”ありがとう”の言葉、私が諫められた瞬間
「私が、これだけやっている」
相手が私の思っていない行動や発言をしたとき、不満を抱き、「どうして自分んのことを理解してくれないのか」「自分は必要ないのかな」と思う。苦しいよと叫ぶ声と、なれない自分に光がなくなっていく。
なぜこんなことで悩んでいるのか、これに悩み正直に思いを伝えられない自分が嫌になってくる、こうして苦しむ私にある言葉、お話を交えた言葉が気付かせてくれたのである。私が以前のようには人に求めなくなったのもこのおかげかもしれない。頑張る人も、悩む人も、つらい人も、もう一度自分を見つめ直すときがあってもいい、今を考えるのだ。
お婆さんが近所の人に、愚痴っている。
「あんたの家の嫁はいいなぁ。うちでは私が暑い最中に買い物から帰って”ああ暑い暑い”と言っても嫁は知らん顔をしているのよ。
”何とか言わんかい”と言っても、”私が何とか言ったら、涼しゅうなるんか”とぬかす。
腹が立って腹が立って、”おまえは他人が来ると小笠原流かなんか知らんが笑顔して、ペチャクチャ喋るくせに、私にはろくにものも言わない”と言ったら、”よその人にペチャクチャ言わにやならんから、せめて家の婆になりと節約しなきゃ”とぬかしやがる。
こんな嫁がどこにいるじゃろうか」
「私がこんなに苦しんでいるのに少しも案じてくれない。薄情な人だ」
と恨んでいる。
「では他人の苦しみを、どれだけ親身になって心配しているだろうか」
と反省すると身が凍る。
ここまでの話を見る限り、どこにでもありそうな嫁姑問題といったところであろう。そして仲がどんどん悪くなっていくと思うだろう。だが、ここで終わらないのがみそである。では続きを・・・
「オレがこれだけ親切しているのに」
「私がこれだけ尽くしているのに」
”オレがこれだけやっている”の自惚れが怒りの元であり、苦しみの根源のようである。
「世話しているのではなく、世話になっているのだ」
「堪忍しているのではなく、堪忍してもらっているのだ」
と心を反転すればどうだろう。苦しみは半減するに違いない。
善に向かうのが悪いのではない。これだけオレがやっているという自惚れ心が怒りを呼ぶのである。
幼児のケンカは衝突も早いが仲直りも早い。今泣いていたかと思うともう笑っている。
小学生は一度衝突すると二、三日ぐらいは口を利かないが、中学になると一、二週間になる。
高校生になると一か月ぐらい、大学になると五、六ヶ月はかかる。
社会人ともなると、よほどの仲裁人でも入らぬ限り困難である。
老人のケンカになると、棺桶に入るまで絶望的になる。
オレがオレがの主張は、年を増すごとに強くなるようだ。
自惚れというものは自分で自分を締め付けてしまうものになる。いざ、気を付けようとするのだがつい口を滑らしてしまう。
他人の幸せが羨ましくて、それになれない自分に腹が立つ。腹を立てて自分も苦しみ、他人も嫌な気持ちにさせることだってある。その苦しみから少しでも抜け出す方法が一つあるとしたらなんだろか?5文字を自分の口から言いなさい。そして自分に気づかせるのだ。自惚れるな。感謝しろと。
最後にもう一つ”ありがとう”の言葉で自分を考えるとしよう
自分が一番苦労していると、各自思っている。
他人の幸せばかりが、目につき腹が立つ。
ホントは、一番のんびりしているのが私。
みんなは、ギリギリ一杯努力しているのだ。
これが事実と思えないから、
”おかげさまで”と感謝できず、
”ありがとう”の言葉が出ない。
読んでくださりありがとうございました。一つの気づきが喜びに、一言だけでも言ってあげてください。毎日の喜びを一つ増えることを願って。次回もよろしくお願いします🚢