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反抗期

 二浪した淳司が東京の大学に入学して、成海家は倫子と三男の恭平の二人だけの家庭となった。
 父親は、十数年にわたる単身赴任で、長男は社会人として関西で仕事をしている。分かってはいたが、三男の恭平との生活は、倫子にとって拍子抜けするものであった。
 監視人のいない夏の海、看守のいない塀の中、規律のないフリースクール…。いや、言い過ぎか。
 にしても、それに近いものがあるのは否めない。

 恭平は高校三年生だ。まず起きてくる時間が遅い。8時過ぎてノロノロと起きてきて、のんびりと朝食を食べ、洗面を15分かけている。
 やたら眉を整えている。細くもなく濃くもなく、くっきりと美しい眉を小さなハサミで整え、満足げに眺めている。

 倫子は家事をしながらジリジリ恭平を見守っている。
「早く行きなさい」とは言わない。
 言ったって結果は同じだからだ。
 試算してみる。この線で行くと恭平が家を出るのは8時半。駅まで自転車で飛ばして10分、それからすぐに電車に乗ったとしても7分で二駅先の駅へ着く。さらに15分歩かないと高校にはつかないのだ。

 今日も遅い 、ぎりぎりだ。
 倫子は恭平の行動を待っている。すると、8時40分、「悪い!学校まで車で送って」と恭平が少し悪びれた口調で言ってきた。
 来たー!
 一週間に何度かはこのパターンだ 。
 怒っている暇はない。すぐに家の戸締りをして、出かける準備をする。

 家から高校までは8 km、 車を飛ばせば15分で行く。
 車の中で、恭平は全く口をきかない。相変わらずミラーに映った自分の眉の具合をチェックしている、いい気なもんだ。

 高校の手前の川べりで恭平をおろし、送り届けたはいいが帰り道思いもよらず渋滞に巻き込まれて、貴重な朝の時間に1時間のロスとなった。

 恭平は大学進学先を10分で決めた。
 夏にそれまで志望校にしていた大学の見学に行き、帰るなり「K大には入らない」と宣言した。
 実学理系のK大は行って見たら想像以上の僻地だった。あんな寂しいところで四年間を過ごすなんて考えられない、というのが理由だった。
 恭平はそもそもK大に行きたいと望んだわけではなく、ただ二人の兄が専門にこだわった進学先だったから何となく自分もそれに合わせただけだと言う。初めからまったくその学部には興味がないと言うのだった。

 恭平はネットでいくつかの単語と学部を組み合わせて検索にかけた。
 するとスラスラと出てきた東京の私立大の名前にざっと目を通し、上から二番目に出てきた大学を指さし、「あ、俺ここに行くことにするわ」と即決した。

 T大というそのマンモス私立大一本に絞って、AO入試を受けると言う。
 二回試験を受け、面接を受けて入るのだという。倫子が煙に巻かれたようになっている間に恭平は二度 AO 試験を受け、見事にT大に合格した。
 そしてその日から恭平は市内の人気ラーメン店「ハオハオ」でバイト三昧の生活に入ることになる。

 恭平は次々に服を買った。
 新品はひとつもなく、ほぼ中古である。
 市内にあるセカンドストリートや ブックオフ、 あるいはヤフオクで購入する。
 恭平の部屋に見たことのない変わった服が増えてゆく。
 花柄のジャケット、ポップな模様のシャツ、アンダーカバーの凝ったパーカー、別珍のパンツなどである。
 しかし恭平がそれらを着ると不思議とよく似合っていた。

 ある日恭平が留守の時に、一人の男性がやってきた。
「恭平君と待ち合わせたので部屋で待たせてくれ」と言う。
 彼は素朴な感じで、倫子はその言葉を疑いもせずに部屋に招き入れた。
 そうして30分過ぎ、1時間が過ぎた。
 恭平はまだ帰って来ない。
 男性に悪いと思い、倫子は何度か恭平に電話してみたが出なかった。
 やがて、男性は痺れを切らしたように「もう帰ります」と言って帰って行った。

 その夜の恭平の話だと、男性と約束などしていなかったと言う。
 どうやらその男はバイト先の先輩フリーターらしい。
 一体何が目的でやって来たのだろう?倫子は首をかしげた。

