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され妻の夫は宇宙人 四

四 
 スッキリとした青空が広がっているが、冬の朝はやはり寒い。沙耶と恵茉はさっき学校に行ったばかりだ。コートを着て、バタバタと出ていった。明日は沙耶の推薦入試だ。沙耶はすでに緊張しているようだった。
「ピンポーン」
 玄関の呼び鈴が鳴る。
「多分、恵茉か沙耶だから、玄関、ちょっと出て?」
 有給休暇にした太一は、一階の自分の部屋にいるはずだ。気になる仕事があるから、ちょっと仕事してくると言ってこもっている。
「俺、出れない」
 太一が大きな声で二階のリビングに向かって返事が来た。
 忘れ物だろうか。太一が出たほうが早いのに。
「もう!」
 仕方なくあわててワンピースを被り、玄関に出た。
きょうは銀座のデパートに行って、夜中に来たお義母さんへの礼の品を二つ買ってきてくれと太一から頼まれたのだ。おしゃれしようかなと着替えている最中だった。
「恵茉? 沙耶? 忘れ物でもした?」
 玄関を開けると、恵茉でも沙耶でもない。背の高い中年男性が立っていた。
「あの?」
 向こうもインターフォンで会話すると思っていたらしく、面食らっているようだ。ちゃんと服を着ていてよかったと思う。
「あ、私、棚田和樹と申します。朝早くからすいません。宮前太一さんとは知り合いでしてね、間違ってうちのポストに入っていいたので、ついでに持って来たんですよ」
「は、はあ。それはわざわざすいません。ありがとうございます」
 宛名はたしかに太一宛てになっている。
 太一はこの一週間くらいは在宅にすると言っていた。本当に在宅にするとは思わなかったけど。というか、一階の自分の部屋にいるんだけどなあ。本人を呼ぼうかな。
 棚田さんね。棚田……。あれ、誰かに似ているような。誰だっけ。
 カシミヤのコートに黒く光るビジネスシューズ。手首には金色に光る時計。おそらくロレックスなんじゃないかな。そんなゴージャスで洗練されたサラリーマンがご近所にいるの? この辺って隠れセレブとか住む街だっけ? 
 思わず考え込む。
「こちらの封筒をご主人にお渡しくださいますか?」
「はい。わかりました」
「あなたは奥様ですよね?」
 棚田和樹は私をじっと見る。
 棚田さんって、あれ、なんか見たことあるような。私も見つめ返したら、棚田和樹は目をすっと外した。
「ええ、そうですけれど。あの、棚田さんって、千葉県出身じゃないですか」
 服は着ていたが、化粧はしてなかったことに気が付いた。うわ、太一の知り合いだったのか。すっぴんを晒してしまった。なんだか申し訳ない気持ちになる。私だって、化粧すればもう少しマシなんですよ。聞いてないか。
「そうですけれど」
 棚田が不思議そうに顔を上げた。
「奥様、具合の方はいかがですか? すいません、間違って中を読んでしまって」
「もしかして」という私の発言をかき消すかのように棚田は声を張った。
 顔を見ると、棚田の目が少しだけ輝いていた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。少し前に狭心症で入院していたんです。医者にはしばらく無理をしないように言われております。でも、今は元気です。お気遣いいただきありがとうございます」
 私はわざと軽く会釈する。
 和樹は顔を引き攣らせた。なんとなくしか私の病気のことを知らなかったようだ。
「お身体、大切にされてください。では、御主人によろしくとお伝えください」
 棚田和樹は小さな笑みを浮かべ帰っていった。
あの顔、やっぱり知っている気がする。たしか大学の同級生にいたはずだ。煙草の匂いがしたような気がしたので、家の周りをみると、やはり吸い殻が落ちていた。誰が家のそばに捨てていくのか。本当に迷惑だ。
「はい、手紙よ。棚田和樹さんって人から。間違えて開けちゃったって」
「え?」
 太一の顔が青ざめる。
「どうしたの? 手紙、これね。私が入院していたこと、知ってたみたい。お大事にだって」
 太一の手は震えていた。
「具合悪いの?」
「この手紙は男の人が持ってきたの? いや、大丈夫、具合は悪くないよ。俺はいないって、誰かが来たら言って」
「中年の背の高い男の人よ。はいはい、太一はいないことにするのね」
 居留守とか変である。でもまあいいか。太一の様子がおかしいけれど、私に絶対話さないと決めているようだし。仕方がない。
「銀座に買い物行ってくるね」
「もう少ししてから行った方がいいかも。ほら、さっきの男がその辺にいるかもしれないし。お茶でも飲んでから行ったら? やっぱり、俺はちょっと出かけてくるから」
 休むように太一に勧められてしまった。
和樹のことを追うのだろうか。
太一に言われたので、ゆっくりコーヒーをわざわざ淹れ、おやつを食べて、化粧もきちんとしてから銀座へ出発した。
 子どもたちは土曜日で半日授業のためまだ帰らない。お義母さんとおそらく従弟の叔父さんへのお菓子を買ったら、お総菜売り場でお昼のおかずでも買って帰ろう。デパ地下、ひさしぶりだわ。
 楽しい気分で地下鉄の改札をくぐる。
あと数分で地下鉄の電車が来る。コーヒータイムをしたから遅くなってしまった。失敗だったかもしれない。
太一の様子が気がかりだ。あの慌てよう、太一は何を隠しているのか。やっぱり聞かないといけないだろう。大きなトラブルになってないといいんだけど。
 思わずため息が出た。
 太一はすぐにキレるからなあ。憂鬱になる。余計なことを聞くな、関係ないってまた怒鳴られるのもいやだから放っておきたいけれど。お義母さんが絡んでいるということは、私が出る幕じゃないんだろう。お義母さんが解決してくれるなら、それがいい。私と子どもたちに何も影響がないなら、家庭は平和だし。
何かみんなで食べるおやつも買おうかな。お腹を空かせて二人とも帰ってくるだろう。ちょっとお値段が高い、美味しいそうなパンでもいいかも。
 銀座へ行く電車は空いていた。ふとスマホを見ると、恵茉と沙耶からメールで連絡が来ていた。
 恵茉はもうすぐ家に帰るらしい。沙耶は学校の帰りに塾に行くとある。塾にある自販機でパンやお菓子でも買って食べるのだろう。
ああ、恵茉と太一の昼ご飯を作らないといけない。デパ地下をうろうろする時間がないじゃない! ああ、残念。少しお昼が遅くなっていいか、聞いてみようかな。
 文字を打っていると、スマホのバイブがなった。
『今すぐ帰ってきて。ごめんなさい。本当にごめんなさい』
 太一のLINEを開封すると、謝罪の言葉があった。あの、謝らない太一が謝っている。何があったのだろう。
『え? 帰ってこいってどういうこと?』
『今電車に乗ったばかりなんだけど』
 思わず連続で二回返信を打つ。
『ごめん。俺、実は脅迫されていて』
「はあ?」
 思わず大きな声が出た。電車の中にいた数人が私の方に視線を向ける。
 ギュッと目を閉じて、息を吸う。
LINEになんて書いてあった? ええ? 脅迫? 恐る恐るスマホの画面を二度見する。
『何かあったら大変だから、今すぐ帰ってきて。弁護士の従兄にも警察にも相談したから。相手の旦那が逆上して何するかわからないし』
 太一から返信が来た。
 帰るしかない。お菓子、買えていないけど。もうすぐ銀座に着くんだけど。ええ? 相手の旦那って何? どういうこと?
