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燃えよ香港

2014年の「雨傘運動」の再来とも言われる、ここ数日の香港におけるデモ。

#COMEMO #NIKKEI

遂に警官隊との衝突にまで事態は発展しました。

今回の事態は一体なぜ起きたのか。
それを知るために、香港の成り立ちについて追っていきたいと思います。

1、香港の立地

香港は、中国南東部、珠江の河口東岸にあります。

対岸には元ポルトガル植民地のマカオ、また、少し東シナ海を東進すれば台湾があります。

19世紀半ばにはイギリスの直轄植民地となり、同国の極東貿易の拠点として発展しました。
第二次世界大戦後も、中国と西側諸国、そして海外に拠点を構える華僑たちとの経済交流の中継地として重要な機能を持ち続けてきました。
このような歴史的背景が、現在も香港を「アジアの金融センター」の一角たらしめている大きな理由です。

香港は、大きく分けて「香港島」「九龍半島」「新界」という3つの地域に分かれます。

・香港島

アヘン戦争後の1842(天保13)年、南京条約によって清からイギリスに割譲されました。
その後、北部地域が開発され、現在に至るまで香港の貿易や行政の中心地です。
ちなみに、この地域はそれ以前は小さな村が点在するのみで、その村の中で線香を主産業とするものがあったことが「香港」の名の由来とも言われています(諸説あります)。

・九龍半島

香港島の北の対岸には小さな半島があります。
これを九龍半島といいます。
この地域は、アロー号事件後の1860年、北京条約によってイギリスに割譲されました。
その後、中国本土との通商拠点として発展した歴史を持ちます。

・新界

さらにその北側一帯と長洲島などの小島を合わせた地域が新界。
1898年に、99年の契約でイギリスが租借した地域です。
当初、他地域に比べて発展は遅れていましたが、ニュータウンなどの建設により現在は都市化が進んでいます。


2、香港発展の歴史

また、香港はイギリスのアジアにおけるショーウィンドーとのしての役割も担ってきました。
例えば上水道を1863年に、ガス灯

を1864年にアジアに先駆けて整備。
(現在も、タデル・ストリートに現役のガス灯があります。映画のロケにも使われますね)
大英帝国の威光を存分に見せつけました。

香港の1900年当時の人口は40万人程度だったとされていますが、現在の人口は740万人を数えます。
これは、香港がその特性上、中国本土からの移住者を集めやすい環境にあったからだと考えられます。
19世紀、香港はお茶の輸送船(ティー・クリッパー)

などの大型帆船が頻繁に出入りする、アジア有数の貿易港でした。
そのため、経済的に成功を夢見る人たちが多く移り住むことになります。
さらに、政治的理由で迫害を受けた人たちなども、続々と香港に移住してきたのです。
当初はその出身地別でコミュニティーを作っていましたが、現在はその壁は低くなっています。

1980年代になると、香港と中国本土の経済的つながりが強まります。
その理由は、香港における工業の構造改革です。
香港の工業化は、軽工業から始まりました(多くの国でそれは定番ですが)。
例えば造花です。
現在でも、造花のことを「ホンコンフラワー」と呼びます。
1949年、李嘉誠氏

が香港にプラスチックの工場を作り、造花を売り出したところ、「ホンコンフラワー」として大当たりしたことがその由来。
李嘉誠氏は現在、世界でも指折りのの富豪です。
香港では他にも、豆電球や衣類の生産なども行っていました。

しかし、その後家電やICなど、資本集約型に工業の形態が変化。
安価で豊富な労働力が必要な軽工業の工場は、中国本土の広東省に移転していきます。
同じ頃、新界に隣接する深圳

が、中華人民共和国最高指導者(当時)鄧小平

の指示により「経済特区」となり、外国資本に対して公に門戸が開かれたことも移転に拍車をかけました。

そして、これらの商品は香港から世界各地に輸出されていきました。
1988年、香港のコンテナ荷役作業量は世界一になっていますし、現在もアジア地域のターミナル港として重要な地位を占めています。