 それから数ヶ月先、車で恭平を駅まで迎えに行った時に倫子はあの時の男性を目撃した。彼はどういうわけか恭平と似たようなジャケットとパンツを履いていた。
 電車から降りてきて倫子の車に乗った恭平も、彼を見た。
 恭平によると、この男はあれ以来恭平と瓜二つの服を身につけてバイト先に来ているのだと言う。
 織りの強いジャケットと別珍風の色のパンツ、そういえばそっくりだ。
「あいつ!俺の部屋に入って俺の服を盗み撮りして真似し出したな」
「えーっ!」
  倫子は仰天した。
「そんな‥人の部屋に入って持ち物をチェックだなんてストーカーじゃないの!」
「やたら俺の真似したがる奴だと思ってたら‥、スパイかよ!」
 恭平は苦笑いした。
 倫子は白けていた。
「母さん、もう二度と俺の部屋に誰かを上がらたりするなよ!」
 恭平は怒ると本当に怖い顔になる。いつのまにか180㎝にもなった体格からくる圧迫感を倫子は感じた。
「わ、わかったわよ」
 倫子は怯えたように答えたが、まさかすぐに同様のことが起こるとは思っていなかった。

 とにかく恭平はモテる。
 家では愛想ゼロなのに、外へ出ると違うようだ。
 中学の頃から女子とはよく出かけて遊んでいたらしい。
 部屋を掃除している間にも、プリクラが何枚も見つかった。女の子と楽しく過ごす屈託ない姿が映っている。付き合ってるのか?
 シールに書かれた文字から、女の子の名はすぐに分かった。
 それから何代目かの彼女が現れては消えた。
 すぐ前の彼女はいい子だったのに、恭平から別れた。
 一番新しい彼女はこの間家にやって来た。しかしどうも今までとはタイプの違う、落ち着いた賢そうな子だ。
 親の仕事のせいで、引っ越しを繰り返し全国を転々としてきたと言う。
 明るくて将来の展望もしっかりしている。
 こんな子が恭平と付き合って行けるのか、倫子は疑問だった。

 ある時、新しい彼女が遊びに来ると恭平が言った。

 当日倫子はお茶菓子を揃え、いつもより玄関を綺麗に掃除して待っていた。ところが現れたのは前の彼女だった。
 彼女は平気な顔で玄関に入ってきて、恭平の部屋で待たせてくれと言う。
「いや、それは‥」と倫子が口ごもっている間に、元彼女は笑顔で上がり階段をトントンと駆け上がって恭平の部屋へと入ってしまった。

 さあ大変だ。
 新しい彼女がもうすぐ恭平とやってくる。
 部屋でかち合ったらどうなるのだろう?
 倫子はハラハラして恭平に何度も電話をかける。恭平は話を聞くと怒って、あいつと約束した覚えなんかない、さっさと追い出せー!と怒鳴る。
「いやー、そう言われましてもね~」
 倫子は迷った挙げ句、二階の恭平の部屋の前で、元彼女に話しかけてみる。どうやら元彼は内側から鍵を掛けてしまったようだ。
「恭平が友達を連れて来るらしいのでまた日を改めて来てちょうだい」
と倫子は猫なで声で言ってみる。
 元彼女はもうすぐ帰りますからと言う。倫子はあれこれと話しかけた。
が彼女はのらりくらりと話を反らす。
 やがて元彼女は少し口調を変えて、一目だけでも恭平くんと会いたい、とだんだん攻勢に回ってきた。
「え、でももう少ししたら恭平は友達を連れてここに来ます。もうそこまで来てるんですよ」
 焦りがちに倫子が言うと、彼女は態度を変えて、
「わかってます!だからここにいるんです!」
 と強気の態度に出た。
「どういうこと?」
 ドアの中からの声が聴き取りづらいので倫子はおもちゃのメガホンを持ってきて、それをドアに付けて呼びかけた。この行為が後から考えると分からない。きっと無意識でしてしまったのだろう。
「恭平くんは新しい彼女と付き合う前に、私ともっときちんと話をして欲しいんです」
「は?つまりあなたたちは、きちんと話し合いをせずに別れたのね?」
「えーまぁそんな感じです」
 倫子はひぇーと驚く。
 しかし今はそんな時ではない。一刻を争うのだ。
「まぁその気持ちはわかるけどー、何も今の今じゃなくてもいいでしょう?」
「ダメなんです!今じゃないとダメなんです」

