見出し画像

小説 「長い旅路」 7

7.新天地を求めて

 誠に不本意ながら、父と2人で地下鉄に乗って出かけ、作業所の最寄り駅で、支援員と落ち合う。
 俺は、未だにこの「相談支援専門員」という職業が、よく解らない。俺の担当であるはずだが、彼は いつも俺ではなく両親の相談に乗り、その要望を叶えている。(母が役所に申請して、紹介されたのが彼だ。)
 定期的に、彼が家に来て、父か母を交えた3者面談がある。おそらく、俺の健康状態や生活状況を把握し、社会復帰に向けた支援をするのが、彼の仕事なのだろう。

 俺の両親は、この「檜村ひむらさん」を、とても信頼している。30代後半だろうか?専門的な資格をいくつも持っていて、医療制度や福祉サービスというものに、非常に詳しい。
 駅での、2人の様子を見る限り、彼と父の間では、俺が「椎茸栽培の仕事に興味を示した」ということになっているようだ。


 作業所に着くと、オフィスの片隅にある応接スペースに案内され、俺達3人の向かい側に、社長なのだという50代前半くらいの男性と、20代前半くらいの男性社員が座った。
 今日は、履歴書は持参していない。インターネットから勝手に応募したのも父だ。どういう話になっているのか、俺は知らない。
 作業所側の2人が持っている資料が、父がwebサイトからの応募時に入力した情報のようで、俺の名前や職歴が記載されているのが見える。

 社長を前に、俺は挨拶すら まともに出来なかった。頭を下げて「よろしくお願いします」とは言ったつもりだが、口が動いていない。自分でも判る。
 社長は、別段 気に留めていないようだった。彼は、2本の人差し指で四角い形を描きながら、俺に【手帳】の提示を求め、俺は『精神』と『身体』の2種類を机に並べた。
 社長は、国際空港でパスポートを見る職員のように、至って真面目な顔で、それを開いて確認する。
 手帳が返却され、いよいよ本題に入ろうかという時。資料に「場面緘黙症」に関する記載があったようで、社長は父に詳細を尋ねた。父は平然と「息子は今、母親以外の人間とは満足に話せない」と言い切り、母から伝え聞いたのであろう「医師の見解」を述べた。
「小さい頃から、人見知りするほうだったんですが……特に、耳が悪くなってからは……自分の『発音』に、自信が持てなくなったみたいで……」
人見知りのことは、嘘ではない。
 社長も、若い社員も、うんうんと頷きながら聴いている。
「でも、こいつは真面目なんですよ。山奥の養鶏場で、毎日、卵を何万個と集める仕事を、5年くらい、ずっと……身体が壊れるほど頑張って……」
父は「どうか息子を雇ってやってくれ」という願いを露わにする。
 どうやら、父と檜村さんの解釈では、俺が日常的に作業着ばかり買っていることが「どこかで働きたい」「体を動かす仕事がしたい」という意志の現れである……ということになっているようで、彼らは熱心に社長にそれを語る。俺の【労働意欲】をアピールする。
 それを聴いた社長は、至って真面目な顔で「なるほど」と言って、手元にある用紙に、何かをメモしていた。

 やがて「現場を見てもらおう」という話になり、若い社員を除いた4人で設備の中を廻ることになった。
 まずは、椎茸が栽培されているのだという建物に案内された。ガラス窓のついたドアの向こうで、倉庫のような部屋いっぱいに棚が置かれ、椎茸が生えた四角い菌床が無数に並んでいる。棚の間で、防塵マスクや帽子によって目元以外はほとんど隠れた、みんな同じグレーの作業着を着た人達が動き回っている。こんな所で働いたら、誰が誰なのか、判らなくなりそうだ。(作業着の、額と背中に名前が書いてあるらしい。)
 その建物の中には、同じような部屋がいくつも並んでいて、部屋ごとに菌床の「ロット」が違うという。
 更に、椎茸を植え付ける「菌床」の材料にする おが屑が大量に保管されている倉庫と、それに米ぬかや貝殻の粉を混ぜ込む部屋も、ガラス越しに見せてもらえた。(菌床の材料は、その後 整形・滅菌処理されて、そこに椎茸の菌を植え付けるそうだが、その工程は雑菌の混入を防ぐため、ごく限られた人しか立ち入れない部屋で行われるらしく、そこに見学者を入れることは無いのだという。)
 ガラスの向こうで作業中の人達は、俺達には見向きもしない。何人かは こちらに気付いた気がするが、彼らは社長に挨拶をすることもない。きびきびと動き回り、椎茸を収穫したり、菌床の材料を混ぜる機械を操作したりしている。
 彼らが働く姿を見ていたら、かつて見た鶏舎や、卵の検査室の光景がオーバーラップして、少し息が苦しくなった。
 棚に押し込められた茶色い菌床が、鶏のように動き出すのではないかと思った。
「初心者を、いきなり この階に入れることはしません。……新人さんは、まずは上で検品とパック詰めをやってもらいます」
 社長は淡々と語り、俺達は同じ建物の上層階にある、パック詰めをする部屋に通された。
 そこに居る人達は、作業所指定の物らしいエプロンと帽子を着用しているが、基本的には私服を着ていて、中にはヘッドホンやイヤホンを着けて作業している人も居る。(彼らは音楽を聴いているわけではなく、作業に集中できるよう、耳を塞いでいるらしい。)
 ゴム手袋と、マスクの着用は義務だという。
 収穫の担当者がエレベーターで上げてきたという、大きなプラスチック製のケースに山盛りの椎茸を、ひたすら検品する人、重さを量りながらパックに詰める人、それにラップをかける人、その上からシールを貼る人……役割を分担して、皆 黙々と働いている。
 社長が指さした天井を見ると、半球型の防犯カメラが付いている。商品への異物混入や、従業員同士のトラブルを防ぐために設置しているという。
「万が一、クレームがあったら、パッキングした瞬間の記録が、これに残りますから……状況を検証して……」
社長は、やはり淡々と語る。
 あの養鶏場にも、こんなカメラがあれば……パワハラやセクハラは、もっと少なかっただろう。(しかし、そこまでしなければ暴力を未然に防げないことが嘆かわしい。)
「音声は入りません。映像のみの記録です」
「なるほど」
誰よりも熱心に解説を聴いているのは檜村さんである。
 彼は、いずれまた他の就職希望者を連れて、ここに来るのだろう。

