失った事も意味しました。軍が失われたことで治安が乱れます。巷にあふれた悪漢から自らの土地を守るべく、豪族や貴族は独自の軍事組織を整備し始めます。この私設軍隊が、やがて武士と呼ばれる階層へと成長し、朝廷を脅かし始めることになるとは、桓武天皇も思わなかったでしょう。

奈良・平安時代の歴史は、貴族の政争中心でありいまいち分かりにくいと思われがちです。ですが、貨幣や経済という観念から見ると、意外と全ての因果関係が繋がっていることがわかります。


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