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ヤンソン(10031文字)

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やっちゃんは幼い頃からずっとやっちゃんなのだが時たまふざけてやっさんと呼ばれることがあった。そこへ普段からムーミンのキャラクター、とりわけスナフキンをSNSなどのアイコンなどに用いる傾向があることに気づいて山崎が何気なくヤンソンと呼ぶと、その日から二段階進化と言って良い勢いでヤンソンの呼び方が定着した。
ヤンソンってなに? と誰かが聞いたとする。
当時も誰かが聞いた。
ムーミンの原作者がトーベ・ヤンソンというスウェーデンの人なんだよ、と山崎が答えるとクラスメイトは口々に彼を誉め、豆知識が一つ増えたことの興奮を両手いっぱいに抱えたままやっちゃんをヤンソンヤンソンと呼んではやし立てた。
なぜこんなことになったのか、山崎本人も分からなかったが、自分の発言が場を盛り上げたという事実はまんざらでもなかった。
しかし、あまりに狂乱していると感じたのも本当で、ああやばいなやっちゃん嫌がるかな、やっちゃん癇癪起こすんじゃないかなと思ったけれど本人もまんざらでもない様子だったから、むしろ良いことをしたのだと心得て、その後彼のことは通常ヤンソンと呼ぶことになった。


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その中学校の教室での出来事を共有していない人には、ヤンソンの名について一から説明することになる。高校で、そして大学で、山崎は幾度となくヤンソンのあだ名の由来を説明した。
例えば大学の女の子なんかと合コンめいたことをする。
山崎が会話の中で、隣に座っている男のことをヤンソンと呼ぶ。山崎にとっては当たり前のことだ。
自己紹介、みたいな流れになって、ヤンソンですと改めてヤンソンが言うと、「さっきから気になってたけど、それあだ名? なんでヤンソン?」 というような疑問が当然出る。
「やすはる」って名前なんだ、とヤンソンはいつも説明を始めるけれど、山崎に言わせれば回りくどい。当然そこで、「だから、なんでヤンソン?」みたいな空気になる。山崎はすかさず「ヤンソンはムーミンが好きなんだよ。それでね」と言うのだが、ああなんだか理由はあるみたいだけど、でもなに? ムーミンがなに? 分からないこっちが悪い? みたいな空気になるのがいつものこと。
山崎は密かにこのやりとりで相手を試すようなところがあった。キャラクター自体は誰でも知っているムーミンシリーズの、原作者がトーベ・ヤンソンという名だということは意外に知らない人が多かった。
その場の誰もムーミンの作者の名がトーベ・ヤンソンだということを知らないようだと分かったら、山崎はその豆知識を披露する。
それから、「ムーミンはみんな知ってるのに、作者の名前はあまり知られてないんだよね」と締める。ときには「偉大な作家なのにね」と付け加えることもあった。彼の自己紹介は自身の名前よりもこんな豆知識の披露から始まることが多かった。