 心臓のバクバクいう音を聞こえ、手足から血の気が引く。何があったというのだろう。嫌な予感しかしない。
 とりあえず、帰らないと。
 あわてて反対側の電車に乗り換えた。
『ごめんなさい。上手く書けないのでLINEにしました。実は一年近く不倫をしていました。家庭を壊す気は俺も向こうもなく、本気ではありません。完全に遊びでした。お金は割り勘だったので家のお金はほとんど使ってません。そろそろ別れようか考えていた時でした。相手の旦那にバレたのです。相手の名前は棚田未唯、あすなろ幼稚園の先生です。恵茉が卒園した後に入った先生だから、子どもたちは教わっていません。ただ、恵茉と同じ中学校で、一年生の時同じクラスだった息子がいるそうです。旦那の名前は棚田和樹。不動産会社を経営しています。探偵を雇い、俺をつけたそうです。不倫を奥さんや子どもにばらされたくなかったら一月二十七日までに一億円支払えと脅迫されています。スマホを失くしたと言いましたが、実際は棚田和樹に車に乗せられ、スマホを取り上げられました。その上、一億円支払うと書かれた契約書に判子をつかされました。家族に何するかわかりません。俺は殺されるかもしれません。今朝うちまで来て、唯香に棚田和樹が直接接触してきたので、本気だと思います。だから今すぐ帰ってきて。子どもたちも帰らせてください』
 はあ? 息子って? 棚田? 棚田って、あの棚田だよね。一年生の時、恵茉と同じクラスの棚田と言ったら。まさかね。なんてことだろう。
 うまく息が吸えない。私は目を閉じた。もうスマホを見たくなかった。
 不倫の告白とか、LINEでしてくるな。しかもロングじゃないか! 読みづらいよ。驚き過ぎて涙も出てこない。 
 ああ、なんだか情けない。理解できない。いや、理解はできるんだが、情報量が多い。つっこみどころが多すぎて、何から言えばいいのかわからない。
 太一が不倫していた? 
 なんとなくわかっていたけど、まさかだった。信じたかったのに。信じていたのに。結婚して十五年目にどうして? なぜ?
 車に乗せられ、暴力? ケガはしてなさそうだったけど……。
 契約書? 一億円ってそんな高額、どうするの? 払えるの? 
 棚田未唯って誰よ。その女のどこが好きなの? 私と違うところがあるの? やはりあっちを愛しているのかな。離婚?
 頭の中に離婚がリフレインする。手が震え、胸が圧迫されるようで苦しくてたまらない。耐えられず、思わずホームのベンチに座り込む。
 冷静になれ、私。考えろ。初動が大事だ。
 私は悪くないし、私が不倫したわけではない。
 沙耶と恵茉もいる。第一に子どもたちを守らなければいけない。あ、明日、沙耶の推薦入試だ。まずい。何とかしてあげないよ! 急いで解決しなければ。
 深呼吸すると、少し落ち着いてきた。
 スマホの画面は太一のLINEのままだ。何度見ても不倫の文字がある。夢ではないらしい。受け止めなければいけない。
 まずは子どもたち。沙耶と恵茉を守らなくてはいけない。
そう考えていても、いろいろんな思考が頭の中を錯綜する。
 私のせい? やっぱり入院のせいかな。たった四日間、入院しただけなのに? 手術の前も、後も、私たちは性行為をしていた。
病気のせいで不倫していたというならば、私を抱かないだろう。思考が行きついた時、少しほっとした。
 太一が「傷跡が痛々しい、かわいそうに」と優しく触ったことを思い出す。確かに最近回数が減ってはいたけれど、仕事が忙しいからだと思っていた。
 大丈夫、手術の痕が私を女に見えなくしているとかではない。
 じゃあ、なぜ太一は不倫したの? 不倫するような人だっけ? 付き合っていたころも含め、女性関係でトラブルを起こしたことはなかったはずだ。
 本気だったのかな。あ、LINEには『家庭を壊す気はなかった。本気ではなかった』と書いてある。家庭を壊さないとか、本気でないってどういうことなんだろう。
 棚田和樹に玄関で会ったとき、私に殺意があったわけでも、何か企んでいるかのようには見えなかった。むしろ、言うならば、じっと見ていた意味は、同情? 同類だからか。
 浅い呼吸を数回、それから頬を叩く。
しっかりしないと。明日は沙耶の入試だ。
目を閉じて、呼吸に集中する。不倫した理由を帰り道延々と考えてしまった。
 どケチな太一のことだ。やっぱりお金だろうか。幼稚園の先生だもん、共働きだし。お金を稼いでるもんね。専業主婦、パートお休み中の私より魅力的だったのかな。
「誰のお金を使っているんだ。誰が稼いでやっているんだ」って、今までさんざん言われていたし。
 やっぱりお金かあ。私じゃ不満だったのだろう。本気であっちの女に乗り換えしようとしていたんだな。いや、『家庭は壊さない』とあるし。分からないな。はああ。
 まあ、慰謝料と養育費がちゃんともらえれば、離婚してもいいかな。もう仕方がないもの。 愛がないなら、しがみついても惨めになるだけ。不倫して好きな女と結ばれるんだから、太一は幸せよね。ただ、時期は考えないと。頭が痛いわ。
 スマホを失くしたって、そういうことだったのね。眼鏡ももしかして……。まあ、自業自得だよね。不倫は犯罪だよ。向こうの旦那さん、和樹さんの怒りもわかる。
 私だって、太一と相手の女性に怒りをぶつけたい。いや、よく考えたら面倒だからいいかな。このまま太一と相手の女性が勝手に仲良くやってくれと思わないでもない。
 だいたい、離婚しなかったら、不倫の事実を知ってなお太一を家庭に迎えることになる。できるのか。子どもたちはどう思うのか。
 どうしてこうなったんだろう。何が悪かったんだろう。
太一がまるで知らない人に思えるし、汚いように感じて仕方がない。私と性交渉しながらも棚田未唯と寝ていたんだな。うわ、最悪。自分の中が汚くなった感じがした。
 太一とまた粘液接触をするとか、あり得ない。
 太一が欲しいなら、未唯さんにあげてもいい。向こうも相当なことがない限り、不倫に踏み出せないだろうし。不倫してもいいくらい太一のことが好きだったんだろう。
 ただ、本気でないとは、どういうことか。
太一は気が弱い。だから、嫌なことがあると私や子どもたちに威張り散らすのだ。そんな気が弱い太一は積極的に自分から女性を口説きに行くタイプではない。おそらく未唯さんから好意を見せられて、ヤれそうな演出をされたということだろう。
 遊びで不倫でも離婚する? 離婚しない? どうする?
