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月的愛人

今日はいつもに増して絶不調。朝から降り出した雨、外ではガス管工事の音がうるさく、重機がアスファルトを削る振動が横たわる身体にまで響いてくる。

遠い記憶。沢山の漫画と手紙を紙袋に入れて、初めて彼のお店に向かった灰色の午後の日を思い出す。季節は夏の始まりで、その日は強い雨が降っていた。私は21歳で、もうすぐ22歳の誕生日を迎える頃だった。そして処女だった。ドキドキしていた。水色のギンガムチェックのワンピースにツインテールに縛った髪の毛。家を出てから歩いているあいだに足元は雨でびしょ濡れで、傘を持ちながら抱きかかえるように運んでいる重たい紙袋の中身は、丸尾末広の漫画だった。

私達の出会いは、当時私が勤めていたSMバーのイベントで、タトゥーアーティストとしてゲストで来てくれた時だ。彼がお店の赤いドアを開けて入ってきた時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。ガリガリと言っていい程華奢な身体に赤いジャケット、黒いスキニージーンズの上から赤いチェックのプリーツスカートを巻いて、黒のベレー帽、そしてなんと鴉マスクをつけていた。背が低く孤児のような未発達な印象を与える身体つきは中性的で、一瞬女の子かと混乱した程だった。蛇のような鋭い目つきからくる猟奇的な雰囲気が丸尾末広の漫画に出てくる少年によく似ている、と思った。一目惚れだった。拒否出来る隙がないくらいに、圧倒的だった。その日は少しだけ話をして、漫画を貸す約束をした。「いつでも店にいるので遊びに来て下さいね」と親しげに言ってくれた。

彼が1人で営むタトゥーショップは、1人暮らしをしていたアパートから歩いて15分くらいの場所にあった。商店街の端っこの狭い路地裏の、お店と呼ぶには躊躇われるような、とても古い造りの秘密基地みたいな所だった。約束もせず突然の来訪、その日は閉まっていて彼は留守だった。私はガッガリしたようなホッとしたような気持ちでこの漫画をどうしようか考えて、結局お店の軒下に置いて帰ることに決めた。手紙にはSMのお店で使っている名前を名乗ってから、私の本当の名前と、携帯電話の番号を書いた。祈るような気持ちで家に帰り、雨に濡れた足を拭き、ずっと携帯の画面を見つめていた。

彼から連絡が来たのは、その日の夜だった。

そこから始まった。初めての恋人。私の身体を作り変えた2年間。それは開放であり、呪いだった。一緒に暮らしたたったの2年。ニードル、医療用メス、フック、縫合、彼から与えられるものには痛みが伴い、沢山の血を流した。そして2人の関係は破綻する。私は最後まで、処女のままだった。


誰にも話したくないのに、いつか誰かに聞いて貰いたいような、上手く言葉に出来ない日々だったと思う。

たったワンフレーズで記憶を操作されてる気分。強い。めちゃくちゃ強い。今日は絶不調。

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