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日本の公鋳貨幣15「渡来銭時代3」

前回はこちら

今回は、説明することが多すぎて、いつもの倍の文量になってしまいました。久々にいろいろな本を読みましたねえ。その読書のなかで、実家の地名が平安時代からある由緒正しい名称だったということがわかったり……(原稿には使えないネタでしたが)。ということで、ちょっと苦労したため2週間ぶりの更新となってしまったことをお詫びしつつスタートです。

大量輸入により貨幣として使用されはじめた宋銭

末法思想が信じられるようになったことで日本に大量の宋銭が入ってきたわけですが、宋銭を輸出した南宋政府はなにも日本にだけ中古銭を輸出していたわけではありません。軍事費や火薬の燃料となる硫黄を手にするため、東アジア全域に北宋銭の輸出を行っていました。

貨幣経済制度が「定着する」「定着しない」は国ごとに事情が異なりますが、この時代東アジアで大量の宋銭が出回ったしたことは事実です。当然、北宋銭は、貿易事業者たちのあいだで現在のドルのような基軸通貨として機能し始めました。

朝廷の人びとにとって北宋銭はあくまで銅材料でしたが、貿易商人たちはベトナムやインドネシアなど東南アジアの人々と取引をする際に支払いに用いれる貨幣としても認識していました。

そして、貿易商人が宋銭を貨幣として使っている姿を見た周辺の日本人たちも、これを貨幣として欲するようになっていきます。貿易商と取引のある国内商人が宋銭を受け取り、それらの商人から物を購入する一般人が宋銭を受け取り……。こうして徐々にですが、朝廷のはかり知らないところで人びとの貨幣の再使用が始まりました。幸いなことに、どれだけ人の手を渡り歩いても底を尽きないほどの量の宋銭を南宋は輸出してくれました。

この銭の普及について、誰よりも早く朝廷で目をつけていた人物がいました。平家の棟梁だった平清盛です。

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↑『天子摂関御影』より平清盛

日本の武士は金持ちしかなれなかった!?

平清盛が平家と呼ばれる武士団の棟梁であることについては、今更説明するまでもないと思います。朝廷から政権を奪取した最初の武士といって問題はないでしょう。

noteではお金や経済を中心に解説して参りましたので、あまり武士や朝廷の軍事という面に関しては深い解説をしていませんでした。そこで今回改めて武士の起源について、経済的な側面から紹介していきたいと思います。

武士はかつて、私営田の開発領主から発展し、抵抗する配下の農奴や私営田に介入してくる朝廷の役人(受領)に対抗するために「武装した大農園主」から生まれたという「在地領主説」が有力でした。「私営田」とは、743年に出された墾田永年資材法をきっかけとして誕生した、個人の所有する農耕地のこと。開発領主とはその私営田の開墾を、中央政府から認可された人のことです。が、近年の史料研究によりこの説は下火となっております。

「在地領主説」が否定された理由は、大量に残る武士の記録からです。

まずは武士の血統の記録です。後世になると出自を騙る武士も増えていきますが、少なくとも平安時代の武士の棟梁に関しては出自がある程度しっかりとしております。武士の代表たる源氏や平氏は天皇家に連なる高貴な血統ですので、一介の地方の有力者や中央政界では活躍できず下向した下級貴族らがなる在地領主と交流する理由がありません。

さらに数々の武者絵に描かれ記録も多く残る武士の武具も「在地領主説」の否定を後押ししています。というのも初期の武士というのは世にも珍しい「重装弓騎兵」だからです。

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↑Wikipediaより、大鎧を着込んだ鎌倉武士

なぜ「重装弓騎兵」だと、開発領主説の否定に繋がるのか。これには解説が必要かもしれません。

いくら人殺しが当たり前で治安が悪い時代でも、突然徴兵された一般の農民が人を殺すことに抵抗をもつのは当たり前です。徴兵されたての兵隊というのは現在にいたるまでまず役に立ちません。

