短編小説『ケサランパサラン』
こんな夜更けにチャイムが鳴ったので玄関のドアを開けてみたら保育園時代からの友人たかゆきがいた。
「久しぶり。どうしたんだ」と尋ねると友人は「ケサランパサランを見つけたからお前にも見せてやろうと思って」などと言う。
妄言を吐いたかと思うや否や差し出してきた日焼けしたでかい右手にはなるほど、白いまりものような、たんぽぽの綿毛のような毛むくじゃらの生き物がちんまりとおさまっていた。毛玉ではなく生き物と判断したのは、米粒大ながら明らかに目であろうものが二つ付いていて、風もないのにうごうごと柔らかそうにその毛を動かしていたからである。
私はそこそこ動物が好きだがこんな生物は知らない。まりも以外では、真冬のシマエナガやまるまる太ったハムスターが多少似ているだろうか。でもやつらには手足もあるし、口も鼻もあるし、重量感が違う。近いといえば雲丹も近いが、やつはもっととげとげしい。
今直面しているこいつには目、胴体、毛以外の器官は見当たらなかった。毛に埋もれているのかもしれないが。骨さえあるか疑わしいか弱さだった。
「まるいな」
思考の末、絞りだした感想がそれである。
「まるいんだよ。なあケサランパサランだろ」
「けっこうかわいいんじゃないか」
「かわいいだろ。なあケサランパサランだろ」
「こいつ逃げないの?」
「あんまり動かないんだよ。でも手を離すと浮くんだぜ。なあケサランパサランだろ」
たかゆきはそいつを握りしめていた指をぱっと開いた。
︎︎すると、それは浮いたのである。
︎︎ふわふわと。
たかゆきは昔から都市伝説やオカルトの類が大好物で、よくネットで仕入れたと思しき怪しい与太話の舞台となった地元周辺のスポットに連れていかれた。幸いにも一度もオカルト現象に遭遇したことはなかったが、一方こいつは「くっそ」と不幸がっていた。同じ体験をしてもこうも受け取り方が変わるもんである。
たかゆきの積年の思いが遂に実り、オカルト現象に遭遇した。……のかもしれない。
「どうすんのこれ」
「どうすんのって」
たかゆきに振り回されるのは特に不幸ではなかったが、実際怪異に遭遇した場合どう立ち回るかなんて考えたことはなかった。どうせ存在しないと思っていたから。
「俺んちさ」
突然深刻そうなトーンになる。無言で待つ。
「ペット不可なんだよね」
「ペット」
私のボロアパートを見渡す。築三十年のアパート。でありながらペット可の比較的珍しい物件である。大家が動物好きらしく、時々犬を連れて散歩しているのを見かける。確か猫も飼っている。昔は牛や馬、ニワトリも飼っていたと目を細めて話していた。要するに大地主である。動物好きな私は割と興味のある話だったのでよく覚えている。昔私は実家で文鳥を飼っていた。白くてまるい人懐っこいやつだった。いつかまた飼いたいと思ったこともあるが、仕事が忙しくてかまってやれないと思うと踏ん切りはつかないでいる。
だからまあケサランパサランを飼うのは問題ない。妖怪の類を愛玩動物に分類していいのかは知らないが。
「めだかもダメなんだよ」
「魚類」
「いやこいつはケサランパサランだよ。魚じゃないし小動物でもない。よって俺んちで飼ったところで治外法権だと思う。思うんだけど……」
「ケサランパサランじゃない可能性を思って怖気づいたか」
「そういうわけじゃないけど? 学術的には慎重に行くべきかなって」
「慎重ねえ。ガキの頃、崖やら立ち入り禁止の鉄塔やら川の中やら連れまわしてくれたのは誰だっけ」
「懐かしいねえ」
「崖から落ちてあざだらけになってめっちゃ怒られたんだよな」
「恨みがましいこと言うなよ。楽しんでただろ。そんなことよりケサランパサランだよ。今後について話し合おうぜ」
そう言ってたかゆきは、片手に持っていた大きなビニール袋を差し出してきた。ずっしりとした重みを感じさせる。それを覗くと、アルコールと多種多様なつまみがぎゅうぎゅうに入っていた。
そういうことなら快く話し合ってやろうじゃないか。私はたかゆきとケサランパサランを招き入れた。
