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運河に関する雑学①「ファラオの運河」

前回の記事

では、運河についての全体的なお話をしていきました。
その中で、三大運河(スエズ、パナマ、キール)について触れましたが、やはりこれらの運河は歴史を大きく動かしたもの。
その建設は古い時代から試みられ、紆余曲折を経て完成に至っています。
そこで、今回から、それぞれの運河の歴史について触れていきたいと思います。

まず最初に取り上げるのは、地中海と紅海を結ぶスエズ運河

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です。
今回は、スエズ運河建設までのこの地域の運河の歴史について取り上げてみます。

1,スエズ運河の前身

遥か古代から、地中海交易、そして紅海やアラビア海、インド洋を水上交通路で結ぶ試みは行われてきました。

遥か古代、紅海は現在よりかなり北側までのびていました。
現在はスエズ運河の一部を構成するグレートビター湖

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は、かつて紅海の一部でした。

グレートビター湖付近からナイル川に抜けるルートの運河の建設は、ヌピア(ナイル川東岸地域~紅海までの地域)への影響力を拡大したい古代エジプトのファラオたちにとって、成し遂げたい事業の一つでした。

2,最初に運河建設を計画したファラオたち

もっとも古い運河建設計画は、第12王朝の第2代ファラオ、センウスレト1世

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によって策定されたと言われています。
センウスレト1世は、ヌピアや砂漠地帯に支配地域を広げ、エジプトの国力を高めた名君でした。
また、高まった国力をフル活用して、エジプト全土でインフラ整備事業を展開しました。彼が築かせたオベリスク

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は、当時の姿(立ったまま)をとどめる最古のものと言われてます。
その一環として、ナイル川を起点とする灌漑水路網を整備。さらに紅海とナイル川を結ぶ運河も企画したと言われています。

彼の時代に運河が完成したかは諸説ありますが、4代ファラオ、センウスレト2世や5代ファラオのセンウスレト3世

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も同様に運河建設を志しました。

特に、センウスレト3世は身長はおよそ2m(!)。頭脳明晰、政治力やカリスマ性にも優れたリーダーでした。
ヘロドトスの『歴史』にある「セソストリス」のモデルになった人物とも言われています。
セソストリスは、アナトリア半島(現在のトルコ)を越えてヨーロッパに侵攻し、ヌピアやエチオピア、更にはユーフラテス川河畔まで征したとされる古代エジプトの伝説的なファラオです。

これらのファラオが建設した運河はナイル川の支流から延びる灌漑水路を応用した淡水運河でしたが、土砂の堆積が激しく、維持は非常に難しいものだったといわれています。

3,大規模運河を作り上げたファラオたち

第12王朝のファラオたちが作った運河を拡充し、ナイル川と紅海を結ぶ大規模な運河を建設しようと考えるファラオが現れたのは、エジプト第26王朝です。
第2代ファラオ、猫…

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間違えました。ネコ2世

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(在位紀元前610年~595年、エジプト第26王朝2代ファラオ)
は、第12王朝期の運河の経験を踏まえて、新たな運河の建設を試みます。

ネコ2世、名前こそ可愛らしいですし、世界史でその名前を見かけることも殆どありませんが、なかなか激動の時代を歩んだファラオです。

この時代、エジプトはアッシリアの支配から独立し、シリアやパレスティナ地方への影響力を拡大します。
しかしその後、紀元前605年、新バビロニア王国との戦闘(カルケミシュの戦い)で敗退。国力が低下したエジプトの立て直しを目指し、地中海世界との関係を強化しようとします。

ネコ2世が目を付けたのは、グレートビター湖の北端からナイル川に向かって存在する大きなワジ(涸れ川)です(ワジ・トゥミラット)

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ワジ(涸れ川)
年間をとおして降水量が蒸発量より少ない高温乾燥地域に見られる。
本来、川になるはずの地形が普段は干上がっており、一時的な豪雨の時のみ水流が出現する。
(Wikipediaより)

ワジは平坦で流路がほぼ固定されているため、古代から隊商の交易路としても使われていました。
ワジは、水がない時は陸上交通路として用いられることが多いのです)

ちなみに、砂漠で事故死するケースの死因で最も多いのは、「溺死」であると言われています。
これは、ワジを普段交通路としていて、突然の豪雨による鉄砲水に巻き込まれる人が多いからだそうです。

人々は、この道を陸路ではなく常設の水路として活用できれば、より大量の輸送ができるという発想を持ったのでしょう。
交易だけではなく、軍事的な用途も想定されたに違いありません。

ネコ2世は、その政策の一環として、ワジ・トゥミラットを開削し、紅海とナイル川を結ぶ運河建設を計画したのです。

また、水軍の機動力を利用し、新バビロニア王国を軍事的にけん制したいという意図もあったのでしょう(紅海からアラビア半島に軍を上陸させれば、新バビロニア王国軍の背後を突ける)。

当時のエジプトは、ナイル川を支配する有力な水軍を保有していました。
その水軍の優位性を生かそうというアイデアは的確だと言えるでしょう。

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当時のエジプトの船。
パピルスの原料にもなるカミガヤツリを束ねて作られており、全長は25mとかなり大きいものでした。

しかし、この水路を開削するには大きな問題点がありました。
このワジには洪水のたびに、大量の土砂が流れ込む(=定期的に水路が土砂で埋まってしまう)ことです。
さらに、当時は紅海の水位が高く、そのまま掘りぬくと紅海の海水がナイル川に入り込む危険がありました。

このような問題点を技術的に解決できず、さらに新バビロニア王国との戦いが激しさを増す中、運河建設事業はネコ2世の死と共に中止されてしまいました。

3,「ファラオの運河」を完成させたのは…?

ネコ2世の事業を受け継いだのは…実はエジプト古代王朝直系のファラオではありません。
エジプトに侵攻し、ナイル川一帯を支配、さらに古代ギリシアの諸都市とも大戦争を繰り広げた、ある東方世界の大王でした。

ヒント…

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今回は長くなりましたので、続きは次回という事で。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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