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いつかの合コンのとき、ヤンソンが自己紹介をしてすぐにその由来を見抜いた女の子がいた。
山崎が、ムーミンが好きでねと言えばすぐに、ああそれでヤンソン、という風に理解する。
隣の女の子が「えっ? えっ?」みたいな顔をしているから、山崎はその困惑を優しく受けて、ムーミンの作者はトーべ・ヤンソンっていうスウェーデンの人なんだよ、といつもの調子で言った。
そこまでは良かったが、そこからがおかしかった。
「え? フィンランドの作家じゃなかったでしたっけ?」
山崎が発言者に不快を感じたのは明らかだった。
「じゃなかったでしたっけ?」という回りくどい言い草がとても嫌いだと彼は思った。本当はただ単にヤンソンに関わる一連のやりとりに水を差されたのが気にいらなかったのだが、彼はプライドの高い自分から目をそらし、代わりに女の粗を探した。
丁寧な言い方のつもりなのかもしれないけれど、じゃなかったでしたっけ、はまったく丁寧とは言えない。「じゃなかったっけ?」 と言われた方がまだ印象が良い、などと彼は、頭の中ではあくまで自分が優位な立場でいられるよう、言葉遣いの評価をするという姑息な手段に訴えた。
トーベ・ヤンソンのことを知っていたことは好印象だったけれど、そのあとの「じゃなかったでしたっけ?」で好印象どころか悪印象になった、というシナリオを彼は一瞬で作り上げた。
そんなことを考えているうちに、じゃなかったでしたっけ女の隣のぽっちゃりした女がスマホでトーベ・ヤンソンを検索している。
「あ、ほんとだ、フィンランドの児童文学作家だって。すごい明日美ちゃん」
「あ、でも言葉はスウェーデン語だよね?」
「うん、そうみたい。あ、それで山崎さん、勘違いしちゃってたんですね。ははは、あるあるですね」
勘違いしちゃってた、とはどういうことだろう。
勘違いしてた、で良いじゃないか。しちゃってたと言えばまるでこちらが一方的に謝らなければならない過失を犯したような言い方だと彼は思った。
それを軽妙な口調で誤魔化して、あまつさえ「あるあるですね」なんて言ってまるで気にしていないというようなフリをしておきながら、自分はそれを許している、というアピールをする。
あまり頭は良くなさそうだけど、計算高い女だと思った。慈悲深く包容力がある点が自らの長所だと自認している。もしかして、この女もトーべ・ヤンソンのことを知っていたのではないか? 一旦そう思うとそうとしか思えなくなる。カマトトぶる、という言葉はこの女のためにあるのではないかと思えてくる。
言われてみればそんな顔をしている、と彼は観察した。顔の造りは幼く、割に胸が大きい。体型は豊満で、胸だけでなく全体的に肉付きが良い。能力のほとんどを男に媚びるために使っている。
「勘違いしちゃってた」という言い回し一つで人に恩を着せるようなことを言うのだからこれは間違いない。
山崎の予想した通り、彼の言う「勘違いしちゃってた女」、すなわち北島春菜は何につけても寛大で小さなことは気にせず、あらゆる人の失敗や情けなさを自分の身に置き換えて「あるある」と共感することができる人だった。
実際のところ計算はなく、恩を着せるという意識もなく、容姿や体型は単純に山崎の好みだっただけなのに、山崎の高すぎるプライドが彼の目を塞ぎ、妄想で彼女を貶めて過去の男性遍歴にまで思考を巡らせては彼女を軽蔑した。


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山崎はその日の合コンを楽しむことができなかった。
こうして客観的に見ると、彼は得意のヤンソンの話題が振るわなかったことに拗ねているだけということが分かるのだが、彼はそのことに気づかずに一人悶々としたときを過ごした。
この一連の心理を、もし北島春菜にありのまま話すことができたら「あるあるだよね」という具合でまるっと肯定されて許されたはずだが、山崎にそんな未来はなかった。
料理とお酒はおいしいし、静かで、話をするにはとても良い環境だったけれど、相手の女の子たちの言葉遣いの端々が気になって、会話に集中できなかった。正直、レベルが高いとは言えない女性たちだった。容姿はまあまあだったが、容姿よりも中身や、知性の方で釣り合いが取れなければいずれにせよ関係は長く続かない、と彼は考えた。
女性側にしてみれば、中身も知性も加えて容姿だって大したことのない山崎には死んでもそんなことを言われたくないだろう。
幸い、彼はそんな思考を口に出す勇気もなかったのだが、言われたくない以前に思われたくすらないはずだ。
ムーミンの作者を知っていたから何なのだ。調べれば分かることだし、知っていたからと言って他の人間より知性があるということにもならない。
彼が店の料理や雰囲気を褒めたのは、あくまでフェアで冷静な判断ができていたという点を自らに認めさせるためだった。一つ一つの要素を冷静に分析し、客観的にその場を見ることができていて、その上であの女たちはそれほど楽しい相手じゃなかった、という風に。
北島春菜が「作品は有名だけど作者の名前を意外に知らないってけっこう他にもありそうですよね」なんて話をしていた。
「例えば、スヌーピー!」とか言って、作者の名前を言えない作品を出せたら勝ち、というような趣向を勝手にこしらえて、一人で続々と作品名をあげた。
いずれも、じゃなかったでしたっけ女、すなわち中井明日美が正解を出した。
「チャールズ・モンロー・シェルツ」
その次に「アンパンマン」と言ったときにも中井明日美が即座に答えた。
「やなせたかし」
即座に答えたように山崎には見えたが、実際は山崎もヤンソンも知らないようだということを確認してから彼女は答えていた。
「うわそうだー、やなせたかしじゃん、知ってたじゃーん」と春菜が言ったときには、山崎も同じ悔しさを感じていた。
「ミッキー!」
「いや、ウォルト・ディズニーでしょ」と山崎が言った。
「え、ディズニーって人の名前だったの?」
「逆になんだと思ってたの」
「ディズニーはあの世界のことだと思ってたよ」
出た出た、カマトト女、と山崎は思う。
「あの、ごめんね、ミッキーマウスのデザインってアブ・アイワークスって人だよ」と明日美。
さっそく検索する春奈。
「うわほんとだ! 明日美ちゃんヤバい! なんで知ってんの?」
この、北島春菜が拵えてくれたゲーム感覚の作者当てゲームに乗じて「いやあ、キャラクターは知ってても作者知らないってほんとよくあるよね」などと言えたなら、山崎も取り返しがついただろうに、彼はそんなチャンスを棒に振った。
数分後に「えっとごめん、これ楽しい?」と山崎が発してから、主に春菜と明日美は二人で会話をして、二人でお酒を飲んで、たまにヤンソンに話を振る、という何ともギクシャクした時間が過ぎた。