【ケサランパサラン】
飛ぶ鳥はやがて落ちるものであり、日はやがて沈むものであり、やがて腹は減るものであり、ただ飯があればありつくものであり、酒はやがて尽きるものである。
宵はますます深まり、食いきれないだろうと感じていた大量の酒とつまみは底なし沼に落ちるように胃袋へ消えた。
ケサランパサランのことも今後のこともなぜか脇に置いて、保育園から大学まで、なぜだかともに歩んだ人生について語らっていたが、酔いはすでに醒めつつあり、口数も減り始め、眠気が生じ始め、いよいよもって私はケサランパサランを注視した。ケサランパサランは今、プラスチックの緑色した虫かごの中でふわふわ浮いている。穴の開いた桐の箱なんてものはなかったので仕方あるまい。
「さっきからこいつを見てたけど、やっぱり浮くんだよな」
「そんな動きをする生き物はいねえべ」
「羽もなく浮遊するってのはね」
言ったそばから、ケサランパサランはさらにふわっと浮いて、虫かごの天井に頭(便宜上そう呼ぶ)をぶつけた。私とたかゆきは同時に息を飲んだ。ケサランパサランはまるで痛がっているように床に転がった。
「お前の見立てとしてもケサランパサランだろ」
「この短い体毛が羽の役割を果たしてるってことはないか」
「この短いのが? ばたつかせてもいないのに?」
「だって、ただの新種の生き物の可能性のほうが高いだろ。願いをかなえるって、ありえんだろ」
「まだ何にも試してないからわかんねえよ」
「結局どうすんの。こいつ」
「そうなんだよなあ……」
たかゆきは目を細め眉間にしわを寄せた。目尻にしわがいくつか走る。こいつも結構年を取ったな。それはつまり私も同等に年を取ったということだ。私にはまだそこまで目立つ目尻のしわは存在していないが、時間の問題だろう。会社の健康診断でC判定をちらほら食らい始めたことを思い出す。もう年だ。少なくとも若くはない。
「動物の専門家じゃないから、なにも判断できないだろ。確定させたいなら専門機関に持ち込むしかないんじゃないか」
「それが人間社会のためになるか?」
ずいぶんでかい話になってきた。
「人間社会のためになるかと言われれば……」
「人間は強欲だから、こいつがケサランパサランであるなら、こいつをめぐって争いが起きる」
たとえば戦争。土地や覇権、資源をめぐっての闘争は今も起きている。権力者が敵対国の壊滅を願えば国が一つ消失するかもしれない。
例えば金。贅沢の限りを求める強欲な存在が、世界中の富を手中に収めたがるかもしれない。
例えば人間関係。恋愛における痴情のもつれ、夫婦げんかに兄弟げんか、モラハラパワハラ、承認欲求に友情関係、ご近所関係。
争いの火種はどこにでもあって、いつでも人間社会に争いはつきものだ。
きのこたけのこ論争なんてものもあるくらいだ。
それくらいのことでさえ人間はいくらでも不幸になれる。
これが仮に本物のケサランパサランだとして、どこまでの願いをどれだけかなえられるかは見当もつかない。
ささやかな願いだけであるならいいものの、国家転覆レベルの願いさえかなえてしまう魔法の力を持つのなら、それが公表されたのなら、これを手に入れるために、暴力的なことを厭わない人間が手段を選ばずに我々を攻撃してくるのは確実だ。
たとえば。
やべえグラサンの屈強なメンズが私の家の窓ガラスを突き破って入ってくる。
なぜかたかゆきが持っていた照明弾で応戦し一難を逃れた我々は、すでにたかゆきが通じていたマッドサイエンティストからの連絡で国家間闘争に巻き込まれたことを知る。
スマホの位置情報を探知され、高速道路でカーチェイス。
銃撃戦。
肩口を撃たれ流血する私。
颯爽と現れるFBI。味方かと思えばそいつらにケサランパサランを奪われ、研究所で拘束される。我々はフォークで屋根の通気口を開け、脱出。研究所内を奔走しケサランパサランを奪い返す。FBIにも追われることになる。
そこで最初に現れたやべえグラサンのメンズの一人が我々を助ける。実は根はいいやつで、家族の命を救ってやるといわれてやべえ組織に利用されていただけだったと知るも、そいつは無残にも殺されてしまう。