 初めの応接スペースに戻り、感想を訊かれたが、俺は答えることが出来なかった。
 頭の中は、辞めた会社のことで一杯だった。
(あそこの社員食堂に、カメラがあれば……あの女の暴挙を立証できたのに……)
 そんなことを考えていたら、やがて、かつての同僚達の声が、頭の中から聴こえてきた。
(“マジ気持ち悪い……”)
(“俺のケツを見るな!”)
(“あれ、死んだんかな?”)
(“自殺だってよ……”)
(“いいんじゃね?中東なら死刑だし……”)
 目眩がしてきた。

(“倉本くん?”)
(“随分と、緊張が強いみたいですね……”)
耳慣れない声がする。
 その声が、幻聴なのか、実際に言われている言葉なのか、俺には判らなかった。
「和真。……和真!」
何度か父に肩を叩かれ、はっと我に返る。
「おまえ、大丈夫か?……腹でも痛いのか?」
父が、社長や檜村さんの前で「まともな父親」ぶっている。
「ここで決断させることではありませんよ、お父さん」
社長が、口を開く。
「お家に帰ってから、よく考えて……ご本人が、本当に うちで働きたいなら、後日ハローワークを通じて正式に応募して、改めて履歴書を持って面接に……」
 社長が説明することを、父よりも檜村さんが熱心に聴き取り、ノートに書き留める。


 その後のことは、ほとんど何も憶えていない。ふと気が付くと地下鉄に乗っていて、俺だけが座席に座り、父は、俺の真正面で、両手に吊り革を持って、不機嫌そうに立っている。
 檜村さんは、見当たらない。
 降りる駅に着いたら肩を叩かれ、ホームに降りてから、家に帰り着くまで、俺は一言も発さなかった気がする。
 その間、俺はずっと頭の中の連中から下卑た嘲笑を受けていた。
(“え、何?……あいつ、今、あんな しょぼい仕事しか選択肢ねぇの?”)
(“大卒が、最賃?”)
(“ホモがキノコ屋とか、マジ気持ち悪い……”)
 歩きながら、父が「疲れたか?」と訊いてきたが、答えられなかった。
 久しぶりに、あの「乳頭が腐り落ちるような不快感」を覚え、歩きながら、ずっと胸元を掻いていた。
「痒いのか?」
とりあえず、頷く。
「おが屑のある所に行ったからか?」
原因は、おそらく それではない。
 菌類特有の匂いが、鶏舎の中で、こぼれた餌や鶏糞の山にカビが生えていた光景を、思い起こさせたからだろう。(もちろん、それらをきちんと掃除するのが、当時の自分の仕事だった。)
 しかし、どれだけ現場の掃除を頑張っても、先輩社員の大半は「焼け石に水」「時間の無駄」と言って、俺達を愚弄した。彼らは、皮膚や呼吸器の疾患で辞めていく人材を【ザコ】と呼んで嗤い、破傷風菌さえ出そうなほどの劣悪な環境下でピンピンしていられる自分達だけが「まともな人間」であるかのように、ふんぞり返っていた。
 その意地汚い連中の声が、未だに、俺の全てを嗤う。
(おまえらこそ、ろくでもない感染症で、死に絶えればいい……!!)
 頭の中で、残酷なヘイトスピーチの応酬が始まる。