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山崎はヤンソンと二人がその後も頻繁にあっていることを知らなかった。
山崎はヤンソンこそが彼の引き立て役だと見なしていたが現実はまったくの反対で、ヤンソンこそがいつも山崎をネタにして女性の懐に入り込み、反りが合いそうな女性を選んで面白おかしく遊んでいたのだった。
あの合コンの後も、ヤンソンは女性二人と店の確認などのためあらかじめ作っておいたグループチャットで、山崎の空気の読めなさやプライドの高さを早々に謝っていた。
こうして謝る口実がある方が、ただお礼を言うよりもその後のやりとりが盛り上がることが多い。お詫びとか仕切り直し、みたいな名目で、もう一度誘えた。
だからヤンソンは、場は乱れてしまうことが多いけれど山崎と一緒に合コンに行くのが好きだった。
とは言えヤンソンは根が真面目でまともな奴なので、決して女を取っかえ引っかえして遊んでいるというわけではなかったし、身体の関係を持ったのも、恋人同士という関係になったのも、ごく常識的な数だった。
ただ、恋人を作るにしても、女友達を作るにしても、山崎と一緒に合コンなりなんなりに行くのは都合が良かった。
ヤンソンに言わせれば山崎は「鉄板ネタ」であって、毎度、山崎がヤンソンの名前を披露するように、山崎のネタを開示すればたいていの女の子はその話に興味を持ち、その場にいない、しかし数日前に食事をともにした山崎という男を肴においしい酒を飲むことができた。
実際、ヤンソンにとってはその程度のやりとりで十分楽しかった。
北島春菜と中井明日実はもともと仲が良かったし、ヤンソンはとくに知的ですらりとした中井明日実のことを気に入っていたので、結果的によく3人で遊んでいた。
3人で会って食事を楽しんだ最初の夜、ヤンソンは山崎という男がいかに「ヤバい」のかを二人に話した。
「二人さ、俺たちのこと、中学とか高校からの同級生だと思ってない?」
「え、思ってたけど。だって、前そんな話してたよね?」
春菜が心細そうにそう言った。
「いやそれがさ、違うのよ。何となくあいつそんな風に話すというかにおわせるけど、俺たちは大学で会ったの」
「でも、中学のときにヤンソンってあだ名がついたんだよね?」
「そう。山崎の中のヤンソンは中学時代のヤンソンなの。でも俺は違うの」
「は? ちょっと何言ってるかわかんないんですけど」明日美が少し機嫌を損ねた風に言う。
「ちょっと何言ってるかわかんないすね」
春菜は有名なお笑い芸人の口まねをして場を茶化す。こういうバランスが、ヤンソンにとっては非常に楽しかった。
「ごめんごめん、いやね、あいつの中で中学のときにヤンソンってあだ名を友達につけたことと、その由来を説明して周りに感心されたことがすごく大切な思い出なわけよ」
「ふーん?」明日美がキョトンとした顔をする。
「うん、まあそんな感じになるのは分かる。あいつ自分でそんなこと言うわけじゃないけどさ、合コンとか行ったら毎回俺の自己紹介からのヤンソンネタみたいになるしさ、そうとう自信があるっぽいんだよ」
「ヤンソンそんなに合コン行ってるのー?」と春菜。よく場を茶化すが、空気が読めない訳じゃないことは何度かのやりとりでもう分かっていた。だから曖昧に笑っていやいや、と言ったあと、「まあ、だからね、山崎は、俺がやすはるって名前だって知ったから話しかけたんだってよ」と続けた。
「やすはる、っていう名前の人が山崎さんには必要だった?」
「そうそう、明日美ちゃんさすが」
「え、どういうこと?」春菜はピンとこない。
「だからね、自分が友達に付けたヤンソンってあだ名とその由来を説明するためだけに、やすはる君と友達になったんだよ山崎さんは」
「そう、あいつ、俺がやすはるって言う名前ってだけで、俺を友達にするって決めたらしい」
「えー、それってなんか、昔好きだった人の名前と同じ人を好きになっちゃうヤツみたいじゃない?」
春奈はおそらくそんな経験があるのだろう。
「ちょ、気持ち悪いこと言わないでよ」とヤンソンは笑う。
「最初どんな風に話しかけられたんですか?」
「いやふつうに、覚えてないくらいふつう」
「ふつうって?」
「えー、多分講義かなんかかぶって、そのとき近くに座ったか何かだと思うけど、それで何気なく話すようになって」
「どうやってヤンソンさんの名前知ったんですか?」
「ちょ、明日実ちゃん、ヤンソンさんって」と彼は吹き出す。さん付けされたことがそういえばなかった。おかしな語感だと思った。「多分、出席を取ってる授業だったか、最初の講義で名簿と名前の確認したか、そんなとこだと思う」
こんな風に、山崎の話はちょっとしたホラーのように語られるのがいつものことだった。
「ほんもののヤンソンさんは今なにやってるんだろうね?」と春菜が言った。
「あ、実は俺も考えたことはあるんだけどさあ」と語尾を濁すように言うと、今度は明日美が「もう死んじゃってたりして」と小さな声で言った。
冷静に考えれば何が怖いのか、何が不気味なのか分からない流れではあった。ただの失礼な妄想で、たとえば山崎にこんなことを言ったとしたら気を悪くして軽蔑されるのが当然だった。しかしそこにいたのはヤンソンと春菜と明日美の3人で、店に入っていたが個室で、終電の時間を超えて人は少なく、たまに目隠しのカーテンの向こうを通る店員さんの足に驚くほど、3人にとってその場の空気は不気味なものになっていた。
幼い頃、ちょっと怖い話をするとやけに家鳴りが気になったり、お風呂場がなぜか怖くなったり、扉の向こうに誰かが立っていそうだったり、一度恐怖に振れた感情はむやみに世界を怖く見てしまうものだが、このときの3人もまさにこの心境だった。
怖がってはいたが、どことなく懐かしい幼い感情という自覚もあって、3人はまるで子どもの頃からお互いを知っているような気分になった。
ヤンソンはこういう感覚になる友達が増えたことに満足していた。



