後悔の泡を未来で溶かす

私は時々、この窓から不思議な風景を見ることがある。
時に鮮やかな色だったり、時にはちょっぴり悲しげな色だったり、この窓から見える風景は、とにかく不思議なのだ。
日常の世界では、明らかに出会うことのできない風景なのだ。
そして、その不思議な風景が見えた日は、必ずこの店に、その風景と同じしおりを持つ、お客様が訪れる。
そのしおりは「人生のしおり」だ。
それは、たった一度だけ、持ち主が戻りたいと願った過去へ戻してくれる、魔法のしおり。
過去へ戻った人は、そのとき選ばなかった人生を体験できるのだ。
心の中だけに存在する、もうひとつの世界を。

***

窓の外の景色が、大きく波打って見えた。
そこをぷくぷくと泡のようなものが浮かんでは、小さく小さくなって、消えていく。
いくつもの泡のようなものが、浮かんでは消えていった。

今日のお客様は、いったい何を胸に抱いているんだろう。
まだ明るいはずの時間なのに、今にも雨が降り出しそうな、そんな空にも見えた。

窓から見える外の風景は、これからやってくるお客様の心の風景なんだと聞いたことがある。

"cafe 心象風景"は、普段はどこにでもある海沿いのカフェだ。
だけど私は、年に何度か、カフェの窓から不思議な風景が見えるようになった。
その日だけは、ご来店されるお客様は、たったひとりだけ。その風景と同じしおりを手にしたお客様だった。

カラン、と音が鳴って、扉が開く。

「いらっしゃいませ」

中に入ってきたのは、バイクの赤いヘルメットを持った男性だった。
30代くらいだろうか。
男性は店内をぐるっと見渡すと、ポケットの中からしおりを出してきた。
それは、窓の外の風景と同じしおりだった。

「こちらへどうぞ」

しおりを受け取り、男性をカウンターの席にご案内する。
男性は、半信半疑なのだろうか?
ちょっと不安そうな表情のまま、黙って腰を下ろした。

「それでは、あなたが戻りたい過去を強く思い浮かべてください。あなたの選ばなかった人生を体験してきてください。もし、あなた自身がご自身や、あなたのことをよく知る人物に出会ってしまっても大丈夫ですから。あなたの顔は、他の人たちには全く違って見えますから」

そう言って、男性の背中に手をあてると、男性は椅子に座ったまま、眼を閉じた。


◇◇◇◇◇

道路の向こう側に、夏穂の姿が見えた。
手を振りかけて、我に返ってあのカフェの店主の言葉を思い出す。
夏穂には、今の俺の顔は、圭介には見えないんだっけ。
だとしたら、俺はどうやって、自分の選ばなかった未来を体感するんだろう。
ところが、夏穂は突然こちらに向かって駆け寄ってくる。
俺たちが付き合っていた頃に見た夏穂の笑顔のままだった。
その笑顔が俺に向けられていると思ったのが誤解だったのは、すぐにわかった。
振り返ると、俺のすぐ後ろから圭介が夏穂に向かって手を振っていたのだ。

5年前か。
圭介の持っていたバイクのヘルメットで、俺が戻ってきた過去が、5年前なのがわかる。
そうか。この日に戻ってきたのか。
5年前、俺と夏穂が別れた日に。

この日、俺は夏穂にプロポーズをする予定だった。
子どもの頃からの夢である、バイクのレーサーになることを諦めて、夏穂の両親が認めてくれるような会社への就職も、決まったばかりだった。

俺を追い抜かしたふたりは、仲良く手を繋ぎ、少し先のジュエリーショップの店内へと入っていった。
1ヶ月以上も前から準備していた、夏穂への婚約指輪を受け取るために。
その店の店長には、プロポーズが成功したら、圭介が今抱えているヘルメットを処分してもらえるように、事前に頼んでいた。
夢を諦め、夏穂との未来を取る。
それが俺の出したこのときの結論だった。

ふたりの後に続き、俺もそのジュエリーショップの店内に入る。
他のスタッフには、俺が見えていないのだろうか。特に話しかけられることもなかった。

あの日俺が準備していたプロポーズの言葉を、夏穂に伝える圭介。
そこには夢を諦めることのやるせない気持ちなど、まったく見えなかった。
夏穂はその瞳に幸せの涙を浮かべ、コクリと頷く。店長は打ち合わせ通り、圭介が大切そうに抱えていたヘルメットを受け取っていた。

ジュエリーショップを出たふたりは、とても幸せそうだった。
違う、こんなんじゃなかったのに。
忘れたくても忘れられない心の痛みを思い出す。鋭利なナイフで刺されたかのように、その痛みは俺の心をえぐる。

あの日、俺は夏穂にプロポーズの言葉を伝えることができなかった。
自分の夢を諦め、夏穂との未来のために就職したというのに、俺の口からその肝心の言葉が出てこなかった。
そんなダメな俺の代わりに、プロポーズしてくれたのは夏穂の方だった。
でもそのときの夏穂の瞳からは、涙が出ていた。
目の前にある指輪を見て、俺がプロポーズをしようとしているのは、夏穂にだってわかっていたこと。
だけど、夏穂の瞳に浮かんでいた涙は、幸せの涙じゃなく、悲しみの涙だった。

「夢を諦めて、私のために生きて」

夏穂の言葉は、涙で揺れていた。
俺は、夏穂に残酷な一言を言わせてしまった。
そして俺は、夏穂からのプロポーズに、頷くことができなかった。

夢を諦めて、夏穂と生きようと思っていた。
それが俺の幸せだと信じて疑わなかった。

5年前のふたりが、少しずつ俺から離れていく。幸せそうに微笑み合うふたりには、この先どんな未来が待ち受けているのだろうか?