 帰るなり、俺は自室に逃げ込み、カーテンを閉めて、ベッドに潜り込んだ。深い水の底に潜るかのように息を止めて、布団を被って、体を丸めて全身を隠した。「布団の中」だけが、誰からも見えない安全地帯のような気がしていた。
 頭の中が静かになるまで、ずっと布団の中に隠れていた。
 だんだん息が苦しくなってきて、水面から顔を出すように、布団から顔を出したら、部屋の涼しさと暗さに、少し驚いた。
 手探りでスマホを探し、時間を見る。普段なら、そろそろ夕食を食べる頃だ。

 とりあえず起き上がり、部屋の灯りを点け、ベッドに腰掛けて ぼんやりしていたら、いつの間にか帰ってきていた母が、部屋に入ってきた。
「和真、調子どう?……普通の ごはん、食べられそう?」
「す、少しなら……」
「……気疲れしたんだろうね」
「たぶん……」
母も、俺が今日 作業所の見学に行ってきたことを知っている。

 俺が再就職に向けて動き出したことが嬉しくて堪らないのか、父は夕食の間、ずっと今日見てきた「椎茸工場」の話をしていた。
(そんなに気に入ったんなら、おまえが働けよ……)
俺は、本音をしまい込んで、苦々しい飯を機械的に食っていた。
「仕分けのほうなら、出来そうな感じだったよな?……『原則 私語禁止』なんだから、むしろ無口なほうが良い」
 確かに、するとしたら、あの作業しかない。
 50分に一度休憩があると言っていたし、一般枠よりも遥かに「人間らしく真っ当に」働ける気がした。
 仕分けのみを担当するうちは、私服の上からエプロンを着けるだけなので、更衣室で着替えることも無い。浴室も無い。
「焦って、決めなくていいんだからね?よく考えな……」
母は慎重だ。


 その夜、風呂場で体を洗っていると、課長の声がした。
(“倉ちゃん……新しい仕事、見つかったの?”)
あまりにも生々しくて、本当に課長と電話か何かが繋がっているようで……図らずも、涙が出てきた。
「まだ……決まったわけではないんですけど……」
独り言だ。解っている。
 この声は、誰にも届かない。
(“良かったじゃん!良い所が見つかって!”)
「でも……自信が無くて……」
(“どうして?”)
「俺はもう……腹が、完全に壊れていて……」
 妄想か、空想か……あるいは願望か。分からない。頭の中に居る、架空の課長と話している。……まるで、幼い子どもだ。
(“食べるのが仕事ってわけじゃないんでしょ?”)
「そ、そうですけど……」
(“合わなかったら、辞めればいいんだよ。都会なんだから……いくらでも選択肢があるでしょ?”)
普段なら、頭の中の課長の声は、あの養鶏場の話しかしない。あの優しい声で「いつから来れんのー?」と訊かれるたび、切実に、「戻らなければならない」と思う。
 しかし、俺は あの時、最悪の労働環境に【死をもって抗議】するために、あれを飲んだはずだ。場長宛てに遺書まで書いて……。(その遺書は、きっと開封すらされずに破棄されたのだろう。『物証が無い』とは、そういうことだ。)
 そんな場所に、今更どうして「戻りたい」のか。理解が出来ない。
 それでも、俺は課長の夢を見るたびに、あるいは、幻聴とはいえ「課長の声」を聴くたびに、底知れない勇気や、闘志が湧いてくる。今も逆境の中で頑張っているに違いない彼の、傍らに立ち返って、共に戦いたくなる。
 しかし、今の俺はもう、それが出来る身体ではない。あそこの まかないを食べることすら適わない。
(“倉ちゃんは、真面目だからさ。どこ行ったって歓迎されるよ、きっと”)
「そんなことはありません……」
泡だらけの足に、涙が滴り落ちる。
「俺を『人間扱い』してくれたのは、課長だけです……」
母を除けば。「勤務先」に限定して言えば。
「次の仕事場で……どんな目に遭うか……」
(“拓巳さんのことなんか『知らない』って言っちゃえば?”)
「え……!?」
(“誰も、倉ちゃんがゲイだって、知らないんでしょ?”)
 頭の中で課長が発している言葉は、俺が考えているわけではない。夢の中で誰かが喋っているのと同じだ。俺の意思でコントロール出来るものではない。
(“黙ってれば、判らないよ”)
 俺は、黙って体の泡を流す。
(……そうだよ。同じ大学の奴さえ居なければ……俺が『男と暮らしていた』ことなんか、誰も知らないはずだ……)
 以後、課長の声は聴こえなかった。

 風呂から上がる。
 まずは、明日にでも履歴書を買ってこよう。ひとまず書いてみよう。


次のエピソード
【8.社会復帰】
https://note.com/mokkei4486/n/nf085d75a1f1d

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?