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初めから君に恋してる六

六 校歌を弾きたい
先輩とのレッスンが始まって三週間。
私の小指のギブスも取れて、手が軽くなった。
汗かく季節の前に、治療が終わってよかったと思う。ギブスって、風通しがわるいのだ。指の動きは快調ですよ!
今日は運よく、講堂のピアノを三十分だけ弦楽グループから借りることができた。文化祭で蓮先輩が校歌を弾くので、蓮先輩にグランドピアノに少しずつ慣れて欲しいと思ったのだ。
弦楽グループはパート会議があるから練習が遅れるみたい。
講堂の扉をあけると、扉の音も自分たちの足音も、全ての音を吸い込む感じがした。赤い絨毯がステージまで続いている。
電気をつけると、ステージにスポットライトが当たった。
ステージは、まるで誰かを、音楽を待っているかのようだった。
コンクールの審査員に「心で音楽を奏でていない」と言われてから、いつか私の音楽は偽物だって指摘されるじゃないか、と不安に思っていたことを思い出す。
蓮先輩は無邪気にステージへ上がっていくが、私はステージへ上がる階段の前で足が進まなくなった。いやだと思ってしまった。
情けないことに、蓮先輩にはグランドピアノに慣れて欲しいのに、私の方がステージでグランドピアノを弾くのが怖くなっていた。
先輩は丁寧にピアノのカバーを開けて、楽しそうに鍵盤を鳴らし始めた。時々リズムは狂うが、ピアノは先輩の楽しい気持ちを映し出すかのように弾む音をだす。
蓮先輩の校歌は、校歌なのにウキウキして聞こえるのはすごいと思う。私なら、多分、楽譜通りきれいに弾くだけ。きっと印象に残らない。
「あれ? 陽葵? どうしたの?」
蓮先輩が私を探す。
「ほら、陽葵も上がってきて、一緒に弾いて」
蓮先輩がステージから呼ぶ。
「ええ……。やっぱり私、ステージに行きたくない」
尻ごみをしていると蓮先輩が階段のところまで来て、私に手を差し出した。
「せっかくのグランドピアノがもったないんだろう? 陽葵、一緒に弾いてよ」
蓮先輩が口を尖らせた。
「まあ、そうですけど。でも……」
「陽葵が弾いてくれないと、俺の校歌は破滅する」
蓮先輩が捨てられた子犬のような目で私を見つめる。
大げさですって。先輩の、ちゃんとメロディで、校歌ってわかります、と言いたかったが、言っても納得しないだろう。
「ほら早く!」
蓮先輩は躊躇する私の手を引っ張った。
「ね、一緒に弾こう?」
「……」
私はしかめっ面をする。
正直いうと、ステージに立ちたくなかった。もうちょっと自分の方向性というか、音を見つけてからステージに向かいたかった。私には早すぎる気がした。
「お願い! 陽葵」
蓮先輩の、お腹を空かした子犬のような催促は、地味に私の心に刺さる。ご飯を待っている子犬のパタパタと激しく振るしっぽを思い出してほしい。
全く、私ったら、蓮先輩には抵抗できない。
私は小さなため息をついた。
「少しだけですよ。蓮先輩のためにピアノ借りたんですから」
「でも、講堂のピアノがもったいないだろ? 陽葵が隣にいると、勇気がが出るんだよ。一緒に弾いてよ」
蓮先輩の素直な言葉に、思わず顔が赤くなってしまった。
「校歌もいいけどさ、ほら、あれ、弾いてよ」
「ええ? 私が弾いたら意味がないじゃないですか。蓮先輩のために借りたんですよ?」
呆れて蓮先輩を見る。
「だって、校歌だけじゃ、時間が余るだろ?」
蓮先輩は、してやったりという顔をした。
たしかに校歌を何回か弾いても、十分間くらい余るかも。でも、その分、ここで練習すればいいと思うんだけど。
「ね? お願い! 陽葵のピアノが聴きたい」
そんな、可愛らしい顔をしても、無駄ですよ? 
