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初めから君に恋してる七

七 本当に申し込むの?
きょうは珍しく朝練のない日だったのに、つい、いつものように早起きして、第ニ音楽室に来てしまった。
当然誰もいない。
朝の、音のない世界は、素敵だ。始まりの予感がするからだ。これが真夜中の音楽室だったら、ベートーヴェンが追いかけてくるとか、偉大な音楽家シリーズのポスターが笑い出すとか、あり得そうだけど。
窓ガラスから日が差しているだけ。静かだ。ピアノの音を立てるのに、躊躇するくらい。美しく完璧な世界、そんな言葉が思い浮かぶ。
しかし、そうは思いながら、ボーッとしているわけにはいかない。気持ちを切り替えて、ピアノのカバーを開け、譜面台を準備する。
私はカバンから恋の楽譜を取りだした。
「陽葵の、恋の曲が聞きたい」
蓮先輩との刺激的な濃い時間を思い出し、また身体が熱くなる。目をつぶると、蓮先輩の姿が浮かび上がってきた。
「蓮先輩、会いたいな」
「よ、おはよ。呼んだか?」
「……!!!!」
びっくりして声が出なかった。本当にびっくりすると、声って出ないんだなと初めてわかった。
「なんだよ、そんなに顔して。傷つくなあ」
蓮先輩が私の頭をクシャっと撫でた。
「ああ、また、髪の毛、ぐちゃぐちゃにした」
「失敬な。撫でただけだろ?」
「せっかくきれいにしたのに」
わざと唇を尖らせると、先輩が手で髪の毛を梳かし始めた。
「俺、陽葵の、陽葵の髪の毛が好きなんだ。つるつるしていて、サラサラしていて、触りたくなる」
優しく、ゆっくりと蓮先輩は手で私の髪の毛を梳かす。
先輩の体温や息遣いを後ろで感じ、私の心臓はすごくドキドキして止まらない。
「はい、きれいになった」
「ありがとうございます」
私が笑うと、蓮先輩も笑顔になった。
「陽葵の髪はストレートでいいな」
「そうですか? 私は蓮先輩みたいに茶色っぽくて、ふわふわがいいな」
「ううん、陽葵はそのままの髪の毛がいい。誰にも触らせないで」
蓮先輩が力いっぱい主張する。
私たちの間に甘い濃い空気が流れる。
「あ、この楽譜は?」
蓮先輩が慌てて聞いてきた。
「これはドビュッシーの喜びの島の楽譜です。ずっと前にコンクールで弾いて、審査員に酷評された曲です。イ長調で、4分の4拍子。愛の喜びを表現していると言われていて……。つまり、とても難しいわけです」
私が一気に説明すると
「じゃ、弾いて? 聞いているから」
「ううう。はい」
そう言われると思った。
私は呼吸を整え、頭を切り替えた。
*
朝の練習の後、教室に帰る。朝のホールルームの前は、お喋りや情報交換でにぎやかだ。
「おはよ、陽葵ちゃん」
真希ちゃんと若菜ちゃんはタオルを首にかけて汗を拭いているけど、今日も元気そう。
「おはよう。やっぱり朝練?」
「陸上部に休みはないよ。朝からいっぱい走った。もう、お腹空いたよ」
真希ちゃんが訴える。
「きょう、朝も陽葵ちゃん、練習していたね?」
「ああ、うん」
ピアノの音が外に聞こえていたようだ。
「高い音がいっぱい聞こえたよ、綺麗だった」
「なんとなく、しっとりとした曲って感じ? 聞いていて気持ちよかったよ」
真希ちゃんと若菜ちゃんが感想を言ってくれた。
「うん、喜びの島っていう曲なの」
「おおお。喜びの島! たしかにいい雰囲気の曲だった」
「また、聞きたいな」
真希ちゃんがつぶやいた。
「ほんと? うれしい」
「うん、私も聞きたいよ!」
若菜ちゃんも笑顔だ。
「よかった。嬉しい」
自分の演奏が受け入れてもらえた。心地よいと言ってもらえた。私は安堵した。
「素敵な、綺麗な曲だよね」
「ねえ、恋とか、愛とか感じた?」
思い切って聞いてみる。
「うーん、練習しながらだったから、そこまでは、ちょっとわからなかったなあ」
真希ちゃんと若菜ちゃんが首をかしげる。
ありがとう。正直な感想を言ってくれて。まだまだかぁ。修行が足りないわ。恋の表現って難しい。よくみんなが言う、胸が熱くなって、目が離せないという感じをどうだせばいいんだろうか。
恋ってどんなものなんだろうか。蓮先輩のこと……? それとも桜のランナーさんのこと? 