そのため世界中の戦争において兵科という考え方が浸透しました。新兵でも効率よく安定した戦闘をこなせるように、特定の役割のみを与えて戦わせる方法です。「相手の隊列に弓を射かけ混乱させる弓兵」「馬の突進力で敵陣を分断する騎兵」、そして「剣や槍で前進をして前衛を崩す歩兵」などです。弓術と馬術は一朝一夕で身に付くものではないため、徴兵させた一般人は弓兵や騎兵には基本的になれません。なので徴兵されたばかりの新兵に任されるのは、悲しいかな、世界中どこでも基本的には最前線で肉の壁となりがちな歩兵でした。

これを踏まえた上で武士という戦士の武装を見てみますと、

①メインウェポンは訓練の必要な弓

②馬にのって戦う

③そのため馬上で弓を射るというさらに特殊な技術の習得が必要

④そのような特殊技術を重い鎧を着込んで行う

という、あまりにも異常でテクニカルな武装なのです。実は弓をメインウェポンとする重装弓騎兵という存在は、世界で武士しか採用していません。

モンゴル帝国を筆頭に「弓騎兵」という兵科は存在しています。

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↑イルハン朝の弓騎兵

が、一般的に彼らの装備は「軽装」です。その役割は、緒戦で敵の前線の兵力に対し逃げながら弓を射かけるというもので、自軍は無傷のまま敵軍の戦力を削ぐことが与えられた仕事です。あくまで敵から逃げながら戦うため、馬が疲れないように軽い鎧を着て、全力で逃げる馬上でも振り回しやすい短弓をメインウェポンとしています。

ヨーロッパの騎士などが好んで採用した「重騎兵」もあります。

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↑オスマン帝国の重騎兵

こちらはランスと呼ばれる正面以外には攻撃できないような重い槍を装備し、遠距離攻撃手段をほとんど持たないことが特徴です。馬の突進力と装備の重さで敵の陣地を突破するための兵科です。少しでも敵に甚大な被害を与えるため、馬を含めて突進中に傷つかない分厚い鎧に身を包んでいるのですが、当然馬の体力を大きく消費するため継戦能力は低く、まさに勝負を決める最後の場面で投入される兵科です。

では武士の「重装弓騎兵」はというと……まず重装にすることで、騎兵の最大の利点である機動力が著しく落ちています。なので「重騎兵」のように短期決戦向きの兵科にするべきなのですが、にしては彼らの武器は、遠距離からちまちまと射かける弓となっています。日本の馬がいくら馬力に優れていたとしても、弓という武器では馬の突進力を活かした攻撃はできません。この弱点を克服するためなのか、武士は殺傷力に優れた巨大な長弓を馬上で用いるようになったのですが、大きな弓は、馬上での取り回しが非常に悪い……!

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↑鎧を脱いだ状態の流鏑馬でも、特定の人しか成し遂げられない

重装鎧を着た人間を乗せながらぎりぎり馬が走れる速度を理解しつつ、走る馬の上で扱いにくい長弓を射る技術は、並大抵の訓練で身につくものではないのです。もちろん、毎日毎日訓練を行えば在地領主らのような元農民層でも扱えるようになるかもしれませんが、そんなことをするなら「弓を射かける役」と、「考えなしに馬を走らせて突撃する役」に分けて訓練する方がはるかに効率的ですし、短期間で強い軍隊ができるのです。だから、世界では重装弓騎兵は誕生しなかったのです。

そもそも開発領主らには戦う訓練をする以前に守るべき田畑があり、毎日武芸を磨くことだけ行っているわけにもいかないのです。ますます現在記録の残る形の武士になるのは困難です。

さらに「馬」という乗り物が大問題だったりします。この時代の日本において馬は高級品です。康保4(967)年に施行された律令法「延喜式」には産地別の馬の価格が示されています。それによると、馬は産地のほか、健康状態で「細馬(良馬)」、「中馬(並)」、「下馬(貧馬)」に分けられ売買をすることになっております。貧馬が人を乗せて戦場を走るとは思えないので、最安値の軍用の馬は「中馬」であったと考えられます。延喜式によると、中馬は一匹「350束」となっています。 