 途端に声が 泣き声に変わる。
「ここにいます。ここから出ません、とにかくちゃんと話合いがしたいんです」
 携帯が鳴って恭平が自分と彼女はすぐそこまで来ている、もうすぐ家に着くという。
「だめ!来ちゃだめ!」
「なんだと。俺の部屋だぞ!ふざけるな!」
 倫子の中で修羅場の映像が浮かんで消えた。
「ちょっと待ってね」
 倫子はドアの中に話しかける。
「最後のお願いだけど、あなた何が好き?欲しいもの買ってあげるから、とりあえずそこから出ようか?」
「陽動作戦ですか?汚いですね!大人のくせに!」
 声がもう泣き声だ。倫子はイライラしてきた。
「だったら私が次に場を設けるから。約束するわ」
 倫子も必死だ。

 そうこうしてる間に玄関から音がしてガヤガヤ言っている声が聞こえた。
 新しい彼女と恭平が到着したのだ。
 何て空気読まない男なの、と倫子は失望した。
 しかし、次の瞬間恭平の部屋のドアが勢いよく開いて倫子は思い切り顔面をドアにぶつけられた。ドアが開いて、元彼女が飛び出してきた。元彼女はダダダと階段を一気に駆け下りていった。

 そして玄関の外にいた恭平と新しい彼女の脇を、風のように走り抜けた。
 恭平と新しい彼女はあっけにとられたが、風のように過ぎた人物が誰か確認する暇はなかった。
 そしてそのまま元彼女は通りをダッシュして走り去ってしまった。
 道路から奇声が聞こえたが、それが元彼女の発したものかどうかは確かめようがない。

 恭平は何事もなかったように、玄関から階段を上って新しい彼女を部屋へ案内した。 倫子は鼻を押さえながら二階から作り笑いで二人を迎えた。
 新しい彼女が、「恭平んちの階段広いのね。家の倍はありそう」とのんきに話しかけていた。恭平は平然と「そうお?」と答えていた。

 倫子は恭平に説教したかった。
「男と女が別れるということは大仕事なんだから。女を何だと思ってるの?一人の人間として、きちんと納得いくように話し合わないといけないの。相手に全てを吐き出させて、出すものもなくなり涙も言葉も枯れ果てて別れることができる。そんなもんなのよ。元彼女が取った行動はすべてあんたの責任だからね」
と。
 まーしかしこんな正論を述べたところで、あの恭平がどれだけまともに聞くだろうか。出だしの10秒で腰を上げ、視線を外して「ハイハイハイ、わかったよ」と捨て台詞を吐いて出ていくのがオチだ。
 なので、このセリフは倫子の胸の中に収められ日の目を見ることはなかった。
 倫子の中で恭兵に対する苛立ちが火山の溶岩のように溜まっていく。

 この頃の恭平の反抗的な態度はたびたび行動になって現れていた。
 ある時、恭平と一緒に恭平のバイト先のハオハオに二人で行った。
 その日恭平はバイトが休みだったのだが、店に入っていく時から明らかに行動がおかしかった。
 窓の側の席に座ったのだが、まったく口を開かない。
 恭平の背後にかかっている大きな書道のパネルが面白かったので倫子が写真を写そうと携帯を取り出した。
 カメラ撮るねと言って写真を撮ろうとすると、恭平は瞬間的にテーブルに突っ伏した。それも潰れたカエルのように平べったく。
 それが3回続いてさすがに倫子は気分が悪くなった。
 注文したものが運ばれてくると、黙々とそれを平らげ店を出るまで恭平は一言も口をきかなかった。
 そうして表に出て、道路の向かい側のスーパーで友達と待ち合わせをしていると言い残すと颯爽と肩を揺らしながら横断歩道へ消えていった。
 その姿を見て、倫子はこいつ今反抗期の真っ只中なんだわと痛感した。

その後、バイト先でチャーシューの薄切りを機械で任された恭平は、ハムの代わりに自分の指を切って倫子は休日の朝呼び出された。
 店長によると、この店では高校生をバイトに使ってはいけないのだが、ばれたら大事になるので救急車を呼べないと言う。
 お母さんが直接救急病院へ連れて行ってください、というのだ。