ふと湧き上がる疑問。
でも、私の中では、ゆっくりと二人の影が重なっていく。桜のランナーさんも、蓮先輩もいつも笑ってほしいと思う。
それから蓮先輩を感じたい。隣にいてほしいと願う。いつも私のそばにいてほしい。好き。
私の恋の気持ちって、こういうこと。たぶん。
「今朝のピアノって、杉浦が弾いていたの?」
隣に座っている男子生徒が話しかけてきた。
「そうそう、陽葵ちゃんが弾いていたんだって」
若菜ちゃんが説明する。
「杉浦、ピアノ、すごいうまいな。綺麗で楽しそうだった」
「はずかしい、聞こえていたんだ」
思わぬ観客に私は頭を抱えた。ピアノの音って、本当に響くのね。
「いや、たまたま、たまたま聞こえただけだから」
私の動揺を見て、隣の席の男子が一生懸命フォローしてくれた。
ああ、私、初めてかも。クラスの男子としゃべったのって……。
真希ちゃんや若菜ちゃんのおかげで友達が増えたよ。ありがとう。でも、ピアノを聞かれていて恥ずかしい。
「陽葵ちゃん、顔が赤いよ」
真希ちゃんが苦笑いする。
「田上君、どんまーい」
若菜ちゃんがケラケラ笑った。
隣の席の男子は田上君っていうんだ。覚えておこう。
「今後とも、隣の席同士、仲良くしてください」
ぺこりとお辞儀をする。
「こちらこそ、よろしく。杉浦さん」
田上君は明るい声でうなずいた。
*
「文化祭のステージにて発表したい人、グループおよび部活動は、昼休みに生徒会室に集まってください。発表の希望が多い場合は、抽選になります」
2時間目の授業の後、放送が入った。
蓮先輩、どうするのかな。本当に弾くのかしら。
おもわず眉根を寄せてしまう。
「オケ部って、文化祭に何かするの?」
若菜ちゃんが聞いてきた。
真希ちゃんも私の顔を見る。
「ええ? 聞いてないけど。秋に定期演奏があるくらいって言っていたよ」
「そうなんだ。文化祭とか、オケ部って出そうだなと思ったけど」
「たしかに、そうかも。でも、今のところ、私は話を聞いてないよ。陸上部は? 何かするの」
「ひたすら走るという、リレーをすると言っていた」
真希ちゃんがどーんと下を向いた。真希ちゃんの表情は暗い。
「え?」
どういうこと? 文化祭中、ずっと走るの? まさかだよね?