「束」というのは、稲など10把をひとまとまりとしたものを指し、平安時代の米をもちいた売買での額面単位だと考えてください。1束で大体2升の玄米を採取することができます。

さて、多少強引ですが、これを使って馬の値段を計算してみましょう。この時代の米は「貨幣」として使われているのですから、本来は実物価値に貨幣としての価格が上乗せされていますが、めんどくさいのでそこら辺は無視します。まあ、あまりにもおおざっぱに計算するのもなんなので平安時代の1升は現在の1升の0.4倍程度とされているよくある説を採用し、0.4がけだけは行いましょう。

まず、令和2年の玄米1kgの平均価格は約250円です。

稲1束=2升(約3kg)×0.4=1.2kgの玄米ですので、現在の価格にすると、稲1束=1.2kg×250円=300円となります。

馬1頭は350束ですので、350×300=10万5000円ということになります。

思ったより安いですが、ここにもうひとつの要素が加わります。

現在の米の価格は、作付け面積と生産量が増大しているため、非常に安価になっています。ですが、平安時代の日本における米の生産能力は極めて低い。平安時代の米の生産量に関しては様々な経済学者が算出していますが、高島正憲氏の試算に寄ると、およそ現在の10分の1しか米は生産できなかったようです。単純に考えるなら、馬一頭を購入するのにかかった費用はおよそ105万円になります。

さらに、ここから訓練のための飼育費などがかかります。現在の競走馬がまともに使い物になるまではおよそ3年間かかります。なので軍馬も同じ位訓練期間が必要だと考えてみましょう。

1頭の馬の月の飼料代は平均して月2万円程度だそうです。となると、年間24万円。ざっと一頭の軍馬を使い物にするには177万円ほどかかったと考えていいと思います。

鎌倉時代の軍記ものを読むと、武士団はおよそ50騎〜100騎の騎馬武者で動いています。(各騎馬武者には装備の控えをもつ人足が5〜7人付き従っています。)となると、最低ランクの馬でも50頭近く抱えている必要があるわけです。8850万円にもなる金額を、いくら地方の有力者とはいえほぼ農民のような在地領主が戦争のたび用意できるものなのでしょうか?

こうした客観的なデータから在地領主説は説得力を失ってしまいました。

日本の武士誕生の背景に過剰な軍縮があった?

そんなわけで最近注目されているのが、桓武天皇の政策で誕生した国衙軍から発展していったという説です。

第五回「隆平永宝」紹介の際に、京へ都を移した奇異な天皇・桓武天皇のことを紹介しました。桓武天皇は、東北地方の大部分を日本へ組み込むことに成功した天皇ですが、その結果朝廷は多大な財政負担を強いられることとなり、人心は離れていきました。

そのため桓武天皇は、積極外交一辺倒にならないよう人びとに寄り添う政策へと方針を転換していきました。

この人びとに寄り添う政策の中で特に歓迎されたのが、東北侵攻の最中から徐々に切り替えられていった「健児の制」です。それまで、すべての男児の義務として制定されていた徴兵を廃止し、地方ごとに武芸に秀でたものを職業軍人として推薦させる方式にしていきました。

これは兵の人員削減に繋がるため、財政難の朝廷に取っては願ったり叶ったりの政策でした。幸いなことに東北侵攻においては坂上田村麻呂という天才的な将軍がいましたので、徐々に兵数が減少しても朝廷軍の有利は揺るぎませんでした。

「健児の制」で集められた兵士たちは、国衙軍として国司の元で運用されることになりました。何故、朝廷直轄ではなく国司の元に集められたのかというと、地方の富豪などが暴力を使い租税をちょろまかす事例が多発していたためです。こうして、国家から給料を支給される職業軍人の軍隊が誕生していきました

