優しい波に守られて #ひかむろ賞愛の漣

私は時々、この窓から不思議な風景を見ることがある。
時に鮮やかな色だったり、時にはちょっぴり悲しげな色だったり、この窓から見える風景は、とにかく不思議なのだ。
日常の世界では、明らかに出会うことのできない風景なのだ。
そして、その不思議な風景が見えた日は、必ずこの店に、その風景と同じしおりを持つ、お客様が訪れる。
そのしおりは「人生のしおり」だ。
それは、たった一度だけ、持ち主が戻りたいと願った過去へ戻してくれる、魔法のしおり。
過去へ戻った人は、そのとき選ばなかった人生を体験できるのだ。
心の中だけに存在する、もうひとつの世界を。

***

優しい風景だなと思った。
静かな海の中にいるような。
優しい波に守られているような。
温かい感覚だった。
ゆらゆらと揺れる、でもそれはとても優しくて心地よかった。

今日のお客様は、いったいどんな後悔を胸に抱えているんだろう。
こんなに優しくて穏やかに見える世界の中で。

窓から見える外の風景は、これからやってくるお客様の心の風景なんだと聞いたことがある。

"cafe 心象風景"は、普段はどこにでもある海沿いのカフェだ。
だけど私は、年に何度か、カフェの窓から不思議な風景が見えるようになった。
その日だけは、ご来店されるお客様は、たったひとりだけ。その風景と同じしおりを手にしたお客様だった。

カラン、と音が鳴って、扉が開く。

「いらっしゃいませ」

訪れたお客様は、お腹の大きな女性だった。

「こちらへどうぞ」

カウンターの席をすすめる。女性は、大きなお腹をさすりながら、腰を下ろした。

「あの、すみません、これ」

お客様は手に持っていたしおりを差し出してくる。
窓の外の風景と同じしおり。
こうやって近くで見ても、優しくて心が穏やかになる色合いだ。

「それでは、あなたが戻りたい過去を強く思い浮かべてください。あなたの選ばなかった人生を体験してきてください。もし、あなた自身がご自身や、あなたのことをよく知る人物に出会ってしまっても大丈夫ですから。あなたの顔は、他の人たちには全く違って見えますから」

そう言って、女性の背中に手をあてると、女性は椅子に座ったまま、眼を閉じた。


◇◇◇◇◇

「大丈夫ですか」

ふと顔を見上げると、そこには懐かしい景色があった。

「大丈夫です、ありがとう」

手を差し伸べてくれた人の顔を見ると、そこにいたのは、高校時代の私だった。
私の顔を見ても、特に驚いた様子もなく、ホッとしたように笑みを浮かべている。
カフェの店主が言っていたように、きっと私の顔は全く違って見えるんだろう。
隣にいる親友の恵も、驚いている様子は感じられなかった。

過去の私である紫織と恵が行ってしまい、私はマジマジと辺りの風景を見渡す。
10年前に卒業した母校の前。
ちょうど下校の時間なのだろう。多くの生徒たちが、私たちの前を通り過ぎていく。
その生徒たちの多くの顔を知っていたけれど、誰も私には気づかなかった。

私が選ばなかった人生は、いったいどんな道なのだろうか?
未来から来たというのに、私のお腹は大きいままだ。お腹にいる赤ちゃんも、時々励ますように、私のお腹を思いきり蹴ってくる。

少し離れて、紫織と恵の後をつける。
すると後ろから、自転車に乗った亮平が私を追い越し、紫織たちの少し前でとまった。

思い出される景色。
恵が紫織と亮平から離れ、ひとりで先に行ってしまう。
これから亮平が紫織に告白をする。
そして、紫織は亮平の気持ちを受け止める。
私の知っているふたりの未来は、そうだった。
そして10年後ふたりは結婚して、お腹に大切な生命を宿す。
でも亮平は、その大切な生命に一度も触れることなく、飛び出してきた小さな子供を助けようとした事故で、他界してしまった。

もし私が、この日亮平の気持ちを受け止めなかったら、私たちは別々の人生を送っていたはずだ。
この大切な生命を宿すことがなかったかわりに、大切な亮平の生命を奪われることもなかったかもしれない。

意味のない出会いなんてない。わかってはいるけれど、私はずっと突然のサヨナラを受け入れることができなかった。
そんなときに、あの不思議なカフェのしおりを手に入れたのだ。
自分の名前が紫織ということもあって、不思議とそのカフェに行くことに抵抗はなかった。
もし私が、この日に亮平の告白を断っていたら、亮平は私以外の人と、今でも幸せに暮らしていたかもしれない。その人との間に宿った生命を、大切に抱きしめることができたかもしれない。

目の前の紫織は、過去の私がしなかったように、亮平に深々と頭を下げた。
紫織はひとりで歩いて行ってしまい、その場に残された亮平は、ガックリとうなだれていた。

しばらくして、亮平が自転車を押しながらとぼとぼとこちらに向かって歩いてくる。
私は動くことができなかった。
亮平もまた、私が紫織であることに気づいてはおらず、私の前を通り過ぎようとした。
そのとき突然、お腹を激しい痛みが襲う。
その場に立っていることができずに、うめき声と共にしゃがみ込むと、それに気づいた亮平が自転車を放り出し、駆け寄ってきてくれた。

