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アラン・シリトー『長距離走者の孤独』

友人とパン屋の金庫を盗んで、感化院に入れられた「おれ」が、駆け足が得意だったことから長距離クロスカントリー選手にさせられ、早朝練習として院外を走るようになる。この走るという時間が、「おれ」にとっては初めての「考える」時間となり、物語は走っている間の思考を描写することで進んでいく。

この作品の主題の一つは、感化院の院長に代表される「世間の価値観(「おれ」は彼らを有法者とよぶ)」への反抗である。

「おれはおれの考えている誠実がこの世で唯一のものだと思っているし、同様に奴も、奴の考えているのがこの世で唯一のものだと思ってやがる」

(21ページ1行~3行・新潮文庫版)

とあるように、「おれ」は自分の定義する誠実さのため、しかしまた虫の好かない院長をギャフンといわせるという子供じみた反抗心があることも自ら認め、競技会でわざと一等を逃すことにする。これにより「おれ」は自らの価値観に基づいた誠実さを貫きとおしたことになる。

私はこの作品の主題は上記だけではなく、「おれ」が「考える」ことを獲得し、それまでみじめな死にざまと思っていた父親の最期に「誠実さ」と「強さ」を見出し、それが「おれ」の進むべき道しるべとなっていることにもあると思う。それは「おれ」にとって走ること(考えること)のゴールが決してトロフィーではなく、死であることを示している。

「おれ自身があの物干しづなに到達するのは、おれが死んで、向こう側に安楽な棺桶が用意されたときだ」

(79ページ10行~11行・新潮文庫版)

つまり、走ることによって獲得した「考える」という習慣を「おれ」は死ぬまで手放さないという決意だと解釈できるのではないだろうか。本作品の主題は無法者の若者が「考える」ことを獲得し、考え続けることで世界に対峙していこうとする決意だと私は理解した。

「考える」ことを獲得した「おれ」は次にそれを記述することを獲得する。物語として「おれ」によって描かれた形をとるこの作品は、「おれ」がパクられたときに日の目をみることになっていた。つまり、この作品が読者を得ているということは「おれ」は刑務所にいるということで、これは作者シリトーの、「おれ」の思考に対する「詰めの甘さ」のささやかな指摘であるように思われる。

※このレポートは放送大学「文学批評への招待」通信指導課題として提出したものです(A゜をいただきました^-^/)。


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