 不倫をしてモテる自分に酔っていて、私たちのことをきっと馬鹿にしていたんだろうな。楽しすぎて、全く家族のことを考えなかった可能性もある。
 それに太一はバレなければ悪いことをしてもいいと思う傾向がある。きっと未唯と二人で、不倫なんてバレなきゃいいのよと言って、ラブホテルにウキウキしながら行っていたんだろう。絵面が浮かんで吐き気がした。
 LINEをもう一度確認すると、『家庭を壊す気がない』『完全に遊び』と書いてあった。
 遊びなら何をやってもいいのか? 太一の顔を思い浮かべるとげんなりした。
あああああ。どうしよう。
 棚田和樹の衝動もわかる気がした。自分の妻と寝ていたとか、プライドが許せないだろう。太一が痛い目を見ていい気味である。私の代わりにやってくれたように思えた。
 ダメだ。いろんな気持ちが混ざって、思考がまとまらない。
 こめかみがズキズキする。脳みそが処理できなくて、頭に血が上っているのが分かる。
 あ。まずい。
沙耶は学校の帰りに塾に行くって言っていた。沙耶が危ない。復讐するなら、女で弱い私か沙耶、恵茉だろう。
 LINEするも、既読がつかない。緊急だから仕方がない。数回スマホから電話をして、着信履歴を残す。緊急の連絡の合図だ。気が付いた沙耶がすぐに折り返し電話をくれた。
「どうしたの? 急ぎ? 今塾なんだけど」
「沙耶、今すぐ帰れる? パパが不倫した」
「え? えええ? まあ、なんとなくわかっていたけどね」
「で、相手の旦那に一億円要求されているって」
「はああああ?」
 沙耶の大きな声が聞こえた。
「パパね、殺されるって言っているの。それに危ないから沙耶も私も家に帰るようにって連絡が来た」
「ええ? どうしても帰らなきゃだめ? もう授業始まるんだけど」
「ちょっとまずいと思う。パパ、スマホ失くしたって言っていたじゃない? あれって、拉致られて、スマホを取り上げられたらしいの。たぶん、逃げないようにかしら」
「……バカじゃないの?」
 沙耶が呆れた。
「悪いことしたのはパパなんだけど、今朝、うちに手紙を相手の人が届けに来たのよ。で、私や子どもたちも拉致されるかもしれないって思ったみたい。とりあえず帰ってきて」
「わかった」
 沙耶は渋々承諾した。恵茉に連絡すると、恵茉はすでに家に帰っていた。楽しくゲームしているらしい。
『パパも家にいるよ』と恵茉がついでに教えてくれた。
 太一ももう家にいるのか。恵茉の前でどんな顔しているんだろう。不倫がバレて、どうするつもりなのか。太一のことだから、恵茉には話をしていないのかもしれない。私が説明しないといけないなあ。しかし、一億円なんてどうやって支払うのか。見当もつかなかった。
 ちょっと待ってよ。
私はハッと気がついた。
 じゃあ、私も太一と棚田未唯から一億円もらってもいいのかな。離婚したら、私が子どもたちを育てないといけない。それくらいお金がないと心配だもの。
 これだけ状況は拗れている。やはり離婚するしかないだろうなあ。一年も裏切られていたわけだし。
 本気ではない、好きでもない相手と寝ていた太一。私の夫はそんな男だったのか。世の中には好きな女性でないと寝ないという男性もいるのに。太一は違ったみたいだ。
付き合った当初は、私以外の人とは寝ないって言っていたのになあ。君が好きだ。愛しているって言っていたのになあ。どこで太一は変わってしまったのか。
全て割り勘だと主張しているけど。もしかするとラブホ代も割り勘か? 例えば六千円だったとして、半額の三千円でヤれるならヤっとくみたいな? 
 まさかとは思うが、不倫のハードルを乗り越えて、ヤる方がお得って決断しそう。我が夫ながらクズである。太一なら……、あり得る。
 ため息しか出てこない。どうしよう。もうすぐ自宅に着く。
 離婚か、離婚しないのか。私を裏切って、太一は他の女と寝ていたのは事実。他の女と太一の寝ているところが想像できてしまった。たぶん、その女にしていた触る順番もわたしの身体を開かせる順番も一緒だと思ったら、ゾワっと鳥肌が立った。
無理だ。やっぱり離婚するしかない。
 私は鍵を差し込み、ドアを開ける。そこには太一が立っていた。
「お帰り。無事でよかった」
 突然、抱きしめられた。
 なぜ? 不倫していたくせに? 他所の女を抱いたのに? 私以外の人に愛しているとか言ったくせに。どうして抱きしめるの?
 胸が苦しくなる。
「LINE読んだよ。不倫していたんだって? 一億円脅迫されているの? 様子がおかしいから、なんとなく不倫しているんだろうなって分かっていたけど」
 私が切り出すと、太一はギョッとした顔をした。どうしてバレたのかわからないと思っていた顔だ。
「子どもたちも太一が何かやらかしているって言っていたんだよ。はあ、やっぱりね」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 太一は俯いて謝る。
「ごめんじゃないよ。もうどうするのよ」
「どうしよう」
 太一の手は小刻みに震えている。
「私、知らないわよ」
 私は眉を顰めた。
「わかってる。唯香のせいじゃない。一億円払えないから、母さんに相談したんだけど」
「はあ。それで私より親に先に相談したのね……」
 だから夜中にお義母さんが来たのだ。夫婦問題に先に介入か。太一の判断にがっかりした。
「唯香や子どもたちにバレたくなかったんだ」
 馬鹿なんだろうか。私の夫は、馬鹿だ。
 十五年も結婚していて、一番最初に相談したのが親なのか。自分のやったことの尻拭いを親にさせるのか。お前はいったいいくつなんだ。それでも社会人なのか。小一時間問いただしたい。
「母さんが従兄に連絡して、弁護士として相談に乗ってもらっていたんだ」
「親戚まで巻き込んだのね」
「母さんと弁護士の従兄が警察に行った方がいいって。乱暴されたことを含め、警察には何度も行っているんだ。でも一億円は払えないし払いたくないよなあ。今後を考えたら、ここで負けるわけにはいかない。ずっと強請られるかもしれないだろう?」
 あと二日……。じゃ、もうすぐ支払期日? まずい。支払えない、支払いたくないって、自分が一番悪いんですよね? とは突っ込まないでおいた。
「警察はなんて?」
「相談って形で聞いてくれたけれど、何もできないみたい。巡回はしてくれるって。乱暴されたと言ってもケガはしていないし。証拠もない。向こうの旦那、棚田和樹に注意はしてくれたみたいだけど」
「まだ警察が介入できないのね」
確かに太一の顔や体に乱暴された跡はない。
「打てる手はすべて打ったんだ。従兄が、弁護士を通してやり取りしましょうと手紙を送ってくれたんだけど。そうしたら、次の日、つまり今日、棚田和樹が唯香に接触してきて、手紙を突っ返してきた。従兄や警察は、唯香や子どもたちが危ないから、外に出ないように家に居た方ががいいって助言されたから、帰ってきてもらったんだ」
「……そうなのね」
 胸がぐっと苦しくなった。
 なぜあなたの不倫に私たちが巻き込まれるの? 沙耶は明日受験なのよ。自分勝手に楽しんで不倫していたんだから、自分で責任をとってよ。
 私は手をぐっと握る。
「本当にごめん」
「何がごめんなの? ちゃんとわかってるの?」
 やらかしたことに対して、ちゃんと理解しているのだろうか。反省でも、謝罪でもなく、お金と自分のことを優先しているように感じた。何もしていない私たちのために一億円払ってほしいとさえ思ってしまった。
 拉致られて、乱暴されて、殺されそうになったんだから自分優先になるんだろうけど。それでも、不倫して迷惑をかけていることを悔いている姿を見せてくれてもいいのではないか。でも太一に全く素振りもない。
 はあああ。太一にとっては、不倫したことより殺される方がインパクトなんだろうけれども、殺されそうになっているのは不倫したからなんだよ。太一、わかってるのか?
「本気じゃないかったんだ。家庭を壊さない約束で始めたんだ。あっちだって本気じゃなかったんだ、最初は」
「何言っているの? ……気持ち悪い。本気じゃないって何? 本気じゃないなら不倫していいと言いたいわけ?」
「だから、俺が言いたいのは、唯香と一緒にいたいってこと。ずっと沙耶と恵茉と唯香と家族でいたい」
 太一は私の目を見た。
 馬鹿だなあとしか思えなかった。
「あの人と不倫している時も、私と寝ていたわよね」
「……まあね」
 背筋がゾゾゾっとした。私の身体が汚い。内臓を取り出して丸洗いしたい。
無理。無理。限界だ。
不倫したことを土下座するわけでもない。お金は払いたくない。殺されるから家にいたい。家族でいたいと自分の要求を述べるだけ。私は太一を睨み付けた。
「俺は離婚したくない。別れたくない。本当に遊びだったんだ。俺だって遊んでみたかった。みんな俺の周りは不倫しているからさ。俺もこのまま年を取ったら不倫とかできなくなると思ったんだ。それに年取るとセックスできなくなるんだろう? 今のうちしておきたかったんだよ。そんなときにバレないように不倫しようと誘われて、これはやるしかないと思ったんだ」
 どういう理屈? みんな? みんなって誰よ。バレなきゃいいの? あんたに倫理観っていうモノはないのか?