彼らが幸いだったのは、その出現時期が東北侵攻の終盤の時期と重なったことでした。東北の人びとは、馬を操ることに長けた人びとでした。彼らが操る騎馬隊は朝廷をたびたび苦しめたため、朝廷は虜囚として捕えた東北の人びとを京へ連行し、彼らの乗馬技術を盗みました。新たな乗馬技術は出世の手段としても見られ、表の出世競争に参加できない下級貴族や臣籍降下を受け皇位継承権を失った元皇族らがこぞって身に付けました。中央で出世できなかった彼らも一芸を身につけることで、新たな道が開いたのです。こうして誕生した、軍事を家芸とした貴族を「軍事貴族」と呼びます。軍事貴族らは、地方に国司として下向することも多く、国衙軍の指揮を執っていくなかで乗馬の技術を健児に伝えていくことになりました。

この国衙軍が、高貴な貴族らを棟梁とする武士団の原型になっていったというのです。

国衙軍は難しい弓や乗馬の技術を身につけることが仕事です。高価すぎて自分たちでは用意できない武具も、すべて国家支給です。彼らを指揮するのは貴族、それも中央では活躍できなかったとはいえ由緒正しい貴族たちですから、朝廷も気を使って突然クビを宣告するようなこともありません。

働かずに毎日戦闘訓練をしているわけですから、やがて異様なまでに個々人の戦闘能力の強い軍隊が出来上がったのです。

ですが、「健児制」をベースにした国衙軍にも欠点がありました。それが、極度の人員不足です。元々農民に負担をかけないようにとの桓武天皇の思いと、軍事費の削減を目的として始まった制度ですから国衙軍の人員補充は極端に少ないものでした。

10世紀の日本で健児として国衙軍に所属していた人材は、全国で約3600人しかいません。今でいう46都府県(北海道はまだ日本ではありませんので)の防衛を3600人で行っていたということは、1県に78人しか警察官がいないのと同じことです。

ちなみに、平安時代の日本の人口はおよそ600万人という推定がよく出されます。ということは1人の健児が1666人の安全を守っていたということになります。はっきり言って、これで国防を行うのは無謀です。日本が島国でなければすぐに隣国から攻め込まれていたことでしょう。

でも、朝廷はやらせていたのです。

この極端に人員が少ない軍隊で国を守るため、国衙軍が選べた戦略はただひとつだけでした。

さらなる個人の能力の向上です。

一騎当千という言葉がありますが、これを本気で目指そうとしたのです。全国に3600人しかいない少数精鋭の軍ですから、一人でも戦闘で死んでしまったら大問題です。なので刀を使った切り合いなどの高リスクな戦闘方法は以ての外。なるべく安全な遠距離から弓で射掛ける必要があります。もちろん、徒歩では駄目です。射掛けたらすぐ逃げないと戦死の可能性が飛躍的に高まります。馬の機動力は必須です。もし、矢が刺さった相手が反撃をしてきたら危険です。できるだけ巨大で、当たれば確実に相手を仕留められる弓が必要です。さらに、万が一反撃を受けたとしても、生き残れるように分厚く頑丈な鎧は着込むべきでしょう。

……ほら? 武士の「重装弓騎兵」という変態装備が、極めて理にかなったものに見えてきませんか?

とはいえ、3600人の兵隊で日本の治安を守りながら犯罪の眼を摘み取ることは不可能でした。10世紀になると、全国各地で朝廷に対する武装蜂起が多発します。治安の要は下級の軍事貴族たちが、上級の軍事貴族の配下へと統合を繰り返し、なかには、末端の兵力として開発領主らも軍隊に組み込んで巨大化した「武士団」へとって変わられました。

武力以上の力に気がついた平家の清盛

武士団は朝廷の期待以上の働きをし着実にその存在感を高めていきました。存在感が高まるとやがて、武士団同士での権力争いが始まりました。日本で最強の暴力をもった彼らの争いに、貴族は手を出すことはできなくなりました。直接的な暴力装置を持たない朝廷にはどうすることもできないのは、現在の国連が軍事大国の専横に口をつぐんでいる状況を見ればよくわかるでしょう。

