見出し画像

日本史のよくある質問 その8 伽藍配置って何?②

前回の記事では、
・伽藍とは、寺院における主要構造物の配置である
・主要構造物のうち、塔についての概説
・主要構造物のうち、本堂についての概説
について書きました。

今回の記事では、「本堂」についてもう少し掘り下げていくことで、仏教の信仰の変遷と、伽藍配置の変遷を重ね合わせていきたいと思います。


まず、前回の記事で、本堂は本尊(仏像)を安置している建物である、ということに触れました。

そして、現在寺院に参拝に行く場合、多くの人は本堂の仏像に手を合わせに行きますよね。

読経など宗教行事も本堂で行われることが多く、本堂は現在の寺院における信仰の中心施設となっています。

そして、本尊はその寺院の魂ともいうべき祈りの対象です。

では、昔から本尊に対する祈りが寺院における信仰の絶対的な中心だったのか…というと、必ずしもそうではないのです。


このことを理解していくためには、
「立派な寺院がなぜ作られるようになったのか」
というところに目を向けていく必要があります。


日本で最初に立派な寺院が作られるようになったのは、仏教が公式に伝来した538年(元興寺縁起の説を採ります)、飛鳥時代です。

ちなみに、日本史で出てくる時代区分で「飛鳥時代」の前は「古墳時代」です。

では、古墳時代から飛鳥時代に変化していく中で古墳は全く作られなくなったのかというと、そうでもありません。
例えば、壁画が発見された高松塚古墳は建設された推定時期は710年に近いところ(平城京遷都の直前=奈良時代直前)くらいです。

上の画像は、高津塚古墳壁画です。
この頃の古墳は規模は小さいのですが、内部に非常に緻密な壁画が描かれていました。「装飾古墳」とも呼ばれます。

歴史を学ぶ際に、「時代が変わると、社会制度も価値観もガラッと変わる」イメージを持ちがちですが、実際には、前の時代の環境を受け継ぎながら徐々に変化している…と考えた方が自然です。

つまり、飛鳥時代の間は、
古墳は徐々に小型化し、下の大仙陵古墳のような巨大な古墳は作られなくなる

一方で、
・法隆寺や飛鳥寺に代表される、大陸の建築様式を入れた寺院が建設されるようになる

という二つの流れが同時並行で進んでいたということです。

ちなみに、法隆寺が最初に創建された若草伽藍跡では、「瓦」が出土していますし、飛鳥寺は日本で最初に瓦が使われた建物と言われています。
実は瓦は仏教と同時に大陸から伝来しているので、瓦を用いた建築というのは当時の最先端技術を用いていることになります。

今でいえば、東京スカイツリーのようなものでしょうか。

このように、「古墳」と「寺院」が主要な建築物の座を入れ替わっていくのは、偶然ではありません。

今も昔も同じようなところはありますが、巨大建築物・最先端の技術を用いた建築物は「権威を示す」ために作られることが多いです。
これは、世界に残されている遺跡の数々を見れば納得できるかと思います。

飛鳥時代の寺院で注目すべきところは、建立の発願者(建てた人)が個人であるという点です。
例:法隆寺=厩戸王(聖徳太子) 飛鳥寺=蘇我馬子

個人が何のために、莫大な費用をかけて寺院を建立したのかというと、
・一族の権威を示すため
・一族の繁栄を願うため

と言われています。

この「一族の繁栄を願う」という部分に、これは現在の日本人にも受け
継がれている発想が出てきます。
皆さんも、「ご先祖様」に何かお願い事をすることがありませんか?