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不気味や謎というのはどうしようもなく人の心をくすぐる性質をもっているものらしく、山崎の話題は男女問わず多くの人の感心を引いた。かと言って話題の中心である山崎本人に引力があるのではなく、山崎本人に人が魅力を感じるということ滅多にない。ヤンソンの記憶では一度もない。山崎をネタに話すヤンソンにこそ不可解な謎を手渡されたと人は感じ、春菜や明日美のようにそれが実際その件の男性に会った直後だとしたらなおさら、その謎めきや不思議は否応なく肌に食い込み、過去の記憶が新たな真実で塗り替えられていくことに興奮を覚えるものらしかった。
それは男女が交際を始めてから、例えば男の方が「実ははじめて会った日から付き合う予感がしてたんだ」と告白するようなもので、ええ、それじゃああのときもあのときもあなたは私のことをそういう風に意識していたの? と驚くようなことと似ていた。あのとき優しかったのも、あのとき心配してくれたのも、あのとき夜中なのにすぐ私が送ったメッセージに既読がついて、だけど返信が遅かったのも、私を意識していたからなのね? と合点する、みたいな驚き。現在の真実から過去の印象を塗り替える興奮。
性質はまるで違うが、山崎の話はどことなくそういうプロセスを引き起こす力を帯びていて、決してポジティブな方向にではないが人の心を掴む作用があるらしかった。