私は首を傾げる。
「あのねえ、年を取ってもヤってる人はヤってるよ。六十歳だって、七十歳だって夫婦生活してる人はいるよ。テレビでだって、雑誌だって、インターネットだって、今は歳を取っても夫婦生活は大事って言ってるもの。したい人は年取ってもしてるのよ」
「え?」
 太一は目を見開く。
そんなことで驚くなよ、ちゃんと調べろ。スマホあるだろうがと言いたかったが、我慢する。
「老人の性生活がマスコミで取り上げられる世の中だよ?」
「そうなんだ……」
「太一のことだから、友達や上司がバレずに女遊びしていて、羨ましかったんでしょ? バレなきゃいいって思う性格だもんね。おまけに金もかからないときたら、ヤる一択だったんでしょ。バレて何人もの人が離婚してるよね? そこまで考えなかったの?」
「……」
 太一は黙っている。沈黙は肯定のことが多い。面倒で不貞腐れていることもあるけれども。本当に状況分析が甘すぎる。ヤる前に未来予想図を建てるべきだ。
「棚田未唯さんって、幼稚園の先生なんでしょ。お金も稼いでくれているし。お金大好きな太一は、棚田未唯に本気だったんじゃないの?」
「本気のわけないだろ。ただ、好意を見せられて、俺と寝てもいいっていうし、家族に知られなきゃいいんだって言われて……。考えてみろよ。自分の妻がすぐに他の男と寝るなんていやだろう。棚田未唯とは例え離婚しても結婚しないつもりだった。それに、お金だってほとんど使ってない。ラブホ代だって割り勘で、コンビニで買った飯もすべて個別会計だしさ」
 太一は、俺偉いでしょとばかりの笑顔を見せる。
 やっぱりね。ラブホ代も割り勘か。ラブホでコンビニご飯ね。お金をかけていなければ、不倫していいのか? わかってない。
 がくりと手足の力が抜けた。とはいえ、三千円以上は毎回費用をかけている。結局、お金は使っている。そこを攻めよう。お金で対抗してきたなら、そこを潰さないと、太一は話を聞かないだろう。
「一年って言うことは、私が入院しているときも会ってたんだよね」
「……、覚えていないけど」
 太一の目が泳ぐ。
 ムカついた。せめて入院中くらい性欲を抑えろよ。うちの子どものケアをしてくれ。かわいそうに。
「残業って言っていたじゃない。信じていたのに。入院中にも会ってラブホに行くとか何考えているの? 子どもたちを放っておいたんだよね。デートとかもしていたの?」
「ラブホ以外どこにも行ってないよ。あ、でも、最初に水族館に行って、カラオケして、飲み屋に行ったかな。あとは数回飲んだけど。ほら、身体の関係になってからはバレたらまずいから、二人でいるところを見られないように、会ったらすぐにラブホテルに行っていたんだよね」
「え? ラブホだけ?」
 そうなんだ、ほぼラブホデートオンリーなんだ。いや、それってどうなの? 相手は不満じゃなかったのかな。私だったら嫌だ。棚田未唯って、どんな人なんだろう。不思議な気がした。
「ラブホ代も半分出すからって言われてさ。サラリーマンだとお小遣いきついでしょと言ってくれて、助かったよ」
「はあ」
 太一のコメントになんだか頭がくらくらした。
 割り勘にすることで、長く不倫できるだろうということか。棚田未唯の考えは読めた。しかし、太一は俺のセックスは世界一と酔いしれているように見えた。俺が上手いから未唯が離れられなかったんだ、俺のセックスのためだけにラブホ代を割り勘にしてまで会いに来ていたと言いたそうだった。腹が立つ。
なんとなくだけれど、未唯は不倫し慣れている可能が高い気がした。どうするよ、私。太一の考えを潰したい。その思い込み、不要です。
「だいたい、すぐ不倫する女と本気になるわけないだろう。例え、未唯と結婚してもすぐに他の男をつくりそうでヤバい。だからさ、俺が愛しているのは唯香だけ。家族だけだ」
 太一は私に近づいてくる。
「来ないで。気持ち悪いから。触らないで」
「そんな……」
 太一が驚いた。俺の自慢の性交渉でなんとかって思っていた節がある。ゾワゾワと腕が粟立った。
「だって、その手で未唯の手を握ったんでしょ? 汚いよ」
 私が言うと、太一は苦笑いする。
「握ってないよ。だって、手を繋いで外を歩いていたらバレちゃうだろ?」
「ええ?」
 思わず声が出た。
「バレないように外にいた時は少し離れて歩いていたし。手なんか繋がないし、腕も組んでないよ」
「え? そんな付き合いだったの?」
「うん」
 太一はなんでそんなことを聞くのか私の問いに戸惑っていた。
「そんなの恋人じゃないよ。私なら嫌だよ」
「だから、棚田未唯は恋人じゃない。好きじゃない。愛していないんだ」
 太一は肩をすくめた。
「なんで、そんなにお手軽に寝ることできるの? 安いからって、おかしいでしょ。どうして断らなかったのよ」
「モテて嬉しかったんだよ。もうモテないと思っていたから、あなたとしたいって求められて、調子の乗っていたんだと思う。本当にごめん。向こうの旦那に殴られて、蹴られて、怖かった。もうしないから許してくれ」
 殴られて反省したのか。頭が痛くなる。
どうしてそこで私を愛してるからって言わないの? 
太一は反省なんかしてない。恐怖が理由だ。
「自分でもうやめようって思わなかったの?」
 私は腕組みをした。
「別れないといけないなあとは思っていた」
「はあ」
「別れないといけないなあ」と思っているなら、別れろよ。心の中でどつく。
「別れようっていうと、相手にごねられそうだったしさ。しつこくされそうで。だって、毎週会いたいとか、もっと会いたいとか言うんだぞ。自分から割り切った付き合いを提案してきたくせに。俺、怖くなってきててさ。しつこいタイプだと思わなかったよ。これ、飲んで?ってわざわざ海外から取り寄せた薬をくれたりさ。俺とのために薬まで用意してくれる、いい女だと思ったんだ。もともと最初は互いの家庭は壊さない約束だったからな。ま、棚田和樹が別れさせてくれてちょうどよかったよ」
 太一が小さく口を開け、なんてことないみたいに話す。
白い歯が見えるのが気に入らなかった。なぜ、どうして笑えるんだろう? 私にはちっとも面白くない。
 頭痛がひどくなっていくのが分かった。
 そもそも自分で別れられなくなっていたのか。好きだと言われ、嬉しくて夢中になって棚田未唯に溺れたけれど、本気になられそうだったから、棚田和樹が来てよかったと? それとも、俺の寝技に未唯は夢中だったとアピールか? 馬鹿なのか?
「愛しているとか好きとか、言ってないよ。あ、セックスを盛り上げるため、向こうが好きって言ってきた時だけ返したけど。普通の時はさすがに言えないよね。だって好きじゃないもん」
 太一の自分勝手さに吐き気がした。この人、真面目に何を言っているんだろうか。好きじゃなかったで許されると思っているのか。
 太一の顔を見ると、真剣そのものだ。
 我が夫、どこかおかしい。それとも私が太一との愛を信じすぎていたのか。私が悪いのか? 結婚した私が悪いのか?
