2020年2月3日の日記「バイト、テニス、電子書籍の3本でお送りします」

 今日は先日辞めたバイト先に制服を返しに行き、完璧に雇用関係が消失した。
 約半年間務めたが、4月以降の新生活に向けた金を貯めるために働いていたため、ほとんどバイト先の人々と交友を持つことがなかった。
 最初の内は飲みや遊びに誘われていたが、貯金目的で働いているバイト先の、どうせ半年そこらで縁が切れる人達と親睦を深めるために金を使うのは無駄だと考え、毎回理由をでっち上げて断っていたら、いつしか誘われなくなり気づくと俺の所属していないLINEグループが出来上がっていた。
 
 これまでの人生で9回引っ越し、あらゆるコミュニティに所属してきたが、今回は友達作らなくていいやと判断し、周囲との交友を完璧に拒むときがある。大抵近い内にまた引っ越すと判明しているときにその対応をするのだけど、彼らの目に俺はどう映っていたのだろうか。自分から話しかけることはせず会話も淡白、口を開くときは必要な事務的会話のみ。んで、ずっとスマホ見てる。完全にNPCじゃん。それかモブ。


 TVを付けたらテニスの試合をやっていた。見て思ったけど、テニスのコート脇ぎりぎりに常に人が控えて、アウトになったボールをその人達が全速力で取りに行くあのシステム。あれが一番効率いいのは分かるがもうちょっと、どうにかならんのか。緊張感のある試合の中であそこだけがなんだか滑稽というかミスマッチすぎる。こぼれたボールを絶対に逃さないぞと獰猛にボールをねめつけ、脱兎の如く駆ける彼ら。もしかしたら、試合中の選手と同等、いやそれ以上にボールに対して真摯に向き合っているのかもしれない。


 1年ほど前から漫画や小説などの紙媒体を買うのを諦め、電子書籍に切り替えた。現状、ゲームソフトだけで本棚を3つ占領している状況を鑑み、近い将来、物を増やすことに限界が来ると感じたからだ。
 んで、電子化して暫くたった最近思うことだが、やはり電子書籍はあまり良くない気がしてきた。

 タブレット上に入っている本のデータは紙媒体と比べ、死んでいる情報という感覚がする。これは紙の方が温かみあるとか、教育上紙の方が内容を理解しやすいといったような観念的な話ではなく、本との距離感にある。
 なんというか、電子書籍は情報までの距離が遠いのだ。
 紙本は常に部屋の本棚に収まっており、ぱっと見で自分が持っている本を確認することができる。
 一方、電子書籍はアプリを開き、持っている本の中から目当ての本までスワイプするか、タイトルを検索するという工程を踏まなければ、自分がどういった本を持っているか確認できない。数が少ない内はいいが、次第に本の総数が増え、ひと目で確認することが不可能となっていく。これが大変よくない。

 人の記憶はいいかげんだから何かしらの教養めいた本を読んで感銘を受けても、数か月たった頃には細部が朧げになり、1年もたてばもうその本の内容は9割方記憶から抜け落ち、ぼんやりとした印象しか残らない。
 紙だと気軽に触れられる本棚にある為、時折その本のことを思い出すことができるが、電子書籍だと前述の通り、本との距離が遠くそれも難しい。
 やがて読んだ内容を忘れ、何時しかその本の存在自体も忘れていく。持っているのにその本の情報は、はるか遠くにあるデータのアーカイブだ。そんなもの持っていないのと一緒じゃないか。

 最適解は基本電子で買って、本当に気に言った本だけは紙媒体で買い直すことだろう。でもそんなお金の余裕ないよ~。とほほ~。


今日おぼえた言葉のコーナー
 嘶く(いななく)…馬が声高く鳴く。
 衒い(てらい)がない…ひけらかさない。


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