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【小説】 あそこの毛

 宮川さんは、私の先輩だ。
 去年新卒で入社した私の2年先輩だから、今年25歳になる。
 上品で可愛らしくて、仕事が出来て、ちょっとおっとりさんで、なんと言っても、ポンコツの私にまで優しい。
 私はそんな宮川さんが大好きだった。

 だからこそ、宮川さんにどうしても伝えたかった。
 鼻毛が出ていると。

 宮川さんの鼻毛は、今日に始まったことじゃない。
 今の部署に配属されて、歓迎会で隣の席に座った1年前のあの時から、気づいてはいたのだ。宮川さんの鼻毛に。
 だけど、先輩の鼻毛事情に、何も出来ないポンコツのペーペーが口をはさむなんてことは考えられなかった。
 そう、今日までは。


 今日、宮川さんは朝からウキウキしていた。
 何か良いことでもあったんですか、と聞くと、「今日ね、友だちと合コンに行くのー」と、クルクルの髪をクルクルともて遊びながら宮川さんは答えた。「商社マンなんだって」

 私は焦った。大いに焦った。
 宮川さんを、このままの鼻毛で合コンに行かせるわけにはいかない。
 新人の頃からずっと、メンターとしてお世話になってきた。私がどれほどのポンコツぶりを見せても、おっとりさんの宮川さんが私にキツく当たることはなかった。
 今日こそ、その恩に報いなくてはならない。

 そうして、私の、私による、宮川さんのための、「ちょいとアナタ鼻毛出てますよ大作戦」の1日が幕を上げた。

 まずは、軽いジャブから。
「合コン、楽しみですね。ところで宮川さん。宮川さんって、たんぽぽの綿毛のこと、何て言います?」
「えー、たんぽぽの綿毛?えー、何だろう、たんぽぽの綿毛かなあ」
「ですよね。うちの家族、鼻毛って言うんです」
「えー鼻毛?どうして?」
 宮川さんが楽しそうに笑う。可愛い。でも鼻毛は出てる。
「む、昔、えーと、父の鼻にちょうど綿毛が吸い込まれたことがあるんですよ。それで、鼻から綿毛がピョコン、と飛び出して」
 我ながら、即興のわりによく出来た作り話だ。
 さあ、宮川さん。鼻毛にアテンションプリーズ。
「えー、面白い。ふわふわの、可愛い鼻毛だね」
「えっ、可愛い?あーまあ、そうですね、ふわふわで、可愛いかったです、うちの父」
 だめだった。
 全ての棘を無力化する宮川さん。可愛いものが大好きな宮川さん。作り話に、たんぽぽの綿毛なんてファンシーなエッセンスを入れてしまった私が悪い。

 気を取り直して、もう一度。
 コーヒー入れましょうか、と聞くついでに、さりげなく。
 今度は、現実的なテーマなので、男性社員に聞こえないように、小声で。
「今日合コン、ってことは、身体中の毛、処理してきたんですか」
「えー、身体中の毛?」
 大きい。宮川さん声が大きい。
 真面目で有名な佐々木くんの肩がびくっと反応したのを、私は見逃さなかった。
 私は小声で踏ん張る。
「ほら。脇毛にすね毛に鼻毛に眉毛。いろいろと処理が大変じゃないですか」
 種々の毛の中に、さり気なく鼻毛を紛れ込ませることに成功する私。これぞプロの仕事。
「あー、私、脇毛生えないひとなの」
 相変わらずデカい宮川さんの声。邪念を払いのけるかのように、佐々木くんがブツブツと独り言を言い出す。
「えっ、そうなんですか」
「そうなの。タモリと一緒。ふふ。じゃあ、コーヒーお願いね」
「かしこまり」
 またしても、私の作戦は塵となって消えた。
 っていうか脇毛生えてないのなら、鼻毛も生えてくんなよ。空気読めよ鼻毛。お前の生えるべき場所は鼻ではない、脇だ。脇なんだよ。