「男はみんなそうだよ。不倫なんて、みんなやっているの。だから、唯香、早まらないでほしい。もうしないから離婚しないでくれ」
「ごめん、今はよく考えられない」
 涙が止めどもなく出てくる。もうどうしたらいいんだろう。アラフォーだけど、どうしたらいいのかわからない。子どものように涙が溢れだす。
「だいたい、あいつは車に俺のことを誘拐したんだ。あいつも悪いだろ」
 太一の言い分だ。暴力に訴えるのはまずい手法だっただろう。でも、私の代わりに制裁してもらったと思えば……とは言えない。
「あの時だよ。判子を持ってスマホを探しに行ったとき。実は赤い車の中に連れ込まれ、殴られた後だったんだ。でもさ、棚田和樹が妙なことを聞いてきたんだよね。お前、この車に乗ったのか。この車で温泉に出かけたのか? カーナビの履歴に残ってるんだぞって尋問されたんだ」
「温泉に行ったの?」
 思わず顔を顰める。
 ひどい。自分の家族を放っておいて一人だけ温泉とは許せない。恵茉だって遊びに行きたいのを沙耶が受験だから遠慮して我慢している。沙耶だって一生懸命勉強しているのが分からないのか。
「赤いゴルフの車なんて未唯と乗ってもないし、温泉なんて行ってないって答えたよ。実際、ほとんどうちの近くのラブホテルに行っていただけだし。そもそもあっちの家に車があるとかだって知らなかった」
「え? お互いの家のこととか話さなかったの?」
「うん。話す必要ないだろう? あっちからもっと私の話を聞いてとか怒られたけどさ、俺、ジム行きたかったし、暇がないからさ」
 案外ドライな身体だけの付き合いだったんだなあと呆れてしまった。
「うちのそばのラブホテル……、ってどこ?」
「病院の裏にあるラブホテル」
「え?」
「俺の家から近いじゃん? 向こうも勤め先があすなろ幼稚園だし、帰り道の途中だっていうからさ。便利だったんだよね」
 この人、無神経すぎる。私たち家族の生活圏内じゃないか。そういうのもわからないのか。胃が痛くなるのを感じた。
「一億円支払うって契約書に判子をついちゃったから、すぐに母さん相談して、そうしたら、母さんが従兄に話したわけ」
「はあ」
「棚田和樹の家は、唯香にアドバイスもらったからさ、携帯を探すという機能でスマホの場所を見つけたよ。グーグルマップで探したら、うちとよく似た家に住んでいた。隣の区だったけど」
「隣の区に住んでいたのね。というか、未唯とはどこに住んでるとか聞かなかったの?」
「聞かないよ。興味ないし。ただの不倫相手だし」
 何も言えなくなった。こんな人のどこがよくて棚田未唯は不倫を一年近く続けたんだろう。
「従兄にも、いつから、どこで、何回くらい会ったか、どんな話をしたか、最初に口説いた状況とか詳しく聞かれたんだけど。俺、答えられなかったんだよね。全然覚えてないし興味なかったし。お互い家庭はこわすつもりがなかったから、付き合い方も適当だったし。思い出とかないし。あ、新宿御苑には行ったか」
「はあ? 家族と行った場所なのに?」
 ムカっときた。どうしてこの人は、知っている所や手近で済ませたがるのだろう。
「あっちが行きたいって言い出してさ。別に楽しくもなんともなかったよ」
 思い出作りをしたかったんだろうなあ。
ふと顔も知らない棚田未唯を考えた。
いつもラブホ。しかも割り勘。手も繋がないって、嫌じゃなかったのか。身体だけの付き合いとか哀しくならなかったんだろうか。
 私だったら、そんな付き合い方は無理だ。心が死んでしまいそうだ。今は不倫されて、脅迫されて死にそうだけど。
棚田未唯は、私とは感覚が違うのかもしれない。
 床に乱雑においてあるビジネスバックの口が開いているのが見えた。中にチラリと赤いモノが見える。
 んん? え、まさかね。あの生地、女性の下着特有のレースに見えるんだけど。どう見ても、間違いない。
「これ、何?」
 私が指を差す。
「俺の仕事用のカバン」
「分かってるわよ。中身よ、中身。その赤いヤツ」
「知らないよ。なんだこれ」
 太一は手で持ち上げて慌てた。
 入れる人はただ一人。
棚田未唯だ。赤いパンツだか、ブラジャーだか、人の夫のバックに入れやがるとは。私に対して宣戦布告に違いない。
 きっと太一に私と会えない時はこれで我慢してねとか言って、バックに入れたのだろう。もしくは奥さんにバレたら面白いかもと思ったのかもしれない。そっと赤いモノを摘むと、パンツだった。扇情的なレース仕立てのTバックだ。
「はあ」
 大きくため息をつく。
「こ、これはあいつが勝手に入れたんだ。俺が欲しいって言ったわけじゃない。信じてくれ」
 太一が言い訳をする。
「はあ」
 いったい何を話せばいいのか。この状態で。
「それに俺は下着に興味はない」
 そうか、そう返すのか。力が抜けた。
 このパンツ、絶対返そう。いらない。家に置いておきたくないもの。
摘んでビニル袋にいれた。パンツの下に小さい紙切れも一緒にいれておいた。
「本当に家庭を壊す気はなく、新宿御苑も佐賀にも行ったけど、写真は一枚も撮ってないんだよ。お互い割り切っていたはずなんだけど、会いたい会いたいって言うから最近は一週間に一、二回会っていたんだけどね。本当はバレるからいやだったんだよね。会えば会うほどリスク高くなって、絶対バレるじゃん? そんでやっぱりバレた。未唯が悪いんだ。俺的にはさ、一か月に一回くらい、たまに遊べればよかったんだ」
 全然反省していない。強い吐き気がした。ってことは、バレなきゃいいって思っていたの? 一か月に一回他の女と寝ようと思っていたってこと? なんなの、この人は。
 あっけらかんと自分は悪くないと主張する太一の感覚は、私のそれと逸脱していた。
「どうしてこんな腐った人になってしまったんだろう」
 脳みそが熱くなり、心臓の動悸がひどい。内臓が焼けているかのようにひりつく。ひどく興奮状態なのが自分でも感じられた。
 そもそも太一はバレなきゃいい、お金がかからないければいいという主義だ。女に関してもそうだったとは。付き合ったときは誠実でいい人だと思ったのに。年月をかけていつのまにか不誠実な男に変身していた。
 せめて、水族館にいくというデートの手口とは違う手口で女を口説いてほしかった。私との思い出が穢されてがっかりした。
「あっちはさ、明日までに一億円払えって言っているんだよ。この契約ってさ、解約できるよね? どう思う?」
「明日? 明日までに一億円? 従兄は何て言っているの?」
 結婚式で会っただけの、太一、弁護士の従兄。どんな顔していたかも覚えていないけど。お手数をかけて申し訳ない。
「判子をついた契約書類を見ないと分からないって」
「そう。じゃ、そうなんじゃない? 弁護士が言うんだから」
 これだけのことを引き起こしても反省もしていない太一である。もう私の手に負えない。殺されると困っているようだから、家から追い出さないでいるけど。どこをどう反省するのかから教えないといけないのか。私が教えなくてもいいんじゃないか? 大人の考えを改めさせるのは、大変だ。
「親に頼めば、実家の家と土地を売って、預金全部引き出せば何とかなるかもしれないけどさ。それか、この家と土地を売るか。定期崩しただけじゃ足りないから、やっぱり親にいくらか頼るしかないんだよ。従兄が言うには、不倫の慰謝料の相場って三百万だって。一億円って多くない?」
「多い。びっくりした。なんで一億円なんだろうねえ?」
 私と太一は首をひねる。
「家族と会社にばらされたくないなら払えって言っていたけど」
「はあ。いっそ、一億円払ったら? それか、家族にはもうバレたって言えば、割引してもらえるんじゃない?」
 顔を引き攣らせながら、提案してみた。
「今夜、棚田和樹が来たら、俺は殺される」
「……。仕方ないよね、悪いことしたんだし。向こうの旦那は怒っているもん」
「俺は一億円なんて払いたくない。そんな金があるなら妻や子どもたちに使いたい」
 太一はどやって顔をする。そこで決め顔をする必要はない。そもそもお前が不倫しなければこんなことにはなっていない。言いたいことは山ほどあったが、今は和樹対策が優先か。
 棚田和樹に一億円払うなら、棚田未唯と太一に、私の分の慰謝料も請求できるよね。
 この人たち、私に一億円払えるのかしら。働いているんだもの、私の慰謝料も余裕で払えるわよね。
 私と子どもたちを傷つけるんだから、もらえるものはもらっておいた方がいい。今後、離婚したらどうなるかわからないんだし。
 やっぱり離婚するかな?