蓮先輩は私をじーっと見る。
蓮先輩はやっぱり可愛い。そして、カッコいい。もう、こっち見つめないで。ああ、もう。わかりました。
「……、じゃ、いつも弾いてるのではなく、ラフマニノフの熊蜂の飛行でいいですか?」
きっと先輩は気に入るんじゃないかなと思って、密かに家で練習しておいた曲だ。
「え? くまんばち?」
「面白いですよ、聞いたことありませんか? でも、終わったら、校歌をみっちり練習しますからね?」
ピアノの前で呼吸を整えて、鍵盤に指をゆっくりと落とす。蓮先輩の好奇心と期待の熱い視線を感じる。
大きく息を吸い、私は弾き始めた。
「はやっ! 10本しかない指がよく動くねえ。蜂の音に聞こえる! 陽葵、本当にすごい。心臓に、身体中に低い音が響いたよ。ピアノの曲っていろいろあるんだな」
蓮先輩が目を輝かせた。
「よかった、先輩がピアノを好きになってくれそうで」
私はピアノの椅子から立ち上がろうとすると、先輩が私の手を軽くつかんだ。
「じゃあ、今度、スローな曲も聞きたいな」
「え?」
蓮先輩の言葉に、思わず顔をしかめる。
「スローで、切ない系ってやつ? ピアノで恋の曲とかないの?」
「弾けません……、そういうの、苦手なんです」
「え? そうなの?」
蓮先輩が食い下がる。
「でも、陽葵のピアノ、もっと聞きたいな」
「もう、ほんとうに弾けませんから!」
「あああ、陽葵ちゃんが怒った」
蓮先輩がちゃかすように、私の顔を見る。優しい目が私の顔色を窺っている。
「怒ってません」
「怒ってる。陽葵の口がこんなふうになってるもん」
蓮先輩が口をへの字にして見せた。
「怒ってなんかいません。本当に弾けないんです」
「そんなに上手いのに?」
私の言葉に蓮先輩は怪訝な表情を浮かべた。
「近藤先輩みたいに弾きたいのに……、弾けないんです」
「でも、陽葵は陽葵だろ?」
「そうですけど」
戸惑いながら答える。
「じゃあ、近藤の真似なんかしなくていいじゃん」
「真似とかじゃなくて、あんな風に弾きたいんです。あんな風じゃないとだめなんです」
苦しい胸の内を打ち明ける。こんな話、蓮先輩にしたくなかったのに。
「近藤のように弾けって誰が決めたの?」
蓮先輩が切り返してきた。
「え?」
私は、答えられなかった。
「陽葵が勝手に決めつけているだけじゃないの?」
「……」
私は答えられなかった。
「俺は陽葵の弾いている音から勇気をもらったよ。陽葵の音楽が好きだよ、大好きだ」
「……嘘」
「嘘じゃない。陽葵が何度も何度も繰り返し練習していた曲を聞いて、俺も前を向こうって決めたんだ」
「どうして、そんなこというの? もう、信じられない」
涙がこぼれそうになり、私はギュッと目を閉じた。
「陽葵の音は、陽葵のもの。陽葵が育てているものだよ。陽葵が弾き続ける限り、陽葵の音は成長していく。僕はそこから勇気をもらうんだ」
蓮先輩の言葉にこっちの方が照れ臭くなる。どう答えていいのかわからない。
「よくもそんな恥ずかしいこと言えますね。もっと心を開いて向き合えって審査員に言われたんです。近藤先輩の弾き方って、そんな感じがするじゃないですか」
「だって、本当だから。俺は、陽葵の、恋の曲が聞きたい。審査員や近藤なんて関係ない。陽葵が弾くならそれでいい」
先輩は私の顔を覗き込む。
時間が止まったように感じる。
先輩の顔が近い。先輩の柔らかな髪が私の頬に触る。
蓮先輩はニコニコと笑顔を浮かべなから、私から視線を外さない。
先輩に、先輩の顔に触りたい。手を伸ばして、先輩に触りたい。はっと自分の中の欲望に気がつく。
先輩の呼吸が聞こえた。
先輩の、細長く骨ばっている指が綺麗で……。それから、私の隣に座っている、先輩の体温を感じる。
好き。好きです。
私と蓮先輩の間だけが別の空間になっている。
「陽葵」
蓮先輩が私のほうへ手を伸ばそうとする。
私の目は蓮先輩の目しか映らない。
キイーッ。
しんとしている講堂で、ドアが開く音が響いた。