飛鳥時代以前にも、一族の繁栄を祈る対象として、古来からの神々の他に「祖先の霊」がありました。いわゆる「祖先崇拝」です。
その象徴的な施設がかつては古墳だったのですが、それが寺院に持ち込まれてきます。

これは、後の聖武天皇の時代などに見られる鎮護国家を目的とする「国家仏教」に対して、「氏族仏教」とも呼ばれます。

この話は、前回の記事に出てきた「五重塔の基礎に、仏舎利と共に勾玉が入っていた」という話につながります。
勾玉は、古墳時代の高貴な身分の人の代表的な副葬品で、装飾品であると同時に呪術的な意味を持つ宝玉です。
その勾玉を仏舎利と一緒にしておくということは、初期の仏教信仰には「祖先崇拝」の要素が少なからず入り込んでいたことを意味します。


ここで初期の寺院についてまとめると
・一族の権威を示すため、大陸様式の立派な寺院を個人が建立
・仏舎利と勾玉を一緒に安置し、祖先崇拝も行う
ということになります。

さらにここに、大陸伝来の仏像(後に国産の仏像も加わる)に対する信仰も併せて行われる方向で、初期の仏教信仰は形作られていきます。

この辺りを理解していると、初期の伽藍配置について見えてくるものがあります。

これは、主だった伽藍配置の一覧です(実教出版「日本史B」より)。

これを見ると、
最初期(飛鳥寺式)は、塔が中心で金堂がそれを取り囲むようにあります。

一方で、時代が進むにしたがって本堂が中心になり、塔が外側に追いやられていくのがわかるでしょうか。

これは、仏教信仰で祖先崇拝の要素が薄まり、仏像に対する信仰が重視されるようになるにつれて、本堂が重視されていく傾向を表しています。


しかし、それだけではあまりにも大雑把なので、もう少し詳しく見ていきましょう。

四天王寺式は本堂・塔・中門が南北に一直線です。
方位にも上下関係があるので、それに基づいて見るとこの配置にも意味があります。
南北で考えると、南が上位、北が下位です。
つまり、四天王寺式は南にある塔が上位、北にある本堂が下位です。

次に、法隆寺式(本堂が東・塔が西)です。

浄土の方角(西)を意識し、塔を西に配置したと考えられます。
※創建時の若草伽藍は、四天王寺式と同じだったようです。
ただ、東西に並置したということは、南北に配置した四天王寺式に比べて金堂の地位が上がっているとも考えられます。
(並置なら、門をくぐると両方同時、ほぼ等距離に見える)

一方、法起寺、観世音寺、川原寺などは、本堂と塔の位置が法隆寺式と逆です(塔が東・本堂が西)。
この配置は、
左右尊卑(左が上位で右が下位)
・東西では、東が上位・西が下位
という考えに基づいていると考えられます。

前後・左右・上下・東西・南北は、それぞれ上位と下位の関係を表していますが、これに基づくと
前=左=上=東=南は上位
後=右=下=西=北は下位
です。
このお話に対応するように余計なものを省くと
左=東=上位 右=西=下位 です。
となると、この伽藍配置では東にある塔が上位、ということになります。
「左が東」という感覚に違和感を感じるかもしれませんが、「南が上」なので、私たちが普段見ている地図を上下逆にしてイメージすると良いと思います。

つまり、四天王寺、法隆寺、法起寺、観世音寺、川原寺は、発想こそ違いますが、塔を重視していた時代の伽藍配置ということになります。


ここまでをまとめると
・飛鳥寺など、最初期の伽藍は塔が中心
・四天王寺式は上位の南に塔があり、南北に一列
・法隆寺式は、再建時に浄土のある西に塔を配置
・法起寺などは、東=左=上位の考えで、東に塔を配置
・それ以降は塔がどんどん外に追いやられていく

ということになります。

ちょっとまとまりが悪いですが、長くなったので今回はここまで、ということで…。
次回は、伽藍配置のもう一つのポイント、「回廊」を中心に、他の施設との関係を読んでいきます。
回廊を理解すると、法隆寺式以降の伽藍配置も見やすくなると思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


もし、読者の方からのご質問があれば記事化していきます!
(時間はかかると思いますが、少しずつ記事にしますので気長にお待ちください<m(__)m>)

TwitterのDMなどで、お気軽にお問い合わせください。
更新情報もこちらで発信します。
また、私がいいな、と思った記事、気になるニュースなども気まぐれにつぶやきます。

サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。 また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。