 ふと頭の片隅をよぎった。自分が離婚したいのか、離婚したくないのか分からなかった。でも、いつか離婚をしなきゃいけなくなる時があるかもしれない。覚悟をしておこう。私は誰かと夫を共有するつもりはない。
「唯香に接触してきているし、棚田和樹から電話があって、弁護士とはやり取りしないって言われた。明日までに金を用意しないなら、職場と家族に言うって。今日の夜、書類を持って行くって言っているんだよ。今度は刺されるかもしれない」
「書類? 何の書類? もう私、不倫のこと知っちゃったけどね」
 刺されるって、大げさな。棚田和樹は太一を強請る気なんだろうか。未唯と別れさせ、金が欲しいだけなのか?
「そうだね。ごめんね」
 太一は目を伏せた。
 棚田和樹は太一が言うように本当に悪い人なんだろうか。学生時代とは、変わってしまったのか。棚田和樹は、真面目で普通の男子学生だったはずだ。
「太一はいったいどうしたいの? 不倫していたってことは、未唯のことを愛していたんでしょ? 今後、誰と暮らしたいの? 誰を愛しているの? 離婚したいの? はっきり言いなさいよ」
「妻と家族を愛してます。離婚は絶対したくない。だって、あっちのことは全然好きじゃないし愛していないから」
「じゃ、なんでしたの? 理解できないよ」
「男はみんなするんだよ、そういうもんなの」
「はあ? 男はみんなって……。あのさ、反省してないの?」
「いや、反省はしている。一億円なんて払えるか。不倫したのはちょっと女性と遊びたかっただけなんだよ。モテてうれしかったんだ。家族に佐賀旅行断られたし。なんであっちと寝たのかとか、最初にどう誘われたかとか、何を話したのかとか、全く覚えてないんだよね。お金だってそんなにかかってない。ただ、ヤらせてくれるっていうから、ジムだって嘘をついてラブホに行っていた。本当に貢いでない」
 ああ、お金のことばかりだ。佐賀出張にも連れて行った?
太一の言動が引っかかる。
 佐賀? 家族旅行? どういうことよ? たしかに佐賀出張の話は聞いていたけど。それか!
 太一は誇らしげに言っているが、何なんだろう、この違和感。気持ちが悪い。
未唯のことは本当に好きじゃなかったのか。少しホッとした自分がいた。だからと言って、許せるかというと、そういうわけではない。
どうやって佐賀出張に未唯はついていったんだろう。二人仲良く飛行機に座り、ご飯を食べて観光して、ホテルでいちゃついていたんだろうか。太一の分は出張費として出るだろうけれど、あっちの分はどうしたんだろう。たしか同僚もいっしょに佐賀に行くって言ってたのに、見つからなかったんだろうか。心配になる。
「佐賀旅行って、沙耶が一月に受験だから無理っていったじゃない。仕方なかったのよ。私だって、沙耶も恵茉も行きたかったわよ」
「でも、俺はどうしても佐賀に家族と行きたかった。断られて腹が立ったから棚田未唯を誘った」
「はあああああ?」
 腹が立ったから誘った? 子どもの将来のことは考えないのか?
「佐賀旅行だけじゃない。そもそも不倫をしてもいいかと思ったのは、俺が家族で出かけたかった時に、みんな予定があって、俺に従わなかったからだ」
「はあ? それは仕方がないよね」
「俺は俺の予定に合わせてくれる女性がよかった。佐賀だって、最初に唯香を誘った。子どもたちが無理なら、お前が子どもを置いて、俺と佐賀に来ればよかったんだ。そうしたら、俺はお前と佐賀に行ったのに。お前が断ったんだろう。未唯は、家族を置いて俺についてきたぞ」
 太一は威張り顔だ。
 おいおい。中学生の子どもを置いて夫婦で旅行ってどうなの? しかも、あなた、出張を利用してですよね? 棚田未唯もある意味すごい。中学二年生の一人息子と夫を家において、太一と不倫旅行か。大胆過ぎる。いやあ、私には無理無理。沙耶が大学生になっているなら、一泊なら二人で家で留守番をお願いしてもいいかもしれないけど。
 ピンポーン。
「沙耶が帰ってきた。とりあえず子どもたちにも事情を説明するわ」
「俺は従兄と警察に電話してくる」
 太一は自室に入っていき、私は玄関を開けた。
沙耶に顔を合わせづらいのだろう。ため息しか出てこない。子どもに言えないことをするな! 心の中で太一を毒気づく。
「おかえり」
「何なの? 不倫って何? 脅迫ってどういうこと? パパは?」
「自分の部屋で従兄と警察に電話するって」
「はあ」
「恵茉は?」
「三階でゲームしている。今から説明するから、恵茉を呼ぶわ」
「わかった。ほんと、パパは何してるのよ。私、明日受験なのに」
 沙耶は眉根を寄せた。
「ごめんね。なんとか早く決着つけるから」
「ママが謝ることじゃない。パパが悪いのよ」
 沙耶は大憤慨だ。
「なんでお姉ちゃん怒ってるの?」
 二階に呼んだ恵茉は私と沙耶の顔を交互に見る。
「実はさ、パパやっぱり不倫していてさ」
「ええ? やっぱり……」
 恵茉は嫌そうな声を出した。
「相手は棚田未唯って人。あすなろ幼稚園の先生らしいわよ。沙耶と恵茉が卒園してから入ったみたいだからよく知らない人だけど」
「棚田?」
 恵茉の顔色が青くなる。
「棚田ってさ、稜也くん?」
 沙耶が嫌そうな顔をする。
「たぶん、そうだと思う。中学一年生のとき恵茉と同じクラスってパパが言っていた。棚田って他にいる?」
「そんなめずらしい名字、いるわけないじゃん」
 沙耶が突っ込む。
「稜也くんからずっと前、恵茉のスマホに鍵の写真が送られてきたよね? あと、あれ。コンドームの写真も。二つの画像、ママのスマホに送って」
「うん。あのね、他にもあって……」
「まだあるの?」
 私は顔を顰めた。
「これも……。パパが女の人と歩いている写真。稜也にこれはパパか?ってLINEで聞かれてさ。絶対パパだって思ったんだけど、とっさに違うって返事しちゃったんだよね。ほら、これ、やっぱりパパだよね? 稜也君に言われても、私、ずっとパパはそんなことはしないって信じていたんだけど」
 ということは、恵茉はだいぶ前から和樹と未唯の不倫を知っていたってことか。
 恵茉は俯いた。
「ごめんね。気を使わせちゃったわね」
「パパは不倫なんてしていないって思いたかったし。ママを傷つけるし、ママに言えなかった。ごめんなさい」
 恵茉は何も悪くない。ママが気づいてあげられなくて、本当にごめんなさい。ママのために重荷を背負わせてしまった。
「誰にも言えなくて辛かったね。ごめんね。そういう時はすぐにママに言っていいんだよ」
「もう誰を信じていいのかわからないよ」
「そうだよね」
 気持ちはわかる。稜也くんには二回も二股をかけられてフラれ、パパは稜也くんのママと不倫。それは傷つくだろう。大人だってショックなのだ。中学生の恵茉には致命傷になりうる。
 太一め……。考えなしで不倫しやがって。私の怒りに火がついた。
「とりあえず、その画像もママのスマホに送って?」
 棚田和樹と太一への反撃に備えなければいけない。
 恵茉に頼むとすぐに送ってくれた。
「パパはどういうつもりで不倫したの? 稜也くんのママのことを愛しているの? 私たちのことをどうするつもりなの?」
「パパは家庭を壊す気はなかったんだって。あっちのことは好きじゃなかった、全然愛していないって言い張ってる。離婚はしたくないって」
「えええ?」
 沙耶は眉根を寄せた。
「好きじゃないのに、不倫したの? なんで不倫したの? 私には分からないわ」
 恵茉は頭を傾けた。
「パパ曰く、あっちは愛してないから、私と離婚はしたくないみたい。それで、家族と会社にバラされたくなかったら一億円支払えって慰謝料を請求されていて、おばあちゃんに相談したらしいんだけど」
「は? ママじゃなくて?」
「どうしておばあちゃん?」
 沙耶と恵茉は怒りを露わにする。
「家族に言わずに解決したかったんじゃない? 隠したかったんだと思うよ」
 気持ちは分かるが、パートナーに隠すはダメだろう。解決できる財力があればまだしも、オロオロしているうちに、タイムリミット。時間切れじゃないか。太一は子どもか? 悪いことを隠す子どもなのか? 