驚いて瞬きをしていたら、若菜ちゃんが苦笑いする。
「苦行、苦行だよ」
「ほんとに、ずっと走るの?」
「うん。部員全員が交代交代で、駅伝っぽい感じで走り続けるの」
若菜ちゃんが説明してくれた。
「うわ、それはきつそう」
「高跳びの選手も走るんだよ。おかしいよね」
若菜ちゃんは「オーマイガー!」と両手を上げて天を仰いだ。
「えええ?」
「何とか阻止しないと。高跳びが走るの反対! まったく悪しき伝統だわ」
若菜ちゃんと真希ちゃんの鼻息は荒い。
「文化祭の、陸上部伝統の、地獄のフルマラソンだな」
廊下が騒がしいので、ちらっと視線を向けると、女子たちのギャラリーが並んでいる。
蓮先輩がやってきた。
「伝統なんですねえ。若菜ちゃんと真希ちゃん、もう決まったことみたいだよ? 頑張ってね」
若菜ちゃんと真希ちゃんは苦笑いだ。
あれ? 蓮先輩が授業の休み時間にうちのクラスに来るなんて、珍しい。どうしたのかな。
「あのさ、俺、文化祭で校歌弾きたいからさ。つまり、ピアノを一緒によろしくってことで」
「もちろんです。わかってます。がんばりましょう」
たしかに蓮先輩の校歌はだんだんうまくなってきているし、たぶん文化祭で弾くことはできるんじゃないかな。私に念押ししなくても、そのつもりだし、大丈夫だと思うけど。
私は不思議そうに蓮先輩を見た。
「それだけ言いたくってさ。陽葵、本当によろしくね。じゃ、オレ、昼休みに生徒会室へ行ってくるわ」
蓮先輩は私の隣の席をちらりと見ながら、あわてて事情を説明する。
どうやら私に文化祭は絶対出るからと言いに来たようだ。
「はい、はい、行ってらっしゃい」
苦笑いしながら答えると、蓮先輩は「授業が始まるから、じゃあね」と急いでドアへ向かう。
そんなに校歌を文化祭で弾きたいんだなあ。蓮先輩、えらい。もっと上手に弾けるように応援してあげよう。
先輩の背中を見送る。
「ねえ、杉浦さんも文化祭出るの?」
田上君が聞いてくる。
廊下を歩き始めていた蓮先輩がくるりと振り返って、私に手を振った。私は小さく手を振り返す。
「どうかな。先輩だけステージで弾くっていうのもねえ。やっぱり私も付き添いで出ることになるのかな。楽譜をめくったりしないといけないだろうし」
正直言うと、そこまで考えていなかった。でも、蓮先輩の右手だけで文化祭ステージ演奏って、危険かな、やっぱり。練習して間もないもんね。緊張して弾けなくなってしまったら大変だし。付き添うかなあ。
「ねえねえ、じゃあ、陽葵ちゃんも文化祭に出るってことだね?」
若菜ちゃんが「ふふふ」と笑った。
「え?」
「だって、さっき許可とりにきたよね? 蓮先輩」
「あれ、ピアノの練習、これからもよろしくねっていう意味じゃないの?」
慌てて答える。
蓮先輩のセリフを思い返してみる。
若菜ちゃんがいうような解釈もできるけど。
「うん、だから、ピアノの指導と文化祭の演奏一緒によろしくね、じゃない?」
「えええ? まさか」
真希ちゃんが丁寧に解説してくれた。
そ、そうなの?
嫌な予感がするが、もうすぐあと二、三分でチャイムが鳴るだろう。今から蓮先輩を追いかけるのは無理だ。
そうなると、やっぱり、私も弾くんだよね。弾けないわけではないけれど。
「私たちも見に行くからね! 頑張って」
「俺も見に行くよ」
田上君も面白そうにしている。
クラスメートから激励をもらってしまった。
三限目、四限目の授業を終え、浮かない顔をしていたら、
「いっそのこと、崎山先輩に確認してきたら?」
真希ちゃんが提案した。
「そうだよ、私も弾くんですかって」
若菜ちゃんも笑いながら、後押しする。
「崎山先輩は、昼休みに生徒会室に行くでしょ。昼休みになったら急いで先輩のクラスに行って、いなかったら生徒会室を見てきたら?」
「うん、そうだね。蓮先輩をみつけて、聞いてみる」
文化祭のステージに私も出るんだろうか。やばい。これは由々しき問題だ。弾けないわけじゃないけれど、今ステージで弾きたいとは思わない。弾きたいといっている蓮先輩のサポートならしたいけどね。
昼休みに入ってすぐに私はクラスを飛び出した。三年生のクラスは二階で、私たちのクラスの下にある。二年生の雰囲気とは違う、三年生の廊下を歩きはじめると、三年生女子の視線がチクチクと刺さってくる。