そこで、院や権門家は積極的に彼らを私兵として雇い、その武力に頼るようになっていきました。こうなると、武士団と朝廷の主従関係に疑問をもつ武士も出てきます。

天慶3(940)年、関東に拠点を構えていた武士団・桓武平氏の平将門が新皇を名乗り朝廷に反旗を翻しました。あまり知られていませんが、平将門はれっきとした桓武天皇の孫に当たります。

平将門の暴走は桓武平氏を二分する争いへと広がりますが、将門の従兄弟で、傍流とされる伊勢平氏の嫡男・平貞盛の功績によりこの乱は鎮圧されます。多大な武勲を上げた貞盛はこの功績により朝廷から従四位下の位を与えられ、東北全域と丹波一帯の国司となり桓武平氏の筆頭へと躍り出ます。

以後、平貞盛の伊勢平氏一族は平氏のなかでも特別な「平家」と呼ばれるようになります。

源頼朝が鎌倉で幕府を開いたことにより「源氏=関東、平氏=関西」のイメージが強いですが、本来平氏は関東を拠点として発達してきた武士団です。平家一門もそんな平氏ですので、丹波守を就任したり、あるいはその他関西地方の荘園をこの後も度々手に入れるのですが、その維持にはそれほど深い執着を持っていませんでした。

その最たる例が平家の全盛期が始まるきっかけとなった平正盛の荘園寄進です。平家の武士は優秀ということで、貞盛以降、京の貴族らは積極的に身辺警備に平家を採用しました。正盛は11世紀末の平家の棟梁です。彼は、武士でしたが武力には余り優れていなかったと伝わっており、代わりに政治力に長けていました。京で行われる政治がすでに摂関家でも天皇でもなく「院」の時代に移ったことを見抜いた正盛は、平家がもつ伊賀国の荘園を全て白河上皇へ寄進し、白河上皇の個人的な軍事力の筆頭として重用されるようになります。正盛は、「北面武士(上皇の警護役兼相談役)」となり、政界へのつながりを手にしました。

平家としては東国と関係のない荘園を寄進しただけですが、これにより平家一門は「院」政治勢力の武力的な支柱となったのです。

正盛が手にした白河上皇との個人的な信頼関係は、正盛の子である平忠盛にも引き継がれました。忠盛も父に引き続き白河上皇の北面武士へ抜擢されると、さらに白河上皇の信任を背景に全国各地の受領を任され平家の財政基盤を全国規模のものへと広げます。その権力は並の貴族を凌ぐようになり、ついには武士としては初めて昇殿まで成し遂げました

白河上皇が亡くなったあとも、その息子である鳥羽上皇の北面武士へと就任。鳥羽上皇の時代には、さらに院の個人的な荘園の管理まで任されるようになります。

長承2(1133)年、院の荘園である肥前国(現在の長崎県と佐賀県)神埼荘に、周新という南宋の商人が来航しました。前回も解説しましたが、この時代に南宋人は日本に頻繁に来航して、宋銭を売りさばいております。国家として公式に大陸との貿易を行っていなかったこの時代、九州沿岸の荘園領主は勝手に領内に宋の商人を招き入れて私貿易を行っていました。神埼荘は昔から院の荘園であったため、周新は朝廷の出先機関である太宰府に私貿易のため呼ばれたものと考えられています。

京で周新の来航を知った忠盛は、すぐに早馬の準備をしました。神埼荘に届けた知らせは「以後神埼荘での入宋貿易は平忠盛が取り仕切る」というものでした。これは、院宣の形をとった命令でしたが、忠盛の独断だったようです。この時代ごろから忠盛は積極的に日宋貿易に携わり、あわよくばその独占を狙い始めています。どうやら忠盛は、日宋貿易で得た宋銭や大陸の文物を、院や貴族らに献上することで自身の地位を上げていたようなのです。

