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芸術と安定は相容れない?―トマス・マン「トニオ・クレーガー」読書記録

 芸術が好きだけど、それを生業にするかは別の話…そう思っている人はたくさんいるだろうし、自分もその一人です。そんな人は、この話の主人公トニオ・クレーガーに共感するに違いありません。


 文学好きの少年トニオは、同級生の少年ハンスに恋をします。ハンスは金髪碧眼の美少年で、いわばクラスの一軍。対してトニオは、地味で内気なタイプで、ハンスには全然相手にしてもらえません。トニオは別にそれでもかまわなくて、美しいハンスを想うこと自体に幸せを感じてました。

 芸術が好きで内向的、あれこれ考えては苦悩するトニオと、芸術には興味がなく明るく社交的、悩みなんてなさそうなハンス…。二人の違いは、退廃的な芸術の世界と、明るい市民社会の対立を象徴しています。トニオはハンスのようなタイプの市民社会の人間を、何にも考えてないのだと軽蔑しつつ、同時に強いあこがれを抱いていたのです。

 そういうトニオの気持ちの背後には、自分はあいつらとは違う、真の芸術家なんだ、という自負があるのだと思います。

 しかし、トニオは芸術家仲間から、あなたは真の芸術家というより、「道を誤った一般人」なのだと言われてしまいます。市民社会と芸術の世界のどちらにも属することのできない、中途半端な人間なんだと。

 これが図星すぎてショックを受けるトニオ。そのショックのままに旅に出て、中途半端な自分なりの生きる道を模索していきます。


 このお話を読んでいると、ハンスのような悩みのない明るい人間、そういう人たちが暮らす市民社会、というものがあるような気がしてきますが、少なくとも今の日本でそんな人はあまりいないのではないのでしょうか。

 どんなに社会に適合している人だって苦悩することはあるし、働いて経済的安定を得ながら、エンタメや芸術を楽しんで暮らしている。トニオは、芸術を志すならとことん堕ちなければならないと考えていました。けれどそうはいかないのが人間のリアルだからこそ、トマス・マンは小説にしたのだと思います。

 「道を誤った一般人」で結構、誤った道を颯爽と走る一般人も、いいものかもしれません。





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