 私たちは大きくため息をついた。
「でね、今日の夜、稜也くんのパパがうちに来るんだって」
「は? なんで?」
「契約書に判子をつかせるって。何の契約書なのか、ママはよくわからないわ。支払期限は明後日らしいよ」
「一億円ってこと?」
 沙耶が目を丸くした。
「そう」
「え? 真面目に言ってるの? 払えるわけないじゃない」
 沙耶と恵茉は絶句する。
 私たち、大丈夫なんだろうか。生きていけるんだろうか。沙耶と恵茉の顔色から読み取れた。そんなこと、私だってわからない。急いでパートに復帰すればよいのかな? 正社員じゃないと無理かな。今は手術したばかりで無理はできないけれど。
 警察も弁護士もついているとは言え、現状何も変わってない。
 沙耶の試験日は明日だ。お前の不倫の後始末なんかに構っている時間はない。高校受験は人生で大きな岐路になる。なんとかしてあげないと。
「大丈夫。いざとなったら、私が何とかするから」
 どうしようか何も決めていないけれど、私が子どもたちの未来を守るしかない。
 離婚になるかもしれない。休みをもらっているパート先に正社員にしてもらえないか聞いてみよう。ダメなら、就職活動をしよう。働いて、慰謝料もらって、養育費ももらおう。なんとかここで踏ん張らないと。時間は待ったなしだ。早急に解決しないといけない。
 私は覚悟を決めた。
「ママ、手、震えている。すごく冷たい」
 沙耶と恵茉がわたしの手を握った。
 私がこの子たちを守る。
 心臓が大きな音をたてて波打っているのを感じながら、無理やり口角を上げた。
 太一が階段を上ってくる音がする。
 沙耶と恵茉は口をきつく閉ざし、リビングに緊張感が走った。
「今、警察と話していた。みんな危ないから外に出ないようにってまた言われた。だから、今日の夜、あっちの旦那が来るっていうけど、断るつもり」
「そう」
 私は太一から目をそらす。私がしてあげられることは何もないだろう。もう警察も弁護士も味方につけているんだから。あとは勝手にやってもらうしかない。さっさと終わらせてほしい。
「なんでパパは不倫したの? 不倫相手、稜也のママが好きだったの?」
 恵茉が太一に言い寄った。
「ちょっと、ママが傷つく」
 沙耶が恵茉を止める。
「いいよ、別に。大丈夫。パパに直接聞きたいことがあったら聞いて?」
 私は恵茉に小さく微笑む。
「いや、別に……。そういうわけではないんだけど」
 太一の声が段々小さくなっていく。
「何が言いたいのかわからない。はっきり言ってよ。あっちの人が好きなの? 好きだから不倫したんでしょ?」
 沙耶が問い詰める。
「……いや、それは」
 太一は子どもたちになぜ自分が不倫をしたか、はっきりと言えないようだ。
 馬鹿だ。子どもに言えないことをしているって分からなかったのか。しかも一年も。一回の過ちではなく継続だ。一回だって悪いのに、継続一年だ。
 きっと好きだったんだろうと思う。太一がどんなに好きじゃないと否定しても、惹かれたからセックスしていたとしか思えなかった。
「えー、好きじゃないのに不倫したの?」
 沙耶が嫌そうな顔をする
「なんで? しかも稜也くんのママなのよ」
 恵茉は低い声で怒る。
「恵茉のクラスメイトのママなんだよ。馬鹿なの? どうしてクラスメイトの親って分かった時、やめなかったの? ひどいじゃん」
 沙耶が恵茉の代弁をした。
「やめることができなかった。俺は馬鹿なんだと思う」
 太一は俯いた。流石に理由は言わないか。汚い性欲をさらけ出したくはなかったらしい。
「本当は稜也のママのことが好きんじゃないの?」
「いや、全然。絶対違うから」
「好きじゃないのにそういうことしたの?」
「そんなのおかしいよ。そういうことは好きな人とするんだよ」
 沙耶と恵茉が太一に牙をむく。
「そうだよな。ごめん」
 太一は青を通り越してどす黒い顔色になっている。
「どうしてママを裏切ったの? 稜也のママを愛しているの? あっちと暮らしたいの? それなら意味はわかるけど、パパのことがわからないよ」
 大きな声で追求する恵茉の顔が歪んでいる。みんな泣きそうだった。
「だから、えええっと、つまり」
 太一は自分勝手な理由を話せないでいる。子どもの前で親として威厳のあるところをみせたいのだろう。でも、もう親として崩壊しているのが分からないのか。
 口籠る太一に私は助け舟を出した。
「稜也くんのママ、未唯さんのことが好きだったの? 今も好きなの? 愛してるの? その人とこれから暮らしたいの? その人と再婚したいの? 子どもたちにはっきり言わないと伝わらないよ」
 正直に言えばいい。
簡単なことができず、もごもごと口ごもる太一にイラついた。
「好きじゃない。唯香と沙耶と恵茉といたい。愛しているのは家族だ」
「そういうことみたいよ」
 私は肩をすくめた。
「そんなの、信じられない。不倫してきたパパがそういうこと言っていいの? なんかずるいよ」
「いったい誰を信じればいいのか分からないよ」
 沙耶と恵茉が涙をこぼした。
 そうだよね。私もわからない。本当にごめんなさい。こんな人があなた達の親でごめんなさい。
 沙耶と恵茉はリビングの扉を乱暴に開け、三階に行ってしまった。
「なんで子どもたちに話すんだよ」
 太一は私を睨んだ。
「どっちにしろ、時間の問題だったでしょ。すぐにバレるわ。塾から帰らせたり、家から出るなって言ったりしているんだから。どんなふうに説明するつもりだったの? それに前々からパパは何かやらかしているだろうって、子どもたちとも話していたの。みんな心の中では、パパのことを信じていたんだと思う。まさか、このタイミングで不倫暴露になるとは思わなかったけど。分かっている? 明日沙耶は高校受験なのよ?」
 恵茉の写真の件黙っておいた。これを使わなくても太一が悔い改めていればいいんだが。
「……」
 太一は口をつぐんだ。
「もう連絡したの? 棚田和樹に会えないって」
「……言ってない」
「早くしないと来ちゃうわよ? 子どもたちにも話したし、全部露呈してよかったじゃない」
「う、うん」
「まだ隠し事あるの?」
 私はため息をついた。今のうちに全て打ち明けてほしい。これ以上の衝撃はいらないけれど、今ならまだ受け止められる。
「もうないから! 何もない! じゃ、電話するから、唯香のスマホ貸して?」
「え?」
 びっくりした。別に私のスマホを使ってもいいけど、私の番号とか和樹にバレちゃうよ。もういいのかな。写真を撮られているし、探偵に頼んでうちの調査もしているんだろう。
「だって、会社の携帯使うわけに行かないだろ? 俺のスマホは、俺が逃げないようにって棚田に取られているし。いちいち家電だと面倒なんだよ」
 なんか嫌だな。小さなため息をしながら、太一を見る。
 太一は手はかすかに震えていた。緊張しながらスマホを鳴らし続ける。仕事中なのか、棚田和樹はなかなかでなかった。
「おまえ、弁護士と警察に連絡しただろう。残念。無駄だったな」
「……」
 太一はガタガタ大きく震え出し、声がでなくなっていた。
 初手でこれか。太一、しっかりして。
和樹は太一に悪意剥き出しである。
「お前の弁護士なんかと話している時間はない。明日までに金をちゃんと振り込めよ。振り込まないなら、家族と会社にバラすぞ」