そして、香港は貿易港以外にもう一つの顔があります。
それはアジアの金融センターとしての顔。
自由貿易港である香港は、世界各地からモノが集まると同時にカネが集まりました。
ドル、円、ユーロ、ポンド、元など。
香港は、これら世界中の通貨を自由に交換し、投資できる世界有数、そしてアジアトップの金融センターでもありました。
現在、その役割はシンガポールや東京なども担っており、香港の独壇場というわけではなくなりましたが、今でもアジア有数の金融センターであり続けています。


3、映画に見る香港の「自由」

「中国語」は一つの言語形態ですが、地方によってかなり発音や細かい単語の使い方は異なります。
(日本語でも、地方によってかなり独自の「方言」がありますよね)

中国で標準語とされるのは北京語です。
1900年代に入り、中国政府は「国語統一事業」に乗り出します。
(この時の中国政府は国民党です)
近代化には言語の統一が行われるべきだと考えたのです(これは日本の明治維新の影響が大きいようです)。
その結果、北京語が標準とされ(新国音)ました。これは、中華人民共和国となった後も「普通話」として中国語の標準語とされています。

共産党政権下の中国では、映画は国家統制が厳しい状況でした(プロパガンダ映画も多かった)。
一方、イギリス植民地である香港には中国の統制は及びません。
自由な映画、そして香港では広東語が使われていたため、映画でも広東語が用いられました(中国映画は北京語)。
広東語の映画は、華僑にも好評でした。なぜなら、華僑の出身地は広東省や福建省など、中国南東部の地域が多かったからです。
こうして、世界的に「香港映画」は評価を高めていきます。

中でも人気を博したのがブルース・リー

に代表されるようなカンフー映画です。
香港は、「自由」を謳歌するかのように多くのエンターテイメント映画を世に送り出しました。

1980年代に入ると、香港映画は世相を反映してスタイルが変化していきます。
1984年、イギリスは返還期限が迫った新界をめぐり、ひとつの決定を下しました。
それは「香港全域の中国返還」
新界は99年契約の租借(レンタル)ですが、香港島と九龍半島は割譲(永久に譲り渡す)ですので、返還は新界だけで良いはず。
しかし、イギリスは香港島と九龍半島も返還することを決めたのです。

ただし、返還には条件がありました。

・香港は、「中国香港」という名前で外国で自由に活動ができる
・香港の社会・経済制度は、50年は「1つの国家・2つの制度(一国二制度)」として維持される

というもの。
つまり、香港は返還後50年、事実上の別の国として活動を許される。
返還が1997年ですから、2047年まではこの制度が維持されることになります。
しかしこの決定は、香港の人々を不安に陥れました。

さらに香港の人々の不安を増幅したのが、1989年の「天安門事件」

でした。
中国の北京で民主化を求めた人々を人民解放軍が蹂躙、多数の死傷者が出たとされる事件です。
この事件で香港の行く末に人々が不安を覚え、イギリス連邦所属のカナダなどに移住する動きが強まりました。

そんな世相の中作られたのが、「人は国を選べるのか、国とは何か」というテーマで作られた『滾滾紅塵(日本名:レッドダスト)』などです。

レッドダスト
イム・ホー監督が抗日戦争・国共内戦下の上海における恋愛を描いた作品。小説家・張愛玲(アイリーン・チャン)と、日本に亡命した思想家・胡蘭成の恋愛をモチーフにしている。
(Wikipediaより。一部改変)

香港映画と言えば派手なアクションやコメディーというイメージを覆す秀作と言えそうです。

中国香港は自由である、という気風は、言語や映画の世界からもうかがい知ることができますし、世界が香港を金融センターとして利用しているのも、「自由な香港」であるからこそ。

中国政府の支配が強まるにつれ、その「自由」が失われるのではないかという懸念が強まり、前回の「雨傘運動」そして今回の大規模デモにもつながっています。
今回のデモでは、「逃犯条例改正」を巡り、若者たちだけではなく財界も強い懸念を示しています。
この条例改正は、決定的に香港の司法の独立を棄損するものと考えられるからです。
この点に関しては詳しく解説している記事

がありますので紹介させていただきます。

自由を守るため、立ち上がった香港市民。


私は政治的発言は控えてきましたが、今回だけは言わせていただきます。
燃えよ香港市民。
自由の敵と戦う皆さんを、私は心から応援します。

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