私たちは思わず、ビクンとして離れる。それから互いの顔を見て、恥ずかしそうに笑った。
数人の生徒が講堂に入ってくる足音が聞こえた。
ステージに残る、濃密な空気をかき消そうと、蓮先輩にわざと大きな声で話をする。
「さっきの話ですけど」
「え? なんだっけ」
蓮先輩が考え込む。
「恋の曲です、考えておきます」
「ええ? 今弾いてよ。まだ全員来てないじゃん、弦楽グループ。今ならちょろっと弾けるよ」
蓮先輩が挑発するように上目遣いで見る。蓮先輩の視線にドキッとしてしまう自分がいた。
「ダメです。第二音楽室に帰りますよ」
顔が赤い、耳が熱い。心臓がバクバクする。このままじゃ、ダメ。蓮先輩のせいだ。
「陽葵、また練習しようね?」
「はい」
私はうなずく。
楽譜を片付ける先輩の後ろ姿を見つめていると、先輩の耳も赤い。
「おう、ピアノグループまだいるじゃん!」
「帰らないで。いっしょに校歌弾こうよ」
弦楽グループの先輩が声をかけてくれた。
「俺の校歌についてこれるかな」
ステージから蓮先輩がふざけた。
弦楽グループの先輩たちは鼻で笑って、「初心者のフォローは任しとけ」とあっさり流す。
さすが、三年生同士。蓮先輩の扱いには慣れているようだ。
「いいんですか? よろしくお願いします」
監督者として、弦楽グループに一礼した。
蓮先輩のために、一緒に弾いてくれるとは。オケ部のみんなは、本当に優しい。じんわりと心が温かくなった。
「陽葵、俺、まだ全然弾けないよ。どうしよう」
蓮先輩が困った顔で呟く。この期に及んで、蓮先輩が気弱なことを言い始めた。さっきの大見得はなんだったのか。
「大丈夫ですよ。蓮先輩の音なんか、みんなの音にかき消されちゃいますから」
「えええ! ちょっと、陽葵ちゃんひどいこというね」
蓮先輩が唇を尖らせる。
「だから遠慮なく間違ってもいいので、堂々と弾いてください」
「ううう。まあ、間違うけど」
蓮先輩はちょっぴりすねてる。
なんやかんや言って、先輩こそ、まっすぐで、努力家じゃないですか。大丈夫です。弦楽器が準備できるまで、蓮先輩はぶつぶつ言いながら、ピアノを弾き始めた。
蓮先輩のことが好き。好きだ。
ライトに照らされ、蓮先輩が浮かびあがって見えた。
楽譜を見直し、一生懸命立ち向かう姿にキュンとする。
「ピアノを弾き始めたばかりじゃ、期待していないからな。崎山、間違えてもいいぞ。それともバイオリンの音を、うんと小さく弾いてやろうか? ピアノが目立つように」
コンサートマスターがにやにや笑った。
「うるさいぞ。俺だって練習してるもんね。聞いてびっくりするなよ」
蓮先輩が虚勢をはる。
弦楽グループの人たちは笑いながら、音出しを始めた。
「本気を出せば、俺だって弾ける。陽葵の弟子だからな」
蓮先輩が胸を張って見せた。
「おおお、その意気だよ。杉浦の弟子、がんばれよ」
チェログループとコントラバスのグループが蓮先輩を揶揄した。
「陽葵ちゃん、がんばって文化祭までに弾けるようにしてあげてね。崎山を見捨てないでね」
「文化祭で頭真っ白になったら、悲惨だぞ。崎山、ちゃんと練習しろよ」
ビオラ奏者の先輩たちにも念押しされる。
「はーい」
先輩たちの心地よいやりとりに苦笑しながら、返事をした。
一方、蓮先輩は頬を膨らませ不満そう。
小さい子みたいで可愛いって、一瞬、思っちゃった。
「陽葵先生、やっぱりもう少し練習しよう! 弦楽と合わせるのは後にする」
「あ、崎山が逃げる」
「逃げるとかじゃないからな! ぜったい違うからな! 俺、第二音楽室、行ってくる。お前ら、待っていろ。もっとうまくなったやる」
蓮先輩が大声で宣言した。
「ああ、はいはい」
「崎山、うるさい。さっさと練習してきなよ。下手なんだから」
「第ニ音楽室、行けよ。あっちで合わせてやるから」
蓮先輩は冷たい応援が浴びせられ、唸っていた。

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