額縁の中にある宇宙を #書もつ
毎週木曜日は、読んだ本のことを書いています。
「総理の夫」で心を掴まれ、とても、とても好きになった作家の”原田マハ”さんによる作品を。いろいろなジャンルで書かれていますが、今回は「アート小説」と呼ばれている作品で、印象深かったものを選びました。(ほんとうは、もっと出したかった)
読書メーターにあった感想を引用して、さらに重ねるいつもの展開です。
モダン
物語のひとつひとつが読みやすい長さにまとっており、アート小説って何だろう?という入口にふさわしい作品でした。(いわゆる短編集。短いから読みやすい、ってあまり言いたくないのですが笑)
絵画に対する冷静な考察と、熱量を込めたキャラクターたちの立ち居振る舞いで、読み手は、あっという間に物語に没入してしまいます。
絵画に隠された画家の思いや、絵画を巡る人間たちのドラマが鮮やかに描かれているのがアート小説であると、この作品で知りました。とはいえ、フィクションなのですが、とても真実味があります。
美術館で観た一枚の絵が人生を変えるような、そんなワクワクするような体験が、この作家さんの作品にはあふれていて、題材となっている絵画もまた猛烈に見直したくなる思いに駆られるのです。
楽園のカンヴァス
一枚の絵から、想像力を膨らませて物語ができあがる・・その力強い結果に、読み手として対峙してみると、圧倒されてフィクションなのか真実なのか分からなくなるような、緻密な心理描写が印象的でした。
絵画に込められた、画家の思いや社会への訴えなど一般的な美術的教養(と呼ばれているもの)を飛び越えた、人間としての画家の生き方のようなものが、とても鮮やかに感じられました。
本来、絵画の良さは作り手の仕事によるものであり、それは建築物や工芸品のように、何らかの機能美のようなものを備えているのかも知れません。
物語の終盤、美術館の社会的意義のような話題になり、敷居が高く緊張しながら美術に対峙する場としての権威的な美術館は、すでに時代遅れであることを知るのです。この作品もまた、モチーフとなった絵画を見たくなり、画家のほかの作品にも興味が広がるのでした。
当時僕は、「有名な絵を見なければいけない」という強迫観念のようなものを感じていました。世の中には”観るべき絵”が多すぎて息苦しかったのです。けれど、この作品を通じて、たった一枚の絵だけを見つめることの意義を知るのでした。
たゆたえども沈まず
すべての思いが、引用文にあります。
ゴッホに関しては、僕はとてもとても印象が強くて、横浜で観た"糸杉"の絵や、オランダで観た"ひまわり"は、とてつもない体験でした。きっと背景になった浮世絵や、日本との親和性みたいなものもその要因だと思うのです。
4月の頃だったか、朝のニュース番組に、作家が出演していました。この作品の舞台は、主にパリで、作家自身もパリと東京を行き来するような生活だったと、別のエッセイに書かれていました。
この新型ウイルスが騒がしい状況下で、いかに考えたらいいのか、我々はどうあるべきかキャスターが作家に問いました。
作家の答えは「たゆたえども沈まず」でした。
作品を知っていたからかも知れませんが、ハッとしてテレビの前で思わず声を上げてしまい、家族から訝しがられてしまいました(笑)。
翻弄され、行きつ戻りつしてもいい、でも沈まない強さは秘めている。
それを聞いて「なるほど」と唸る一方で、とても多彩な経歴を持つ作家自身が、そういう在り方で生きているように思えてきました。
ゴッホの生きたパリで、日本人のしなやかさのようなものとのつながりを見つける・・それが作家の見つめている絵なのかも知れません。一枚の絵を通じて画家を知り、世界を知り、歴史を知る、そんなことができるという憧れが、彼女を作家として支えているような気がするのです。
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僕が、なぜこの作家がこんなにも好きなのか考えてみました。
たった一枚の絵が人生を変える、そのことがとても僕には魅力的でした。それは絵だけではなく、音楽であったり、人であったり、言葉であったりするはずです。そんな中で、この作家の作品にはアーティストとしての人間が描かれていることに、安心したのだと思います。
有名な画家の絵は、莫大な価値が付加されています。それを手にするのは、いわゆるお金持ち。そんなお金持ちに、根拠のない嫌悪感を感じていた僕は、芸術家を庇護するパトロンだってお金持ちであること、美術館で入館料を払って、拝んで観るような絵画の扱いに、なにか違和感があったのです。
