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「発達障害は特別」への考え方

はじめに

発達障害を表現する時に、「発達障害は特別」とするニュアンスがあります。

スティーブジョブズやアインシュタイン、三木谷社長の名前が挙がったりすることもあります。

「発達障害」の診断をすんなりと受け入れるのは、難しいことだとは理解しています。

どんな捉え方が良い、悪いを言うつもりはありません。
自分が納得する捉え方でみんなが幸せな選択ができればいいし、色んな捉え方があっていいと思っています。

ただ、自分は「発達障害は特別な力がある」という表現をなるべく使わないようにしています。診断を受けたばかりで、捉え方に迷っている方を励ます時にもです。

後から振り返って「ああADHDっぽいな自分」と思うことや、ネタにすることはありますが「こんな人たちもそうだった」は出来るだけ使わないようにしています。この言葉の中には「自分もそうである」というニュアンスを含んでいます。

前提として、ネガティブな捉え方をしたい訳ではありません。
現実に対峙することがスタートだと思っています。

「特別である」という言葉を使わない理由は2つあります。

1、みんな同じように特性がポジティブに働く状況ではないから。

全員が特別に何かの能力が異常に高かったり、何か1つに長けたものがあったりするとは限りません。
特異な能力と仕事がマッチしている方も、まだまだ多くはありません。
テレビで取り上げられるような人ばかりではありません。

「特別」だと思うことが負担になってしまったり、現実と離れていると周りの方への理解も進みづらいからです。

2、もし特性がなくても、自分は目的を達成するためにきっと別の方法(もしくは同じ方法)でやっていたと思うから。

意志は自分のもの。

取った方法がたまたま突飛だったりするかもしれないけれど、ADHDであってもなくても自分であることは変わりはありません。(当たり前のことですが)
そして、今とは形が異なるかもしれませんが、目標のために工夫してやり切るだろうと思います。

例えば簡単な思考実験をしてみようと思います。

将来に脳の伝達物質がいじれるようになって、発達障害が「治る」ものになってしまった時に、発達障害の人は特別じゃなくなってしまうのか

きっと変わらず特別です。
正確にはみんな元々特別なオンリーワンだと思っています。

(そこに甘んじて努力しなくていいかどうかは別の話)

だから、発達障害に極端な特別性や可能性を求めなくていんじゃない?と思ったりします。
最初から特別だし、可能性はいくらでも開けている。

自分を構成する大切な要素のうちの1つだけれど、全体ではない。

それを使う側にいるのは自分です。
もし発達障害が治っても、性格はそんなに何も変わらないはず。
(正確さは変わるかもだけど。)

持っているカードの1つで、使うも使わないも自分次第。

大切なこと

一番大切なのは、意志や思考だと思っています。

だから、わざわざ有名人を持ってこなくてもありのままを受け入れていいと思っています。
敢えて「特別」だとは言わないようにしています。
それは発達障害に起因するものではないと思っているからです。

一方で、物語の中に自分を置いて、パフォーマンスを最大化しようとするのはすごくポジティブな活動だ思います。

それぞれが社会生活を送るうえで一番幸せな選択、捉え方が出来ればいいと思っています。

発達障害は障害か個性か問題もそうですね。
言葉遊びにならないように気を付けたいところです。

自分が納得できて、必要以上の生き辛さを感じないようにしながら向き合っていけたら素敵ですね。
今回の記事も捉え方の1つにしてもらえたら幸いです!

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