「あの子じゃない?」
「蓮君につきまとっている子」
廊下でおしゃべりしていた女子に嫌味を言われた。
怖い……。蓮先輩のファンがここにもいる。
「何? 誰に用事?」
蓮先輩のクラスをドアのところで覗いていると、ニコニコしながら三年生の男子が話しかけてきた。
「お、二年生じゃん。ああ、杉浦さん、やっぱり可愛いね」
三年生男子が集まってきた。
ううう。みんなの視線が怖い。寄ってこないでください。
「あの、蓮先輩は……」
「崎山は……、いないみたいだな。もう生徒会室に行ったのかもな」
最初に声をかけてきた男子が教えてくれた。
「ちょっとキレイだからって、生意気だよね」
「ピアノ弾けるのがそんなにえらいの?」
「蓮君、優しいから。迷惑だって言えないんじゃない?」
教室の後ろで集まっていた三年生女子たちの言葉が耳に飛び込んでくる。
どうしよう。やだなぁ。
アウェイ感がいっぱいで、ここから早く消えたい。
「ねえ、杉浦さんってさ、崎山と付き合ってるの?」
「え?」
突然、「付き合ってる?」と聞かれて、私はなんて答えていいかわからなかった。付き合っていませんと答えようとしたけれど、声が出ない。
「いや、崎山とどうなのかなって」
男子生徒の一人が距離を詰めて聞いてくる。
ちょっと怖い。やだなあ。近寄らないで。
戸惑っていると
「二年生のピアノの子だろ、美人じゃん」
「ああ、ピアノの子か」
さらに男子に囲まれてしまった。身動きが取れず、近くにいる三年生の女子生徒に「助けて」と視線を送るが、ふいと逸らされる。
もう、どうしよう。だれか助けて。
泣きたくなってきた。
「男子が騒いでると思ったら、うちの部員になにするの! ちょっと、陽葵ちゃんがおびえてるでしょ。離れて離れて」
ヴィオラグループの三年生女子が私を見つけてくれた。
ううう。救ってくれて、ありがとうございます。
私は半べそ気味だ。
「べつに、俺、何もしてないし」
男子生徒たちが面白くなさそうにする。
「あんたら、黒い集団が女の子一人囲むだけで、怖いって」
「ほら、あっちいって」
フルートの先輩が私に「大丈夫?」と声をかけた。
「ひどいな。彼氏がいるのか聞いただけなのに」
男子生徒たちはぶつぶつ言いながら、散っていった。
「陽葵ちゃん、どうしたの? 崎山に用事? あの男子たちに何か言われた?」
バイオリンの、コンサートマスターの先輩(コンミス)が泣きだしそうな私を心配そうにみている。
「大丈夫です。ただ三年生の男子に囲まれてしまって、驚いてしまって」
「崎山も有名だけど、陽葵ちゃんも有名だからねえ。うちのクラス、陽葵ちゃんファンも多いんだよ」
「えええ? そんなことないですよ」
有名? そんなふうに考えたこともなくって、びっくり。涙も引っ込んだ。友達も最近できたばかりなのに。
「ピアノグループだしねえ。川中と近藤の可愛がってる後輩だし。崎山がいま陽葵ちゃんからピアノを教わってるからね。災難だったね」
先輩たちが三年生の廊下を一緒に歩いてくれた。
それでも私に向かって、鋭い視線を突き刺す三年生の女子たちもいるわけで……。もし一人で歩いていたら、きつかったと思う。
オケ部の優しい先輩たちに感謝した。
「ねえ。この子、崎山蓮のなに? どういう関係?」
一人の女子生徒が、いきなり私の前に仁王立ちする。ボブカットの、少しきつめだが美人だ。友達らしい子が二人、一歩後ろで見守っている。
今日は厄日なんだろうか。トホホ。
突然のことで、オケ部の先輩たちも面食らっている。
「ええ?」
どう答えたららいいのだろう。ただ、ピアノを教えているだけの関係だ。あの濃密な甘い時間をのぞけば。
「ちょっと、崎山のことが好きだからって、うちの後輩にあたらないでくれる?」
近藤先輩が廊下から走ってきた。
近藤先輩は背が低いのに、素早かった。
どうしよう。このきつめの美人さん、怖い。そして、胸にドロッとしたものが生まれる。この人、蓮先輩とどういう関係なんだろう。
この人も蓮先輩のことが好きなの?
彼女なんだろうか。だから怒っているの?
それとも、元カノとか?