そいつを悼みながら逃げ延びた先は怪しい宗教団体。……
アングラな人間たちに追われる私を想像してつい笑いがこぼれる。映画の見すぎだろう。どんなエンディングを迎えるんだ。
「そこでだ」
たかゆきが缶ビールをカンッと軽い音を立ててテーブルに置いた。思索、は格好を付けすぎた、妄想を面白がっていたのに、中断され私は少しムッとする。
「お前にこいつをやろうと思う」
「面倒ごとを押し付けるつもりか」
「それもあるけど」
「あるんかい」
あきれる。
ただ、たかゆきは妙に神妙な顔つきをしていた。
「お前なら悪事に手を染めることはないから」
「なんだ、その全幅の信頼は」
面映ゆくなって茶化した。だがたかゆきは至極真面目な表情を崩さない。
「お前いつだったかの誕生日プレゼントで百均のもんを親にねだってただろ」
「ああ? ああ……」
あれはたしか中学のころだったか。何がいいと聞かれて百均の音の出るアヒルをねだった。
「あの時はあれが欲しかったから」
「普通誕生日ならもっと高いもんをねだるだろ。中学生だぞ」
たかゆきはなぜだか怒っている。知らんよ。あの時には百均の片隅に追いやられていたおもちゃが輝いて見えたんだよ。
「お前の好きなやつが、お前の友人を好きだって知ったときも、黙って仲を取り持ってやってた」
「ちょっと待て。なんで知ってんだ」
「俺を舐めるな。知ってるわ、そんくらい。ほかにもベビーカーが来たら黙って絶妙な距離を取って、駅の混雑を先導してやったりしてたろ。行く方向違うのに」
なんで知ってんだよ。誰にも言ったことねえよ。
「お前はいいやつだから」
たかゆきは怒った表情のまま私を褒める。
「わからんよ」
私は酒をあおろうとして、その持ち上げた軽さから空であったことを思い出したが、ばつが悪くてそのまま口をつけて飲んだふりをする。
「仮にいいやつだったとして。どんな聖人君子だって、宝の山を前にすれば目はくらむよ」
ケサランパサランを見る。悪事には手を出さないかもしれないが、人間社会のバランスを崩すようなことは願うかもしれない。それはやっぱり社会に悪い影響を及ぼすんじゃないか。
私という人間はあいまいなもので、不変ではなくて、変わっていくもので、十年後にどんな人間になっているかわかったもんじゃない。たとえいいやつだったとしても、私は無論のこと愚かであり、金や権力に目がくらんだ人間になっている可能性は充分にある。
「そうかな」
「そうだよ」
だからやめてくれよ。そう思ったのにたかゆきはニヤりと笑った。
「それでも俺の知る中で一番可能性があるのはお前だから。お前の願いは、きっと世界に何も影響を及ぼさない。 蝶のはばたきにも満たない」
バタフライエフェクトか。このオカルトかぶれ。
「願いが叶ったら教えろ。お前がこいつで願いをかなえられたら、妖怪ケサランパサラン実在の証明になる。お前は願いが叶って幸福、俺は怪異に遭遇できて幸福、win-winってやつだ。俺は世界に認められなくても、オカルトに遭遇出来れば満足なんだ」
そう言うとたかゆきは立ち上がった。あらためて見て思う。たかゆきは記憶より痩せていた。
「酒がなくなったから買い足してくるわ。つまみも。なにがいい」
聞かれたので、とっさに「餅太郎」と答えた。
「そういうところだよ」
たかゆきは愉快そうに笑うと家を出ていき、十分後に戻ってきた。大量の酒と、餅太郎、それからうまい棒にベビースター、そして、普段は買う気も萎むような値段の生ハムやチーズ、コンビーフを抱えて。
ケサランパサランがまたふわふわ飛んだ。
翌朝目が覚めたらケサランパサランもろともたかゆきは消えていた。残されていたのは床に散乱する大量の空き缶と、餅太郎を代表につまみのパッケージだけだった。
︎︎私は諸々についてきちんと覚えていた。
この大量の酒とつまみは、昨日仕事のストレスから突発的に人生を投げやりになった私自身が仕入れてきたものだということ。
会社からの道中で我慢しきれなくなり八缶開けたということ。