 店に着くとタオルで指を巻いた恭平が青白い顔で外で待っていた。何でも店長から1万円を渡され、これを治療費として使ってくれと言われたのだそうだ。

 その日救急病院を探して電話をかけ続け、10km先の隣町の病院に着いたのは午後だった。工作して指を切ったと恭平は嘘をつき何とかごまかした。
 切った指が完全に元に戻るのには約一月かかるそうだ。

 薬指が治るまでバイトは休業となり、恭平は学校からまっすぐ家に帰宅しずっと家で過ごすことが多くなった。新しい彼女が再び家に来ることはなく、恭平は一人寂しそうだった。
 バレンタインの前日、台所にチョコを手作りしている恭平の姿があった。
抹茶パウダーを練り込んだ丸いチョコを一生懸命作っている。しかし、バレンタインというのは女性が男性にチョコを贈るイベントではなかろうか。なぜ恭平が作っているのだろう?不自然さと共に違和感を感じた。
 少しして、新しい彼女とうまくいかず別れたのを知った。
 まあそんなものかもしれない、納得した。

 倫子は恭平の進学先に拭い切れない不信感を抱いていた。
 なぜ経済学部などに決めたのか、昔から理科に強い子だった。
 数学も強い。だいたい、恭平の雑談の内容がことごとく理科系だ。
 雑談してるうちに地球の軌道がどうとか生物学の話になったりする。いちいち理屈っぽい。そして面倒臭い。それが文系とは‥。
 経済なんて一度でも興味を持ったことがあるのか?

 倫子はこのことについて何度も繰り返し、夫の忍に疑問を投げかけた。
 忍の答えは大体こうだった。
 人間なんて誰も好きなことが分かってるもんじゃない。うちの子はたまたま上の二人が好きなものが決まっていただけで、大半の人間は自分が何に向いてるか、何が好きなのかほとんど分かっちゃいない。
 恭平の体質が理系だろうと、だからといって理系に進めばいいってもんじゃない。経済だっていくらでも理数を活かせる場面はあるだろう?
 …そういうもんかしらね、倫子は口をつぐんでしまう。
 社会について語られると、倫子はあまり自信がなかった。
 忍が言うのも一理あるかもしれない。
 しかし一方で、どうも恭平は別の意図があるような気がした。都会で1人暮らしして青春を謳歌してみたいという隠れた願望だ。
 まぁ、だがそれは今言ってみても始まらない。

 年が明けて恭平ももう大学生になる。
 大手専門店でスーツを新調しようと倫子は恭平と車で出かけて行った。

 平日のスーツ専門店はがらんとしている。男性のスーツは体型によって細かく分けられている。スーツとシャツは首回り肩幅身丈を測り、ズボンは股下と胴まわりを採寸する。
 それらの寸法によって細かくスーツが分けられている。生地の模様も種類がある。一見してさほど違いがないように見えるが、体に合ったスーツを選ぶのは結構大変な仕事である。
 近づいてきた中年の男性が一つ一つ説明してくれる。恭平の採寸をした後希望のスーツの色や布地を聞いてタブレットにメモしていく。そこから抽出したスーツを次々と持って来て一緒に考える。
 その方法に文句はない。いや、十分に丁寧で申し分ない。
 だが男性社員との話が始まって10分もしないうちに、空間の異変に気がついた。
 猛烈な異臭がしている。臭いはその社員の半径数メートル以内に漂っている。これは何だ?アンモニアか?倫子は後ずさりした。

 違う。臭いは男性社員が話すたびに強烈なガスのようにあたりに撒き散らされる。
 倫子が恭平の方を見ると、恭平の顔が引きつっている気がした。心なしか後方へ後ずさりしているようだ。間違いない。
 臭気は、おそらく口臭だ。
 その日スーツを選び上の空になりながら、シャツとネクタイを選んで帰ってきた。

 家に着いた時には何となくヘトヘトだった。一度男性社員は奥へ引っ込んだ。その際に深呼吸したが、数分後にまた現れるとトルネードのように匂いが巻き起こった。

 リビングでお茶を飲んで一息ついたが恭平もぐったりしていた。何だったんだろうね、倫子がつぶやくと恭平は待ってましたとばかりしゃべり始めた。
「あの人、内臓が悪いんだろうな。腐敗臭がした。胃かな、食道かな?」
「私は歯槽膿漏だと思うわ」
 倫子はいつか見た健康番組を思い出しながら言った。
 恭平は信じられないといった顔をした。
「初めはちょっとだったのに、歯槽膿漏が悪化して拗らせてるんだろうね。もう相当進んでるわ。誰か教えてやらないと…」
「でも客仕事だぞ?自分で自覚ないのかよ」
「案外自分じゃ気づかなかったりするもんよ」
「そういうもんかなぁ」
 恭平と倫子はあれこれと想像や意見を戦わせた。それがきっかけで、話は広がり1時間以上の討論になった。
 久しぶりだった。
 強烈な異臭。あれを共体験したことは、災いだったかもしれないが会話のきっかけにはなった。