オケ部女子四人対三年生女子三人になり、かなり緊迫した状態だ。
「ど、どういう意味よ。あたしが崎山のことが好きって。誰もそんなこと言ってないじゃない」
女子生徒たちが後ろに引いた。
近藤先輩、強い。
「好きだから、陽葵にけん制してるんでしょ」
「けん制とか、べつに。いじめとかしてないし。ただ、崎山蓮との関係を聞いただけでしょ」
「ふーん、ずいぶん嫌な言い方だったよね」
近藤先輩は女子生徒を睨んだ。
「おい、何、もめてるんだ?」
川中先輩が近藤先輩の後ろに立つ。
「三年男子と、三年女子の崎山ファンが陽葵ちゃんに絡んでいたから、現在救出中なの」
「なんだ、そりゃ? どういうことだ」
川中先輩は指でメガネを押し上げ、ジロッと睨みつける。女子たちは固まり、私のすこし後ろにいた男子たちは気まずそうに顔をそむけた。
「杉浦、崎山なら生徒会室行ったぞ。早く行け」
「はい、ありがとうございます」
川中先輩が私をみた。
三年女子のグループはいつのまにかいなくなっていた。川中先輩がブチ切れると怖いらしい。
「この子は何もしてないでしょ。もう、ちょっかい、ださないでね。聞くなら崎山に聞きなさいよ!」
ちらっと振り返った女子生徒に、近藤先輩がダメ押しの声をかける。
「なあ、川中。いいところにきた。杉浦さん、紹介してくれよ」
「杉浦さん、かわいい。ちょっとだけでいいからさ、縁を繋いでよ」
男子たちは、今度、川中先輩を囲み始めた。
「うわ、男子、最悪。もう、陽葵ちゃん、いこ! 大翔、音楽室、行くね」
「ああ、わかった」
川中先輩が顔を引きつらせながら返事をした。
近藤先輩と、コンミスの田中先輩、ヴィオラの先輩たちと一緒に音楽室に移動する。
大騒ぎになってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「すいません、ご迷惑をかけて。助けてくださって、ありがとうございます」
私は小さい声で、お礼とお詫びをする。
「大変だったね、陽葵ちゃん」
「崎山も目立つし、モテるしね。陽葵ちゃんも可愛いから。ちょっかい出して来たら、言ってね。文句言いに行くから」
近藤先輩の鼻息が荒い。近藤先輩は怒っても小動物みたいで可愛かった。
「そんなことないです。私、かわいいとか言われたことないですし」
「ありゃ、無自覚?」
近藤先輩がニヤッと笑った。
「こんなに美人でかわいいのに? 崎山は、ほめないのか?」
コンミスの田中先輩もニヤニヤしながら、私の髪の毛を触る。
「すごーい、サラサラ、つやつやだね」
田中先輩がほめてくれた。一度癖がつくとなかなか直らない、ただただまっすぐの髪の毛だが、単純に褒められるとうれしくなる。
第二音楽室は、昼の練習がなかったから、きょうは静かだ。
「ねえ、髪の毛、いじってもいい?」
「うわ、ツルンツルン。手触りがいいわ」
近藤先輩がうらやましそうに言う。
「ねえねえ、陽葵ちゃん? せっかくだから、ちょっとだけ、リップしようよ」
先輩二人に聞かれ、「ええ? ああ、はい」と答える。田中先輩はスカートのポケットからリップクリームを取り出した。
「はい、できた!」
「かわいい~」
先輩たちは頬に両手をくつける仕草をして、わざと身悶えしている。
唇がプルプルに見えるリップクリームなんだそうで……。
あとで、鏡を見てこよう。
「そ、そうですか? あ、ありがとうございます」
自分の唇がどうなったのか、ちょっと気になるけれど、あと3分ほどで5限目が始まるところだった。
「ほら、陽葵ちゃん、そろそろいくよ」
先輩二人に促され、わたしは慌てて走り始めた。