 そう心の中で鼻毛に文句をつけたが、でも大丈夫。
 まだまだ序盤。焦る時間じゃない。
 そんなに簡単に、私に宮川さんが攻略出来るなんて、思ってはいけない。

 昼休み休憩。
 宮川さんがトイレに立つのを追いかける。
「あれー、裕子ちゃんが化粧直しだなんて、珍しいね」
「そうなんです。ちょっと、メイク崩れてきちゃったなー、なんて」
 私は、いつもは鞄の中で重りと化している化粧ポーチを、ゴソゴソと漁る。
 カラン。
「なんか落ちたよー」
「あっ、すいません。ありがとうございます。あーコレ、鼻毛カッターですね」
「鼻毛カッター?そんなものがあるの?」
 来たぞ来たぞ来たぞ。チャンスだ。宮川さんが食いついている。
「そうなんですよ。よかったら、使ってみます?」
 さり気なく、鼻毛カッターを差し出す。
「えー、いいよー。だってそれ、裕子ちゃんの鼻くそがいっぱい付いてるんでしょう」
 可愛い笑顔で、宮川さんが私の鼻くそを指摘してきた。
 それまで攻撃を仕掛けているつもりだった私は、突然のリターンエースに、顔面デッドボールをくらった気分だった。
 そりゃそうだ。
 このカッターは、私の鼻くそまみれだ。宮川さんは正しい。
 先輩に、自分の鼻くそまみれの鼻毛カッターをすすめるなんて、私はどうかしている。
 反省にうなだれ、私は女子トイレから撤退した。

 午後の仕事をこなす。さすがの私も焦ってきた。
 刻一刻と終業の時間が迫っている。
 なのに、打てども打てども、弾は宮川さんにかすりもしない。
 かくなる上はもう、土下座をして鼻毛を切らせてくださいと頼み込むしかないのだろうか。
 そう悶々とする私に、またとないチャンスが巡ってきた。
「ねえ裕子ちゃん。ちょっと私の写真、撮ってくれない?」
 宮川さんが私の方に向き直ってスマホを差し出してきた。
「どうしたんですか」
「友だちの、結婚式ムービーに使う写真が必要なんだってー」
 私はスマホを受け取り、カメラを起動する。
 アップ。アップ。ドアップ。
 宮川さんの鼻、ロックオン。
 カシャ。
「…あれ。すいません、何か、間違えちゃいました」
 そう言って、撮れたての鼻の写真を宮川さんに見せる。
 完璧だ。鼻の下にチラリと顔を出しているそれは、まごうことなき鼻毛。誰がどう見ても鼻毛。ばっちり写っていた。
 私は勝利を確信した。
 これを見たら、宮川さんはすぐさまトイレへ立ち、あの憎き鼻毛を成敗してくれるに違いない。
 しかし、宮川さんは
「やだー。鼻の毛穴まで写っちゃってるじゃない。恥ずかしい。あのね、これくらい引きで撮ってね」
 と言って、引きの画にしたスマホを返してきた。
 そう。宮川さんは、私のミスを怒らない。次はこうしてね、と優しく諭す。それが宮川さん。愛すべき宮川さん。嗚呼宮川さん。どうして鼻毛に気づいてくれないの。

 そんなこんなで、もう終業10分前だった。
 時間になったらすぐに退社出来るように、宮川さんはデスク周りを綺麗に片付け初めていた。
 まずい。
 このままでは、宮川さんは鼻毛を出したままだ。愛する宮川さんに恥をかかせてしまう。
 追い詰められた私は、最後の手段に出た。
「宮川さん、鼻血。鼻血出てますよ」
「えー、うそー」
「ほんとです。しかも両方から」
「えー、うそだあ」
 宮川さんが、デスクから鏡を取り出そうとした。
 やばい。
「ほんとです!さ、これを詰めて」
 私は丸く造形したテッシュの鼻栓を2つ、宮川さんの鼻に押し込んだ。
「うわあ。そんなに?」
「そんなにです」
 鼻にティッシュを詰められながら、宮川さんが困った顔をする。
 しまった、ちょっとティッシュが大きかった。可愛い宮川さんが、可愛い北島三郎みたいになってしまった。
 しかしもう、後には引けない。これで鼻毛を奥に押し込むしか、もう道はない。頼む。少しの間だけ、合コンの間だけ、引っ込んいてくれ、鼻毛。
「くてぃでうぃきするの、くるてぃよー」
「退社する時には、血が止まってると思うので。あと10分くらい、頑張ってください」

 かくして10分後。
 可愛いサブちゃんは可愛い宮川さんに戻り、そしてついに、鼻毛はその姿を鼻の中に潜めた。
 それを見て、私は心のなかで歓声を上げた。
 ついにやり遂げた。私は、宮川さんのメンツを守ることに成功した。
 いってらっしゃい、宮川さん。素敵な優しい宮川さん。合コン、楽しんで来てください。

 その日、密かなミッションを成功させた私は、家に帰り一人晩酌を楽しんだ。
 今日は、頑張った自分へのご褒美だ。
 いつもより少し高いツマミと酒を愉しんでいたそのとき、宮川さんからメールが届いた。
『合コン楽しんでいます』
 というメッセージに添えられた写真には、いつもどおりの鼻毛をした宮川さんが写っていた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!