そうは思いつつ、数々の美術館に行き、その壮麗で歴史ある建物の外観を眺めては、いかに芸術作品が高尚な立ち位置にいるのか、という(間違った)価値観を確認していました。だけれども、数時間の行列を待って、超有名な絵画を眺めてみても、それは僕の血肉にはならず、ただ「観たことがある」というポイントカードに1ポイントだけ貯まるような、記号的な理解にとどまっていました。
そんな中で、この作家の「楽園のカンヴァス」を読んで、衝撃を受けたのです。もっと早く出会っていれば、美術館が「単なる、友人の家」になり得たのに・・と、ほんとうに悔しく思いました。
何より、お金持ちが喜んで所蔵している絵が、画家という人の手で描かれているという、当たり前の事実を目の当たりにしました。さらに、天才や鬼才などと呼ばれている画家でさえも、悩み苦しみ、悲しみ嘆く、ちっぽけなちっぽけなひとりの人間であったことに、気付かされたのです。
これは、僕にとって大きな転機とも言える出来事でした。単なる趣味程度の鑑賞ではありますが、絵を描いた人への猛烈な敬意が沸きあがってきたのを思い出します。むしろそれまでは敵意や羨望といった、不健全な精神であったように思うのです。
有名な画家であればあるほど、企画展の行列は伸び、観るべき絵の周りには多くの人が集まります。しかし、まちの美術館で飾られている作品にだって命があって、無名の画家もひとりの人間であるのです。結果的に、有名な画家というのは成功者の部類に入るのかも知れませんが、それは彼らが死んでしまってからのことが多いのも、なにか因果的です。
画家だけでなく、キュレーターの心意気もまた、とても刺激的でした。届けようとする人のおかげで、展示会の構成が練られ、作品が世界を旅しているというのもまた、人生を変えるかも知れない一枚の絵に出会えるチャンスを作ってくれているのです。
作家が描く世界には、人が生きている感じがするのです。
結果的にそれは一枚の絵のことを語るわけですが、隣人のように身近で、僕のようにちっぽけな人間がいたのだと気がつくと、なんだそういうことか、と安心することができたのです。
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ともすれば、絵画の価値だけで「観るべき」などと議論されがちですが、価値観の個人差は普遍的なものです。たぶん僕は、ピカソの絵よりも我が子が描いた家族の絵のほうを大切に感じるでしょう。
以前、美術館に行ったとき、その展示会の目玉だけ人だかりという光景を目にしました。同時代を生きた画家や、秀作(スケッチ、練習画)のような作品には、残念なことに人がいませんでした。
音声ガイドがある絵だけが、立ち止まる価値があるのでしょうか。きっと違うでしょう。時間の許す限り、ひとつひとつの絵を見つめる作業もまた、とても豊かです。
それは、この作家に出会って、改めて考えたことでした。スリリングな物語と、動かない絵画は、じつに対照的です。
様々なジャンルを書く一方で、どの作品にも感じているのは人間への希望や、絵画へのあこがれを丁寧に編んでいく描写の鮮やかさ。そんな真摯な視線が作品から読み取れるとき、僕は癒されるのかも知れないと気がつきました。
一枚の絵画を知るきっかけをつくるために、わたしに出来ること・・そんなことを考えて、彼女はキュレーターから作家になることを選んだのかも知れません。アート小説の作品群の壮麗さもさることながら、作家自身の言葉であるエッセイもまた、とても清々しく、またひとりの画家のような洞察力を感じられます。
美術館や図書館、あるいはパソコンの画面越しでも、たった一枚の絵を見つめている時、この絵にはどんな人たちが関わっているのだろう・・と考えると、モデルと描き手では終わらない、宇宙のような壮大すぎるドラマが眠っているのかも知れません。今回紹介したのは、ほんとうに一部だけ・・ピカソ、ルソー、モネ、ポロック・・・もっと読みたいし、紹介したい。
僕の拙い表現では伝わらない、原田マハの「圧倒的」なアートの世界、どうか、体験してください。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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