なんとか間に合うように、私たちはバタバタ廊下を走る。
すいません。もう走らないから今日だけは許してください。
心の中で詫びながら、先輩たちと別れ、2年生の廊下も走ることになった。
視線が痛い。ごめんなさーい。
なんとか授業前に教室に滑り込む。
「遅かったねえ、先輩に会えた?」
若菜ちゃんが心配そうに手を振る。
「間に合ってよかった、よかった。あれ? 陽葵ちゃん、なんか変わった? なんだか可愛いよ?」
真希ちゃんがつぶやくと、みんなが一斉に振り向く。
「そ、そんなことないよ」
真希ちゃん、言い過ぎ! 可愛いとかないから。恥ずかしすぎる。
顔に血が上るのを感じ、うつむきながら、そっと自分の席に戻る。
顔が熱い。顔が熱い。もう、真希ちゃんたら……。
若菜ちゃんと真希ちゃんに5限目の休み時間、リップの話で盛り上がり……、放課後。
練習のために蓮先輩が来た。
「陽葵~、迎えに来た。陽葵〜」
蓮先輩が廊下で私を呼ぶ。
もう、名前を連呼しないでください。恥ずかしいでしょ。オケ部に入ってからなんだか気持ちのアップダウンが大きい気がする。
「あ、はい!」
慌てて返事をして、廊下にでる。
「何それ、かわいいんだけど」
蓮先輩がニヤニヤして、腕組みをしていた。
「お疲れ! じゃあな、杉浦。部活がんばって」
田上君がすれ違いざまに挨拶していく。
「うん、またね」
私は手を振った。
蓮先輩はじーっと私を見ている。
「なんですか?」
蓮先輩の圧に耐えかねて、聞いてみた。
「あれ、誰?」
「田上君です。隣の席の」
「ふーん」
蓮先輩は面白くなさそう。
「ねえ、この可愛い姿を見せたの? 田上とか、みんなに?」
信じられないとばかりに蓮先輩がため息をつく。
「はあ、昼休みに近藤先輩とコンミスの田中先輩にやってもらったので……、少なくとも、うちのクラスのみんなは見ていると思うけど」
「うーん、もう近藤にやってもらっちゃだめだよ。注意しておこう」
蓮先輩は真剣につぶやいている。
「え? なんでですか? 私にリップクリームが似合わないってことですか」
ムッとして蓮先輩に抗議する。
ひどーい。蓮先輩にほめてほしかっただけなのに。かわいいって思われたかったのに。
昼休みのあの人。綺麗な人だった。蓮先輩こそ、あの人とどんな関係なの?
蓮先輩に問いただしたいけれど、そんな勇気もない。胸がモヤモヤして苦しい。
「陽葵がますますかわいくなって、誰かにさらわれたら困るから」
「私は、子犬か何かですか? さらわれません」
やれやれ。残念ですが、攫われるほど私はかわいくないですよ?
ちょっとリップを塗っただけなのに。蓮先輩ったら、もしかして、やきもち? まさかね。
でも、蓮先輩が気がついてくれてよかった。うれしい。
思わず頬がゆるんでしまう。
蓮先輩は面白くないみたいで、突然わたしの手をつかみ、引っ張っていく。
ええ? 先輩、何か急いでいる? どうしたの? どこ行くの?
私も慌てて、先輩についていく。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか。生徒会で申し込めなかったとか?」
私が心配そうに聞くと、蓮先輩が苦笑いをする。
「文化祭に申し込めなかったら、それはそれで仕方がないんじゃないですか」とフォローの言葉をかける。
「違うから。そうじゃなくて、みんなに陽葵ちゃんの姿を見せたくなかっただけ。もうリップなんかしちゃダメ」
蓮先輩はため息交じりにうつむく。
えええ? 蓮先輩、喜んでいてくれたと思ったのに。そんなにリップクリーム、嫌いですか? 変ですか?