「大丈夫ですか?」

亮平の問いかけに、うなずくこともできない。
冷や汗が流れるのがわかった。

「救急車、呼びましょうか?」

私が存在するはずのない世界で、問題を起こすわけにはいかない。
亮平が背中をさすってくれる。
私の妊娠がわかったときのように、優しく。
そうされると、不思議とお腹の痛みがひいていった。

「大丈夫です。ありがとう」

大きなお腹を抱えながらゆっくりと立ち上がったけれど、亮平はまだどこか心配そうな表情をしていた。

「送っていきます」

「大丈夫だから」

そう言っても、亮平は首を横に振るばかりだ。
紫織の顔には見えない私なんて、ただの他人なのに。
どうしてこんなに誰にでも優しいのだろう。
その優しさがなければ、あんな事故に巻き込まれることもなかったのに。
私とこのお腹の子だけにその優しさを注いでくれていたら、亮平が生命を落とすこともなかっただろうに。

でも私は、そんな優しい亮平だから好きになったんだ。
目の前の困っている人を見たら、放って置けない亮平の優しさが大好きだったんだ。
もしも亮平が今私のことを放って行ってしまう人だったら、私はこんなにも亮平のことを好きにはならなかっただろう。

亮平を選ばなかった紫織は、幸せになれるんだろうか。
きっと、それもまた紫織のもうひとつの人生だ。
だけど私は、やっぱり亮平を選びたい。
その結果の未来に亮平を失ってしまったとしても、亮平を選ばなかった未来なんて、想像ができなかった。

優しい風景が見えた。
カフェの店主に手渡したしおりと同じ風景だった。
蒼と紫が優しい海のようだった。
穏やかな波を見ていると、それだけで涙が溢れた。

「さっきの女の子」

「え?」

亮平は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、それが紫織のことだとすぐにわかったようだった。

「きっと、君の告白を断ったこと、後悔してる。もう一度、ちゃんと君の気持ちを伝えておいで。君なら大丈夫」

亮平は大きく頷いた。

「成功するおまじないに、お腹触ってもいいですか?」

「どうぞ」

亮平の大きな手が、私のお腹にそっと触れる。
お腹の赤ちゃんは、亮平の想いに応えるように、私のお腹を大きく蹴った。

「今、蹴りました?」

「うん、蹴ったね」

亮平が笑顔になる。
この笑顔はいつだって、私を守ってくれた。私の心も守ってくれた。
私の選ぶ人生に、亮平がいないなんて、そんなことあり得なかった。
亮平の手を取らなければ、亮平は事故には遭わなかったかもしれない。
だけど、私は何度人生をやり直しても、今日この日の亮平の手を握るだろう。
この優しい温もりと穏やかな景色を、未来に繋いでいきたいのだ。

「あの、ありがとうございます。もう一度、彼女に気持ち伝えてきます」

「頑張って!」

私に手を振った亮平は、自転車に乗ると、颯爽と行ってしまった。


◇◇◇◇◇

「お帰りなさい」

気づくとそこは、カフェの中だった。
店主が私の前に、コーヒーを置いてくれる。
淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくると、亮平の笑顔を思い出して、涙が出てきた。
コーヒーが大好きだった亮平。
豆のことになると、いつも時間を忘れるくらい、夢中になって話してくれたっけ。
おかげで、コーヒーをあまり飲まなかった私も、すっかりコーヒーが好きになった。
今は妊娠中だし、飲むのはできるだけ控えているけれど、今日くらいはいいよね。
亮平のことを思い出して、コーヒーを一口啜る。

「この人生で、間違いありませんでした」

「そうですか。よかった」

店主が目尻をさげて、優しく笑ってくれる。
私は、穏やかな気持ちでお腹に触れた。

この先、亮平がいないことで、大きく悩み、立ち止まり、涙することもあるだろう。
でも私は、この子を守っていく。
この子を守ることは、私にしかできない使命なのだ。
私と出会わなければ、亮平がこんなに早く生命を落とすことはなかったかもしれない。
だけど、もう二度と後悔はしない。
亮平に出会えたことが、私にたったひとつの幸せを与えてくれたのだ。

「この子が元気に生まれてきたら、また来ますね」

「はい、お待ちしております」


◇◇◇◇◇

女性が店を出て行くと、窓の景色がいつもの見慣れたものに変わっていた。

今日のお客様が幸せでありますように。
店に入ってきたときに見られた少しの影は、帰るときには見えなかった。
きっと、選ばなかった人生を想像して、自分の選んだ人生を信じることができたんだ。

今日見た綺麗な景色を、私も忘れることはないだろう。
女性の残していったしおりを、私は小さな宝箱にしまった。

fin

ひかりのいしむろ、あゆみさん主催の、上記の企画に参加しています。
あゆみさん、とても素敵な企画、ありがとうございます!

そしてもうひとつ。
こちらは、Kojiちゃんの名付け親企画に参加している作品でもあります。
Kojiちゃんが店主のブックカバーのお店、心象風景。
このお話は、Kojiちゃんのお店で売られている、「しおり」をモチーフにした小説になります。
ヘッダーのイラストが気に入った方は、ぜひお店をチェックしてみてくださいね。



いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。