最終的に一人で家中の酒を飲み尽くしたこと。
そして、ついこの間、たかゆきの七周忌に参列してきたところだということ。
七周忌。
もうだいぶ経っちまったんだな。
私は缶ビールの底に数センチ残されていたビールを飲みほした。ぬるく、錆びた鉄のようなひどい味がする。のどから下がいがいがする。
昨日仕事のストレスで自暴自棄になった私は、最寄り駅の二つ前の駅で突発的に下車し、うだるような暑さに辟易しながら駅前の昭和じみたコンビニに飛び込み、涼を得ながら安い発泡酒を二缶買った。少し歩き人影がまばらになったところで、一缶あおった。
うまくもまずくもない。
︎︎ただの酒だった。
夜の街を発泡酒片手にふらふら歩き、汗をかき、水分補給が如くどんどん安酒をあおった。なくなればコンビニに入り買って飲んだ。やがて普段は目を逸らすような高価格帯の酒やつまみにも手を出し、餅太郎も買いあさり、そして縁石につまずき、違法投棄のゴミ山に突っ込んだ。ひどく臭かった。あおむけになった。空に月が見えなかった。電灯に蛾がたかっていた。
そこでふとふわふわした毛玉のようなゴミを掴んだ。ただのゴミだ。これがケサランパサランだったらいいのに。そう願っていた。
これがケサランパサランだったら。
たかゆきともう一度話したい。
あいつがいないからといって人生に絶望しているわけではない。世界が灰色に見えているわけでもない。あいつがいなくても世の中は正常に回る。あいつが死んだところで私は生きていく。あいつがいようがいまいが、嫌なことも良いことも生きている私には次々巡ってくる。このボロアパートだって、大家は親切だ。昨日私を自暴自棄にさせた会社だって、なんだかんだそこが私の生きたい世界だ。どんなに暗いニュースが飛び交っていても、おおむねこの世に存在していたいと思う。
ただ、もう一度だけ。
最も長い時間人生を共にし、最も深く私という人間を理解していてくれた人間と、話がしたかった。
この思いをラベリングするなら、たぶん『さびしい』だろう。
だから酔いに任せてあんな夢を見たのだ。
けたたましい蝉時雨が窓を叩きつけてくる。寝ころんだままふと空を見る。力強く膨れ上がる入道雲が見える。鮮烈な青空が目に痛い。カラスが一羽、空を横切って行った。鬱陶しいほど明るい夏だ。ケサランパサランは存在しない現実だ。
この世で私はうまいものを飲み食いし、時にはまずいものにもあたるだろう。
会社では叱られ時に評価され給料を貰い、取引先にたわけたことをぬかされたり上司と後輩に気を遣ったりしてストレスを貯めこみボーナスで舞い上がる。
時折映画なんかに感動し、時折悲惨なニュースに憤慨し、人間社会に疲弊するとともに自己嫌悪し、動物を愛で、いつか再び文鳥を飼い、部屋の片づけをする。
そのうち親の老化に直面しいずれ見送るだろうし、巡り合わせがあれば結婚し子をなし育て、うまくいけば幸福な家庭を築き、いかなければ離散するだろう。
時とともに老いが忍び寄るのに任せいずれ会社も辞め、何人かまた友人を見送る。
健康状態を嘆きながら、衰える肉体とともにいつか人生を終える。
あるいは、それらのイベントをすべてスキップして、明日唐突に逝くかもしれない。
どういう経過をたどるか知らないが、今私は存在する。生きている。
ならば、まあまずは、と思ったところで息を吐いた。部屋を見渡す。缶ビールとつまみの残骸のみならず、しばらく仕事にかまけて掃除していなかったため部屋はすこぶる荒れていた。
発生している無数のタスクのうち、片づけをしよう。その次は、見たい映画があった。後で借りてこよう。たまには同期を飲みに誘うか。来月末には実家に顔を出そう。
私は空き缶の山をざっくりとゴミ袋にまとめた。体にアルコールが残っていたせいで軽いめまいがしたので水を飲んでからもう一度仰向けに寝転んで目を閉じた。こうやって横になっているのは心地がいい。ずっと眠っていたい。だけれども、いつまでもこうしていることはできない。なぜなら私は生きているから。重たい瞼を開けた。
そして私は、ふわふわ宙に浮く白い毛玉を視界にとらえた。