ずっと後悔していた。
夏穂に言わせてしまったあの言葉を。

夏穂は俺と別れてからすぐ、見合い結婚をしていた。俺はそんな夏穂の幸せを、ただ願うことしかできなかった。
そしてつい先日、夏穂が離婚して実家に戻ってきたことを、夏穂の親友から聞かされた俺は、やっぱり夏穂の幸せを願うことしかできなかった。

あのとき俺が夢を諦めていたら、俺と夏穂の未来はどうだったんだろうか?
俺は夏穂を幸せにできていたんだろうか?

「あの、すみません」

不意に声をかけられ振り向くと、ジュエリーショップの店長が、圭介の渡したヘルメットを抱えて立っていた。

「はい?」

「もしよければ、これをもらっていただけませんか?」

「俺が、ですか?」

店長はコクリと頷いた。

「夢を諦めるって、辛いですよね。彼がいつかいつか、夢を諦めたのは彼女のせいだって、思わないでいてくれるくらい、幸せになってくれるといいんですけど」

店長から、圭介のヘルメットを受け取る。

5年前、夏穂と別れた俺は、決別の意味でこのヘルメットを処分していた。
夢を諦めるために、圭介が捨てたヘルメット。
夏穂を諦めるために、俺が捨てたヘルメット。
同じもののはずなのに、その重みが全然違う。

そうだった。
俺が夏穂にプロポーズできなかったのは、俺に覚悟がなかったからだ。
夏穂と別れても、俺は結局、夢を叶えることができなかった。
でもきっと、夏穂とあのまま結婚していたら、夢を諦めたのは、夏穂のせいだと、いつか夏穂のことを、そういう目で見てしまっていただろう。

過去は変えることはできない。
変えることができるのは、自分で切り開いた未来だけだ。
あの頃の俺は、夢を諦める理由が欲しかった。
叶わない現実を、結婚というカタチで逃げようとしていただけ。
だからそんな俺の気持ちを知っていた夏穂は、あのときあんなプロポーズをしたんだろう。

きちんと、夢に向き合っていなかった。だから俺の夢は叶わなかった。
きちんと、夏穂に向き合っていなかった。だから夏穂は、俺を振った。

きちんと夢にも夏穂にも向き合うことのできなかった俺が、あのまま夏穂と結婚したとしても、今よりも散々な人生だっただろう。
夏穂と別れてからの俺は、ただひたすら走った。夏穂との別れを受け入れて、ただまっすぐに夢を追いかけた。
それでも夢は叶わなかったけれど、きちんと夢に向かい合ったこの5年のことを、俺はひとつも後悔していない。

元の世界に戻ったら、夏穂に会いに行こう。
きちんと夏穂に伝えよう。
今日までの想いを。飾らずに。
後悔が少しずつ、泡のように溶けていく気がした。


*****

「お帰りなさい」

気づくとそこは、カフェの中だった。
店主が俺の前に、ホットミルクを置いた。

「なんで、ホットミルクなんですか?」

不思議に思って、店主の顔を見ると、店主は目尻をさげて、優しく微笑んだ。

「お客様が今一番飲みたいのが、ホットミルクのような気がして」

「そうですか」

まるで、エスパーか何かだな。
店主の言う通りだった。
俺は、ホットミルクが飲みたかった。
いつも必ず、ホットミルクを頼んでいた夏穂。
そんな夏穂のことを、現実に戻ってからも身近に感じたかったのもしれない。

「俺の選択、間違っていなかったです」

「よかったです」

「過去は変えられないから、俺は今から未来を変えてきます」

「素敵な未来になること、お祈りしていますね」

人は、いつから夢を追い続けることより、夢を諦めることを選ぶようになるのだろう。
本当に諦めるのは、散々追いかけた後でいい。
夢見る心を失くすのは、後悔しないほど夢に向かって走った後でいい。


◇◇◇◇◇

男性が店を出て行くと、窓の景色がいつもの見慣れたものに変わっていた。

今日のお客様が幸せでありますように。
ぷくぷくと見えていたあの泡のようなものは、きっと彼の悩みや葛藤だったのかもしれない。

誰もが、人生に悩むときがあるだろう。
本当に選んだ人生が正しかったのか、立ち止まりたくなることもあるだろう。
でも私たちは自分たちで選んだ人生を、巻き戻すことはできない。
後悔したのなら、その後悔の泡をちゃんと見つめてあげなきゃ、心は満たされないんだ。

男性の残していったしおりを、私は小さな宝箱にしまった。


fin

こちらは、Kojiちゃんの下記の企画に参加しています。

「大人になったら消えてしまったもの」というテーマで、小説を書いてみました。
いつのまにか、感じなくなった心。
未来を夢見る心、取り戻したいです。

有料ですが、私の大好きなKojiちゃんの創作に関するいろいろなお話を読むことができます。

Kojiちゃんが店主のブックカバーのお店、心象風景。
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いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。