(翻刻)からくり / 大倉燁子

「あなたのような美男子でお金もあり、地位もある人がどうしていままで独身でいられるのかと、みんな不思議がっていますよ」
「今日はそのわけをひとつお話しようと思ってるんです」
 K氏は半白の髪を撫でながら語るのだった。
「ながく海外で暮らしていて婚期を逸したため、面倒臭くなったと云うのも一つの理由です。のんきと云えばのんきだが、老女中一人を相手ではまことに殺風景で味気ないものですからね。
 友人を訪問して帰るときまって僕も女房を持とうかな、と考える。しかし、いまさら見合結婚でもあるまい、見ず知らずの女と明日から家庭を持とうなどとは考えられんですからね。僕は何んとなく悶々として日を送っていたんです。
 そこへ現れたのが、今話そうとする主人公? 美加と云う女性でした。
 美人かって? いまで云う八頭人なんだろうな、現代的の風をした表情の豊かな頭のいい女だった。独り者の気軽さからずいぶん道楽もしたので女には相当眼が肥えているつもりだったが、その女を一目見るとすっかり魂を奪われてしまった。彼女の方でもまんざらではなさそうだったが――。
 二人の交際はいつか友人の境を越えてしまった。が、まだ僕は彼女の身分も知らなかった、で、ある日、奥多摩へドライヴした帰途、それとなく訊いてみると、旧伯爵の令嬢だそうだ。未婚者だとばかり思っていたのに、既に夫があって、その夫は上海にいると云うのにびっくりした。
『何の御職業ですか?』と恐る恐る訊くと、
『バイヤです』と云う。
『何故あなたも御一緒に上海においでにならないんです?』
『主人は厳格な人で妻の自由を束縛しますからね。主人がいたら男の方と御交際することなど、許しませんわ。主人一人を相手に暮らすなんて、およそ退屈で息がつまりますからね』
 と云ったが、急にしおれて、
『でも、私――、近々に上海に行かなければなりませんの』
 淋しそうな風をした、眼がうるんでいるのを見て、僕もはなれがたい感情に押しつぶされそうになったものです。
『行かないわけにはゆきませんか』
『何のかのと云って、やっと今まで延ばしていたんですが。もう延ばせませんの、いよいよお別れですわ』
 別れる時、彼女は風を赤くして囁くように云うのだった。
『だって、あなた、私、体に変調のあるのに気がついたんですもの』と云ってしくしく泣き出した。迂闊な話だがその時まで僕はそれについて何も考えなかった。ちょうど交際を始めてから三月目になっていたんです。
 僕は狼狽して、
『それじゃ一日も早く旦那さんのところへ行くこってすね』愚図々々していると重大事件が起るような予感がして身内がぶるっと震るえた。咄嗟に僕は女を説きつけて、この責任から逃れなければならないと腹をきめたんだ。
『僕の力で出来る事なら何んでもします』
 と云うと、彼女は頬を赤らめて、さも云い難そうに、
『いつでも主人からお前は浪費家だって云われることなんですが、直ぐ出発するとなると――』
 旅費がないんだなと合点して、
『さしあたりの仕度料に使って下さい』
 貰らって来たばかりの月給袋をそのまま彼女の手に握らせて、なお明日にも金の用意をして置くから遠慮なく取りに来て下さいと云い添えたものです。
『お金で解決をしようとお思いになるのでしたら、それはあなたのお考え違いです。私は主人があっても一生あなたから離れませんよ』
 そう云われるとこっちだって悪い気持はしない、金で解決しようと心の中では決心していたのだったが、この女を自分から手放すのはいやだった、まったくずるい話だが――。
 彼女が出発する日、羽田まで見送ろうと云うのをひどく拒んで、
『見送り人にあなたを見せたくないから』
 なるほどそれももっともだと思って、出発の前夜充分名残りを惜しんで、翌朝早々に別れた。
 一ヵ月あまりすると絵ハガキが来た。二ヵ月ほどたつと、スカートのスナップがはずれて困る。コルセットをはめられないのでとても不恰好で、鏡を見るたびに自分でも吹き出したくなる、お別れしてよかった、この姿をあなたには見せられないと思う、きっと愛想をおつかしになりますよと、ペンの走り書きだった。
 しばらく便りがないので心配していると半年ぶりに、
『可愛いい女児を産みました、が、月足らずで育てるのに大変手がかかるそうです。が、無事だったので御安心下さい』とかんたんな便りが上海から来ました。
 父親になった喜びを僕は人知れず味わった。
『香美と云う名をつけました』
 と云って来てから、まもなく自分だけ帰朝すると云って来た。
 二人はまた元通りになった。一度香美を見たいと思ったが、愛情の深くなるのを恐れて会わなかった。
 女児が三歳のお祝いをする日が来た。
『洋服でなく、後々のためを思って、和服にするから、あなたの趣味に合った反物を買って来て下さい』
 それを真に受けた僕は、どんな柄がいいと気をもんで、呉服やの番頭に相談した。祝物を届けるために、僕は彼女の家を訪ねた。やかましい姑がいるからと云って、絶対に訪問を拒んでいた彼女の家に――。
 門のブザーを鳴らすと、隣りの妻君が出て来て、
『奥さんも、旦那様もお留守ですよ』
 僕はせめて香美の顔でも見て行こうと思って、
『お嬢ちゃんは?』と訊くと、
『お嬢ちゃんなんかいませんよ。御夫婦二人ぎりのお気楽なお暮らしですからね』
『旦那様はいつ上海からお帰りになったんですか』
『何処へもいらっしゃいませんよ。旦那様は旅行嫌いですから。上海には奥さんの妹さんがいるそうですが』
 何のためにながい間僕を欺ましていたのだろう? 僕がやっと気がついたのは、金をとるためと、まかり間違えば結婚出来る独身者だと云うことだけらしかった。
 これだから女はいやなんだよ。結婚も一つの罠だからね」
 K氏は吐き出すように云うのだった。

初出:『新生活』(鱒書房)昭和32年10月号

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論創社の黒田明さんから掲載誌のコピーをご提供頂きました。ここに記して御礼申し上げます。


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