 その後スーツが出来上がり、再び恭平と倫子はあの店へ行った。
 シャツと明るい色のネクタイ、出来上がったペンシルストライプのグレーのスーツを着てみた。恭平は新鮮な大人の雰囲気だ。
 青年の清々しさにあふれていた。
 あの店員がニコニコしながら恭平を見守っていた。
 倫子は息を詰めながら、恭平の成長にまぶしさと誇りを感じていた。

 2月になった。
 大学生活の新しいアパートを探すために倫子は恭平と東京へ向かった。
 東京の多摩センターからモノレールに乗り、埃っぽい町に着く。
 学生課で紹介された物件を手当たり次第に周り、夕方まで十戸のアパートの部屋を内見した。
 その夜恭平は、その内の一つの部屋に決めた。
 新しいアパートは大学から徒歩7分、8畳に1畳の台所が付いている。

 3月末に恭平の引越しをした。
 新しいアパートは昔風の作りで8畳には見えずもっと広い感じがした。
 次々に荷物が着き、部屋はダンボールで埋まる。
 荷物をほどいて、台所へ新しいガステーブルをつけようとしたら大きすぎた。
 すぐに買った電気店へ電話して返送する。
 近くに電気店があったので、そこで新しいガステーブルを買う。
 一口だけの寂しいものだ。これで調理ができるのか?
 恭平は毎日料理すると言っているが、経験も無いのに急に料理ができるはずがない。

 翌日は隣町へカーテンを買いに行く。
 神社のある街で古びた商店が立ち並んでいる。
 懐かしい雰囲気だ。
 大きな雑貨店の一番奥にカーテンが並んでいた。
 深い緑色のカーテンを買ってきた。部屋につけてみるとなかなかよく似合う。

 座布団を2枚敷いて寝ていた倫子は夜中、外の音で目が覚めた。
 アパートの隣の空き地にバイクが何台も集まっていて、若者がガヤガヤ話をしている。バイクのエンジンのかかる音、立ち話の人の声が騒がしい。いつ彼らが帰るのかと待つが、立ち去らない。結局よく眠れなかった。
 自分は普段どれだけ静かな所にいるのだろう。
 夜になると物音ひとつしない静けさの中で暮らしているのだ。
 なんと恵まれているのか、そんなことは今まで考えた事もなかった。

 大学入学式は武道館だが、「当日は混み合うので最寄りの駅から何駅か前に降りて歩かねばなりません、ご協力下さい」とと大学から手紙が来ていた。倫子は一気に冷めた。
 式に出ようと思っていたのに入学式が始まる前にいそいそと家に帰ってしまった。

 誰もいなくなった家はガランとしていた。空気が冷え冷えしている。
 誰もが新しい環境へ旅立ってしまう。
 人がいないというのはこういうものか 。

 庭に出てみる。
 庭もがらんとしている。いつのまにかタンポポぽがあちらこちらにびっしりと根を張っていた。鳥のフンか何かで種が飛んできたのだろう。
 これでもかというくらい黄色いつぼみをつけたギザギザの葉が地面にこびりついている。そういえば5年前、中学生だった恭平が同級生の女の子とこの庭に佇んで日の長くなった夕方にずっと話をしていたなぁ。

 空気が緩んでいて庭はもう靄の中だ。
 これを全部抜くのは大変だわとつぶやきながら、まあゆっくりやるのもいいだろう、誰もいないのだしと考え直す。

 一週間後、庭でタンポポを抜きつつ、恭平の新しいアパートの部屋に思いを馳せる。あそこで恭平も様々な体験をしながら少しずつ大人になって行くのだろう。
 ふと恭平の反抗期は終わったのかなという思いにとらわれる。多分下火になっていつか火が消えるように終わったのだと思った。そしてそのきっかけはあのスーツ店の口臭事件だったように思った。     

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