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面白い話をするヤンソン、という風に人は認識するものだから、多くの場合、ヤンソンは容易に人の懐に入り込むことができた。
とは言えそれは肌感覚の話であって、すべての人にとって山崎の奇行が、過去を引きずりすぎてこじれたスタイルが、魅力的な謎、もしくは不気味になるわけではないこともヤンソンは心得ていた。
ヤンソンは山崎の話を面白く聞いてくれそうな人とそうでない人を無意識のうちに分けていた。
しかし春菜と明日美の場合、それは難しい判断だった。結果的に、二人に山崎の話をしたのは間違っていたのかもしれない。
第一印象として、ヤンソンはヤンソンの名前の由来をすぐに喝破した明日美の方に女性として惹かれるものがあり、当然、山崎の話も彼女の気を引くために使いたかった。
しかし、明日美は明日美で知的にプライドが高い女性で、それは山崎の圧倒的なプライドの高さで覆い隠されていたから目立たなかったけれど、分からないものに対する潜在的な拒否感は相当強いらしかった。
例えば単純なところで言えば幽霊やオカルトの類に対する拒否感。ヤンソンは彼女が恐がりなのだと思ったし、知的な美人なのに恐がりだという面に萌えていたが、実際は分からないものが嫌い、というだけだった。もちろん底の方に恐れの感情はあるが、もっと正確に言葉にするなら、彼女の感情は、分からないくらいなら最初から知りたくない、というような類のものだった。
その傾向は後から考えれば端々で思い当たるところがあったのだが、ヤンソンは早く明日美の懐に入りたいがばっかりに、山崎の話をしてしまった。
山崎の話をついしてしまったのは、明日美とは反対に春菜が、そういう不可思議や謎に対して強い興味と好奇心を抱く女性だったからだった。
どんな話も春菜のリアクションが大きいばっかりに、まるで明日美と春菜の総意としてのリアクション、という風に見なしてしまうが、ヤンソンの話に強く食いついていたのは実のところ春菜の方で、従ってヤンソンに好意を抱いたのも春菜の方だった。



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それでは、春菜が「ほんもののヤンソンさんはいまなにやってんだろうね?」と言ったときに明日美が「もう死んじゃってたりして」と言ったのは何だったのか。幽霊やオカルトに対する拒否感を持っている彼女がそんな展開を作ったのはなぜか。
一つには、明日美は決して幽霊の話をしているつもりはなかったということ。あくまで山崎のこじれた心理をより歪曲させるための発言で、むしろ彼女の中ではそれくらいの出来事がなければ赤の他人に昔の友人のあだ名をつけて、名付け親になったことを誇るなんて真似はしないだろう、という説明のための発言だった。
もう一つには、少し怖い発言をすれば単純に春菜が喜ぶと思ったから。明日美は春菜のことが好きで、春菜が素直にリアクションを取ってくれることがうれしかった。何かを贈れば喜び、失恋したら泣く。自分に苦手な素直な感情の発露ができる春菜を尊敬していたし、頼りにもしていた。春菜が側にいると盛り上がるし、春菜とのコントラストで自分のリアクションの薄さが落ち着きという印象に変わることも知っていた。だから合コンのような場にも明日実は春菜としか行かなかった。春菜と一緒でなければ行く自信がなかったと行っても良かった。
明日美にとって、山崎の行為は極端にしても、その気持ちが分からないでもなかった。山崎にとって、ヤンソンがいなければ行けないところというのは山ほどあって、ヤンソンがいなければ心細い場面が山ほどあるのだろう。その点を笑ったり、からかったりすることに違和感を覚えてもいた。春菜じゃないが、あるあるだ、とは思っていたのだった。だけど春菜とヤンソンが盛り上がっているのに水を差すほど野暮ではないし、あのときの山崎にムカついたのは事実。融通の利かない正論でつまらなくするのはごめんだった。