「そ、そんなにこの姿はダメですか?」
「ううん、そういうんじゃない」
「じゃあ、どうして……?」
なんだか泣けてくる。悲しくなってきた。さっき可愛いって言ってくれたじゃないですか。
「なんで、これ以上可愛くなるんだよ。反則……。バツとして、このままずっと手つなぎな」
蓮先輩のほうが年上なのに、つんつんした言い方をするので、思わず笑ってしまった。
「なんだよ、陽葵。ずいぶん余裕じゃないか」
胸のモヤモヤが消えて、嬉しさがこみ上げる。蓮先輩、気に入ってくれたんだ。嬉しい。
蓮先輩の顔が赤い。つられて、私の顔も一気に赤くなった。蓮先輩につかまれている腕が熱い。
「ぶさいくって言われたんじゃないので、よかったって思ったんです」
「陽葵は可愛いから。ぶさいくとかじゃないから」
蓮先輩が思いっきり首を横に振る。
「わかってる?」
「はいはい。ありがとうございます」
蓮先輩は、とにかくリップクリームは学校では塗るなと言いたいらしい。だから、学校じゃなければ、いいてことだね。
今度、近藤先輩と田中先輩にリップクリーム、どこに売っているか聞いてみよう。
蓮先輩は腕から手を離し、今度は優しく私の手を両手で包んだ。
「先輩?」
「陽葵、三年男子に絡まれたんだって?」
蓮先輩が心配そうに見る。
「大丈夫ですよ、近藤先輩と、田中先輩と、最後に川中先輩が助けてくれましたから」
「くー、一番かっこいい役を川中に盗られるとは。一生の不覚」
蓮先輩は派手に落ち込んで見せ、私をチラ見した。
「蓮先輩も、かっこいいですよ?」
私が言うと、蓮先輩はわかりやすくしゃきっとした。
「今度困ったら、俺を呼ぶように」
「はい」
二人を熱を持った空気が覆う。
私たちはそのまま互いの手を振りほどこうとせず、音楽室へゆっくり歩いた。
ピアノの前に椅子を並べて座る。
「俺、校歌を文化祭で弾くことになった。ちゃんと文化祭でのステージの枠がとれたよ」
「それはよかったですね。がんばってください」
あっさりした私の対応に蓮先輩は寂しそうにずっこけた。
「今年の文化祭のテーマってさ、“初めての挑戦”だろ」
「そうですね。確かに」
「今年のステージに立つ条件ってやつがさ、初めての挑戦なんだって」
「え? それで、ステージの権利をもぎ取ったということですか?」
「うん」
けろりと蓮先輩は返事をした。たしかに初めての挑戦と言えば挑戦なんだろう。
「上手くなってきているとは思いますけど、まだ、全部弾けてないですよね? でも、ステージに立つんですよね?」
「うん、これから陽葵ちゃんとみっちり練習するし。よろしくね」
「ははは」
私は苦笑いする。
大丈夫だろうか。蓮先輩は確かに一生懸命練習し、たぶん校歌は全部弾けるようになると思うけど、ステージを独占してまでの演奏かどうか……。右手だけではちょっとお粗末だから、左手も簡単に入れられるといいかな。左手と右手、合わせられるだろうか。不安が胸を横切る。
いやいや、やろうと思っている人に水を差しちゃいけない。信じないと。蓮先輩は練習熱心だし、きっと両手で弾けるくらいにはなるだろう。
と、思い直していたら、ガヤガヤ声が聞こえてきた。
オケ部のみんなが集まって来たみたい。
「お、崎山! 文化祭の枠とれてよかったな!」
トランペットの先輩が第二音楽室に顔を見せ、声をかけた。
「陽葵ちゃん、崎山と校歌よろしくね」
「杉浦、蓮と一緒に弾いてくれ。ぜったいにステージがもたない」
オケ部の先輩たちが私を拝んでくる。
「えええ! やっぱり、私も弾くんですか?」
蓮先輩と一緒にステージで弾く。そうなりますよね。譜面のページをめくる人ではないらしい。
「蓮一人じゃ、不安だと思わないのかね?」
オケ部の先輩たちが私に注目する。
「……そう、そうですね」
私の目が泳いだ。
「実は、オレも、ふ・あ・ん」
蓮先輩が言い出したことなのに、「オレも」ってないと思うんだけど。蓮先輩に捨てられた子犬のような目でキラキラと見つめられ、私は大きくため息をついた。
