私たちの現実
ここまで「アラノンの三つのC(アルコホリズムの性質)」と「アルコホリズムが私たちに与える影響」に着目し、言葉の意味や体験に照らし合わせつつ、それぞれの特徴について考えてきました。ここでもう一度、スタート地点に戻りたいと思います。アラノンのプログラムにおいて変化とはプロセスであり、そのプロセスの第一段階は「気づくこと」であると、以下の記事に書きました。
それでは、いったい私たちは何に気づくのでしょうか。それは、私たちの現実であります。現実とは、いま目の前に事実として現れている事柄や状態のこと。気づくとは、それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知ること。「目の前に事実として現れている物事の存在や状態を知るようになる」というのは、本来ならば不自然な表現です。けれどアルコホリズムと共に生きる私たちにとって、これは決しておかしなことではありません。
ヨーロッパで暮らし始めたとき、私はそこで見た飲酒文化が日本とはずいぶん違うことに驚きました。それは一見個人主義的で、ある意味非常に不寛容なものでした。今なら私はそれを単に常識と呼ぶでしょう。私が育った頃の日本は、飲酒に対してそれだけ無自覚であったのだと(おそらく今もあまり変わっていない)と考えます。そういった環境の中では、飲酒の問題は元より、それが家族に与える影響も軽視されることになります。誰にも理解されず、自分でも特定することができない苦しみが現実を歪め、抑圧し、正当化し、無いものとすることは、これまで「アルコホリズムが私たちに与える影響」で見てきた通りであります。長いこと受け入れがたい事実に蓋をしてきた私の心には、いま目の前にある現実が見えていない(のかも知れない・・・?)。これこそが、私がアラノンに来てまずはじめに気づかなければならなかった私自身の現実でした。
振り返ると、この(かも知れない・・・?)が一番気持ち悪かった。それまで確固たる大地だと思っていた自分の足元が砂となって崩れていくような感覚に襲われ、藁にも縋る思いで何人かの仲間に話を聞いてもらいました。「あなたは間違っていない」と言って欲しかったのです。欲しい言葉は得られなかった。けれどそれが大きな幸いでした。なぜなら架空の土台は壊されなければならなかったからです。
アラノンで私たちは、これまで隠すことしかできなかった自分の恐ろしい本性が私たちに共通の特性であることを学びます。自分が理解され、相手を理解していくうちに少しずつ、頑なに閉じられていた心がほぐされ、開かれていきます。「気づくこと」というのは、何か大きな「気づきを得る」といったものではなく、プログラムの中でしっかり地に足をつけて自分の現実と向き合っていくという「現実的なプロセス」であるのです。