「だから、そんなお金、すぐに用意はできないって言っているじゃないですか。だから弁護士に頼んだんです」
「月賦払いでもいい。必ず毎月振り込んでもらう」
「無理です。弁護士と話してください。それから今日はうちに来ないでください。僕は会いませんから。警察に見回りしてもらうことになってます」
「はあ? 警察?」
 太一と棚田和樹の話は平行線だ。大丈夫だろうか。
 私が口をはさむことじゃない。だって私は被害者だもの。
「きょうはうちに来ないでください」
「何だと?」
 和樹の興奮した声が響く。
 太一の身体がびくんと跳ね上がる。
 隣で聞いていて、埒が開かないと感じた。
 このままじゃ沙耶の受験が失敗してしまう。どうしよう。早期解決するには、どうしたらいいのだろう。
 あ、私が和樹と話をすればいい? もしかすると被害者同士、話を聞いてくれるかもしれない。
 すでに警察と弁護士が動いているのに、私が出る必要があるのかな? 邪魔だったり、でしゃばりだと思われるんじゃないか。なんてったって、今、流行りのされ妻だ。なんのメリットもない称号だ。でも、どうしよう。私が出ていくべきだろうか。
 心の中で葛藤する。
 警察は、一応周囲を巡回してくれることになっているが、どこまで効力があるのかわからない。来ると言っているから、きっと和樹は来るだろう。
 太一が従兄に連絡しても、お前は家から出るなというだけだったみたいだ。
 頭を抱えて震えている太一を見て、修羅場の覚悟がないなら不倫するなよと呆れてしまう。自分のケツは自分で拭け。誰が悪いのかって、自分じゃないか。
 和樹は弁護士に契約書を揃えさせ、二、三ヶ月かけて交渉する準備をして、うちに乗り込んでいるんだろう。急襲されたうちは完全に負けだ。
 負け戦か。そういうのは好きじゃないな。放っておくか? そうしたら長引きそうだよなあ。裁判沙汰になったら、解決するころには恵茉の受験だろう。
 稜也くんだって受験になる。お互いそれは良くない。それは和樹だって分かっているだろう。未唯はどうして不倫しようと思ったんだろう。稜也くんは多感な時期だ。親の性事情なんて最も嫌うだろう。そんなことも未唯は分からないのだろうか。
どうして太一の会社の出張に、ついていったんだろう。子どもを放置するなんて私にはできない。骨の髄まで女の部分しかないのだろうか。私とは違う人種なのかもしれない。
 棚田和樹は深夜まで仕事だろう。子どもを置いて、自分の楽しみを優先させて、不倫相手と旅行に行ける女ってどんな女なんだろう。しかも太一だけでなく、他の男とも温泉旅行にいっている。
 母でなく、女を優先する。
 確かにそういう女もいるのは知っているけど。 太一が何人もの男性と同時進行をする女に夢中になり、私と比較していたのかと思うと情けなくなった。
 おまけに、太一は棚田未唯のほうが人間的にも行動的で、異性としても私よりも魅力的だと思っている節がある。口では言わないけれど。
 もし本当にそう思っているとしたら、あいつは救いようがない。洗脳を解くというか、思い込みを破るというか、目を覚まさせないといけない。でも……、そこまで私がしてあげる義理はないのではないかとも思う。未唯のことを本気で好きだったとしたら、太一は彼女と地獄に落ちるべきだ。
 容易に想像がつく。
  赤い車で温泉に行ったという男性の件。鍵の件、コンドームの件もある。おそらく不倫相手はうちの太一だけではない。
これらの証拠を突きつければ、太一の目は覚めるだろう。あっち側からこっちへ戻ってくる。でも、戻ってきたらどうするの?
 そんな女に太一はのめり込んで一年も関係を続けていた。
 好きじゃない、愛していない、身体だけの関係だっていうけど、やはり信じられるわけがなかった。
太一が戻ってきた時、私は何を思うのか。離婚しないで頑張れるのか、わからなかった。
 だから、私はここで太一を助けるべきなのか? 
そこが問題だ。
 今、一番何をすべきか。それは、受験真っ最中の娘のことを最優先にすべきだ。一生を左右する正念場である。今すぐにでも受験できる環境を整えなくてはいけない。あと二日後には第一志望の面接試験だ。
 何てタイミングで不倫暴露なんだろう。泣きたくなる。
「俺を怒らせたな。お前の家に夜九時に行くから」
 スマホから和樹の怒鳴り声が聞こえた。
「は? いや、会えませんから。もう弁護士に頼んでいます。警察が見回りしてくれますから無理です。お願いだから来ないでください」
 太一が小さな声で応えた。
 その押し問答、まだやっているのか。いい加減にしてほしい。
 沙耶の受験を考えろ。もういい。私が何とかする。
「電話を替わって。私が話をつける」
「え?」
 太一は驚いた顔をする。
「あなたじゃ、話にならない。被害者同士で話し合うわ。たぶん、棚田和樹は話をしてくれるはず」
「まあ、もう打つ手がないし。これ以上悪くもならないはずだ。唯香がそうしたいならそうして?」
 唯香がそうしたいならそうして? って、どう言う意味。太一の言動の全てに腹が立つ。誰のせいなのよ。この馬鹿夫!
 太一を責めたいけれど、まずは和樹からだ。
 太一は心配そうに眉をひそめて隣にいる。その手で、その口で、棚田未唯と寝ていたと思うと非常に気持ち悪い。少しお尻の位置をずらし、数センチ距離を空けた。
「眉間に皺が寄ってるよ」
 太一に指摘される。今それどころではないのだけれど。私は眉間の皺を伸ばした。数回深く空気を吸う。
 隣を見ると、太一の背中は丸まっていて小さかった。私を怒鳴るときは大きく見えたが、本当はこんなに小さかったのか。こんな人だったのか。
 いつもモラハラにパワハラしてくる太一がしょげた顔をしている。なんだか笑えてきた。
 どれだけ棚田和樹から制裁を加えられ、恐怖を植えつけられたんだろうか。ありがとうとさえ思った。
「で、棚田和樹は何しにうちに来るの?」
「わからない。ちゃんと払えって言うことなのかもしれない。怒鳴るからよくわからない」
 太一はカタカタ震えている。
 いつも自分勝手で、私たちに威張り散らし、八つ当たりする夫の変わり果てた姿だった。
「寝取られたんだから、あっちだって怒るに決まってるわ。あなたがしたせいなんだから、当たり前でしょ?」
「警察も弁護士も家から出るなとしか言わない。何もしてくれない。もうダメだ。見捨てられた。棚田和樹は俺に話があるというし、このまま俺は殺されるんだ。もう俺は死ぬんだ」
 太一は涙ぐんだ。
「お前、俺の話を聞いているのか!」
 和樹が電話口で怒鳴っている。
 殺されることはないと思う。ただ、怒られるようなことをしたんだし、大人なんだから、責任は取るべきだよね。
 今の太一が棚田和樹の相手ができるかと言ったら、無理だろう。萎縮してしまっている。弁護士に任せるのが一番だが、それでは今すぐ解決はしない。
 推薦の試験まであと二日。
いいわ、やはり私がやる。やるしかない。
「もしもし、お電話替わりました。妻の唯香と申します」
 電話の向こうで息を飲む音がした。

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