「おまえは、はやく練習しろ! 夜も寝ないで弾け!」
「ひどい。やってやる。おまえら、見とけよ」
みんなに突っ込まれ、先輩は悔しそうにわざと廊下へ飛び出した。
蓮先輩が一人両手で、譜面どおり校歌を弾く……、のは、今からでは間に合わないだろう。両手でゆっくり簡単にした譜面なら、いけるかもしれない。なんだか、はめられた気がしないでもない。でも、今更か。
うちの校歌は五番まであるが、よく歌われるのは一番の歌詞。
“桜舞う山崎川”
“麗しきほとりで”
“仰ぎ見る若き希望”
“ああ、その気高さを、常に持て”
“集え、学べ、わが友よ”
“いざ行かん 我が母校”
理由は、春の山崎川の様子が目に浮かんで歌いやすいから。あの、ランナーさんは、今も走っているのかな。
おもわず蓮先輩が走っているのを想像してしまう。
私はブンブンと頭を振った。
先輩と、彼は、別の人……のはず。
「崎山、来てる?」
川中先輩が第二音楽室に顔を出した。
「いるよ」
グループ練習が始まって、蓮先輩がそっと戻ってきた。苦笑しながら、蓮先輩の方を見ると、蓮先輩もいたずらっ子そうな顔で笑っていた。
川中先輩に応えるように蓮先輩はピアノの影から手を振る。
「文化祭、決まってよかったな!」
「ああ、枠がとれたぜ」
蓮先輩が嬉しそうに話す。
「これ、タイラッチから」
「え?」
蓮先輩が紙をもらう。
「校歌だそうだ」
「えええ? 校歌? なぜ同じ曲?」
「タイラッチが言っていたぞ。崎山に期待しようって」
川中先輩は「がんばれよ」と言って、去っていく。
第一音楽室から歓声が聞こえた。あっちでも何か川中先輩が通告したらしい。
「陽葵、どうしよう。新しい楽譜きた」
「どうしたんですか? 新しい楽譜ですか?」
蓮先輩の顔が若干青い。なぜ蓮先輩に新しい楽譜が?
「これ、校歌の楽譜だって」
渡されたものを見ると、蓮先輩用に右手のみの楽譜と、連弾できるようにアレンジされた楽譜がある。ということは、こっちは私ってこと? 上の部分には杉浦と名前が丁寧に書いてある。
さらに、このリズムはロック。ロックバージョンも追加されていた。
譜面を見ると、そんなに難しくはなさそうだけど、蓮先輩にはちょっぴりきついかな。でも練習熱心だし、右手のみになっているから、蓮先輩でも間に合うとも思う。
「そんなにビビらなくても、大丈夫ですよ。蓮先輩なら弾けますから」
私がにこりと笑って見せると、蓮先輩はふうとため息をついた。
風が少し入ってくるのは、教室のどこかの窓が開いているからだろうか。
譜面がふわりと捲れそうになる。
「だめだ。俺には弾けない。難しそうだ。小さい音符がいっぱいすぎる」
蓮先輩が私を上目遣いで見つめる。
「先輩、ダメですよ、やらないと」
「だって、指が動かない」
「そんなことないですって、ゆっくりやってみましょう? 基本の校歌はほとんどできていますから。基本の校歌の楽譜はここに書いてありますよ。ほら、心配ないでしょ?」
基本形の校歌を弾いて、それからロックバージョンの楽譜をゆっくりと一緒に弾く。
「できた!」
蓮先輩は笑顔になった。よかった。自信をもってくれて。
「はい、では、もう少し早く弾いてみましょうか」
私が伴奏を始めると、伝播したのか、隣の教室から管楽器が2番の校歌からいっしょに弾いてくれた。蓮先輩も右手だけ鍵盤を睨みながら弾く。
教室の壁ごしだが、みんなで一つになって弾くのがこんなに感動的とは思わなかった。
蓮先輩は私の方を大きな笑顔でみた。
「俺、ちゃんと弾けた! みんなと合わせられたよ」
「これはおもしろいな。いいかもしれない」
川中先輩は顎に手を当てる。
川中先輩の提案で、毎回、部活の解散の前に校歌をみんなで合わせることになった。
タイラッチの編曲校歌、恐るべし。

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