そのため忠盛は、平家に縁のない西国の荘園の獲得に動いています。彼が受領として歴任した領地は、伯耆、越前、備前、美作、播磨と西国の大国ばかりです。これは、九州に上陸した宋銭や文物を京へ運ぶには、瀬戸内海がもっとも早かったからとみられています。

保延元年(1135年)には、西国の荘園を多く管理した経験を買われ瀬戸内海の海賊を討伐する役を任命されます。忠盛はこの海賊討伐に尽力し、瀬戸内海の航路の安全確保に成功。この航路を使って日宋貿易で得た献上品を大量に京へ持ち帰りました。

これら献上品攻勢により仁平3年(1153年)には、公卿まで後一歩の所まで出世した忠盛でしたが、この年亡くなってしまいます。かれの跡を継いだのが、平清盛でした。

清盛も忠盛が整備した瀬戸内海航路をさらに発展させていきます。清盛は特に、瀬戸内海の港の整備に力を入れました。昔から良港として知られていた大輪田泊を大改修し、大型の貿易船が停泊できるようにしました。この港の完成により、宋人の大型船が関西まで直接訪れることができるようになりました。大輪田泊とは、世界に名だたる貿易港である現在の神戸港のことです。清盛が瀬戸内海の航海の安全を願い創建した神社は、世界遺産・厳島神社として知られています。

この航路の整備には、平家として大きなメリットもありました。大規模な土木工事を行うには、清盛以外の西国の受領や在地領主をまとめ組織として機能する形に再編成する必要がありました。この編成作業によって平家と西国の有力者の間に深い縁が生まれました。

さて、宋から関西までの直接航路が完成したことにより、それまで貿易商周辺でしか貨幣として流通していなかった宋銭が一気に西日本の経済圏に入ってきました。平清盛という人が白眉だったのは、この時点で宋銭を貨幣として日本全国に定着させてしまおうと考えたことです。

宋銭を素材として仏具をつくったのは、永承7(1052)年に末法の世が始まりこの世が終わると考えられたからでした。しかし、時代はすでに末法元年を過ぎており、宋銭の需要は今後先細っていくことが確実でした。ですが清盛は宋銭を貨幣として定着させることができれば、まだまだ宋銭の輸入で利益を得られると考えたのです。

実は、この輸入には政治的なメリットもありました。宋銭が貨幣として定着すると、やがて米や布と言った従来の貨幣と競合していくことになります。そして、この競合に宋銭が勝利することができれば? 従来の貨幣である米や布を貯め込んで財力と権力をつけた天皇や公卿らを追い落とし、新たな貨幣である宋銭を数多く輸入した清盛が、権力の座につくことが可能となるのです。

こうして清盛は、末法年が過ぎたその後も過剰なまでに宋銭を輸入し続けました。銅材としての価値を失っていった宋銭でしたが、米や布よりも使い勝手がよい貨幣として、一般人を中心に西国一帯に定着していき、清盛の政治力の後ろ盾となっていきました。

その後の平清盛の活躍は歴史の教科書で習った通りです。清盛は鳥羽・後白河上皇だけでなく、二条天皇の外戚となり上皇家・天皇家双方に仕える超実力者となることに成功。一門だけで全国に500余りの荘園を保有し日本の国土の7割近くが清盛の領地となります。「平氏にあらずんば人にあらず」の時代が始まりました。

そのきっかけとなったのは、中国大陸で廃棄された宋銭という貨幣のリサイクル事業でした。

さてさて、とはいえ突然出てきた清盛のような新興勢力に対して、朝廷が手をこまねいていたかというと決してそういうわけはありません。次回は、浸透し始めた貨幣経済に対して朝廷がどのような手段で対抗しようとしたのか、そして、同じ軍事貴族として切磋琢磨していた源氏が、どうして平氏の仇敵となっていったのかを、貨幣の観点から解説していきたいと思います。


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