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こんな風に、山崎の話に対する態度が実は二人で一致していなかったのことにヤンソンは気づいていなかった。春菜が楽しんでいるように明日美も楽しんでいると思っていた。春菜はヤンソンの話とヤンソンに底はかとない好意を抱き、明日美はヤンソンの話とヤンソンに口にするほどではない嫌悪を抱いた。
春菜に好意を抱かれているとヤンソンが気づいた頃には、二人のカップリングは三人の中で暗黙の了解のようになっていた。
しかしヤンソンが好きなのはあくまで明日美であって、春菜とは気が合うし話していて楽しいが友達として、という感覚だった。
下手をするともう明日美に会えなくなると直感したヤンソンは春菜のアプローチをのらりくらりとかわしていたが、ある日明日美の家で飲んでいるとき、つい酔った勢いで春菜と関係を持ってしまった。明日美が自分のベッドで寝ている横の、床での出来事だった。二人は声を押し殺し、アダルトビデオのような展開に興奮し、春菜は二人の秘密めいたやりとりに満足し、ヤンソンは後からすぐに後悔した。
後日「やっぱり罪悪感に負けて明日美にあの夜のことに言っちゃった」と春菜の口から気恥ずかしそうに告げられた。2人の仲は3人にとって歴然としたものになった。
ヤンソンはできればこれまで通り、遊ぶのは3人でと言ったし2人も了解したけれど、春菜は内心でヤンソンと二人になりたいし明日美も普通に気を使ったのでだんだん3人は2人と1人になり、ついに2人切りでいることが多くなった。



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明日美と会いたいヤンソンは、「春菜のことでちょっと相談がある」と明日美を呼び出して、「実は春菜と別れたいと思っている」と告げた。明日美は常識的な女性として一旦ヤンソンの気持ちを全面的に受け止めた。その顔を見て、ヤンソンは勘違いをした。自分が理解されていると思い、自分の気持ちと明日美の気持ちは一緒なのだと曲解した。勢いで「本当は最初に会った日から明日美のことが好きだった」と少しロマンを添えた声で言った。
「え? じゃあなんで春菜とヤったんですか?」
「しかも私の部屋で、私の隣で」
「全然意味わかんないんですけど」
彼女の拒絶はあからさまだった。
ヤンソンは動揺した。動揺しながらも、あの夜のことは春菜の口から明日美に告げられただけだということに思い当たったヤンソンは「いや、実はあの日、何にもなかったんだ」と言った。「あいつが俺の身体を触ってきた。でも俺は酔っていてそもそも使い物にならなかったし、明日美のことが好きだったからヤる気にもならなかった」と言った。
嘘だった。
「次に二人に会ったとき、俺たちはそういう関係だ、ということになっていて、引き返せなかった」と言った。
「じゃあどうしてすぐに言わなかったんですか?」
「だって、あいつがそんな既成事実をでっちあげて友達を騙すような子だなんて言い出せなかったし」
「は? 私たち何年の付き合いだと思ってるんですか。春菜はそんな子じゃないし、第一騙す意味がないじゃないですか。私がヤンソンさんのこと好きだったとかなら別ですけど、そんなことないですし」
ヤンソンははっきりと好意がない、と言われてショックを受けた。「ヤンソンさんって」と笑ったが引きつった。
「なんでそんな嘘つくんですか?」 
「いや嘘っていうか。今そんな話がしたいんじゃなくてさ」
「じゃあ何の話なんですか? てか山崎さんの話も、あれ本当ですか?」
「え? どういうこと?」
「だって、そもそも4人で飲むのに山崎さんを抜いた3人でチャットルーム作ってましたよね?」
「え、いつの話だよ。てかどういうこと? 何を言ってるの?」
「だから、あなた中学の頃に山崎さんにあだ名を付けられた本物のヤンソンさんなんじゃないですか?」
なんでこの子はいつまでも敬語なんだろう、とヤンソンは思った。どうして、最後まで、こんなに距離が縮められなかったのだろうと思った。好きだったのに。
「意味わかんね」と言ってヤンソンは子どものように泣いた。

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