見出し画像

「お母さんを殺したのは私だ。」

その言葉が、ぐさりと私の心を刺した。
「そんなことないよ」なんて言葉は、気休めにしか過ぎない。
彼女はこれからの人生、ことある毎に思い出して、自分を責めるんだろう。「違う、あなたのせいじゃない」抱きしめてやりたいと願っても、今彼女の近くに行ってあげられる人は、誰もいない。


私の母の母の姉ーー幼少期に会ったきりで、顔すらあまり思い出せない、大叔母が亡くなった。
最終的な死因は心不全だったようだが、新型コロナウイルスの感染拡大により、葬儀屋から葬儀を断られたという。とはいえ死体をそのままにしておくわけにはいかないので、ようやく受け入れてもらえた火葬場で、その娘1人が大伯母を見送った。大叔母が住んでいたのは雪深い地域なので、雪解けを待って納骨を進めるらしい。関東に住む私や母は、墓参りには当分行けないだろう。

大叔母は、肺に水が溜まってしまう「肺水腫」で、1週間に1度、水抜きのために病院へ行かないといけなかった。だが、大叔母は寝たきりで、自分ひとりで動くことなんて到底できない。酸素ボンベをつけ、ただ「生かされている」状態だった。

そんな大叔母には、娘が2人いた。責任感の強い長女と、自由奔放に生きる次女。ふたりとも看護師だったが、次女は決して大叔母のめんどうをみることなく、長女のミキさん(仮)が付きっきりで大叔母の身の回りのことに対応していたようだ。

毎週決まった曜日になると、ミキさんはお母さんをと酸素ボンベを背負って、マンションの3階から降りていく。介護タクシーはマンションの入り口までしか来てくれなくて、特に手助けをしてくれるわけではない。
病院で肺にたまった水を抜き、大叔母はまた1週間生きながらえる。そんな大叔母と酸素ボンベを背負って、ミキさんは3階まで登っていく。

「24時間付き添いが必要だから、専門の施設に入れたい」と施設や行政に頼んでも「あなたは看護師でしょ?」と言われる。「あなたが付いていればいいじゃない」「娘さんが面倒を見たほうが、お母さんも幸せでしょう」そうやって、さまざまな施設から断られたそうだ。受け入れてもらえそうな施設の話も聞いてはみたが、結局のところ、優秀な看護師であるミキさんが24時間そばにいてあげたほうが、手厚く面倒を見てあげられるのだとわかり、施設へ預けることができなかった。

看護師としてのプライドもあったのか、ミキさんは「私がお母さんのそばにいるしかないんだ」と、大叔母の介護と看護をこなした。多少容態が悪くなっても、ある程度の処置はミキさん自身ができてしまう。何度も命に危険が迫る場面もあったものの、ミキさんの迅速な処置により、そのたび大叔母は一命をとりとめた。

たが、大叔母が1日、1週間、1ヶ月……と生きながらえるたび、ミキさんの心は削られていった。自分のことは何もできない。会話もろくにできない、酸素ボンベにつながれてギリギリ生を保っているだけの母親の身の回りの世話で、1日が終わっていく。


いつものように、病院へ水抜きに行ったある日。
介護タクシーは、大叔母をマンションの入り口におろすと「今日もお疲れ様でした」と走り去った。ミキさんは、大叔母を背負おうとするものの、どうしてもその日は持ち上げることができない。酸素ボンベも、大叔母も、いつもは背負えたはずなのに。ミキさんは涙を堪えて、通りすがった人に頼み込んで、大叔母を3階まで運びあげた。大好きなお母さんが、1日でも生きていてくれて、うれしいはずなのに。重くて、苦しくて、涙が止まらなかったという。

たった1回でもミキさんが大叔母を病院へ連れていかなかったら、肺に溜まった水でおぼれて、大叔母は死んでしまう。でも、自力で動けない体を背負うことがままならないほど、ミキさんは疲れ果てていた。

「私が諦めてしまったら、お母さんは死んでしまう」
ミキさんは、私の祖母にそう語った。
「もう充分頑張ったよ、あんたのせいじゃない。そこまで生きられたのは、あんたが頑張ったからだよ」祖母の言葉にミキさんは「大好きなお母さんなのに、もう疲れたって、そう思っちゃうことが、つらい」と泣いていた。

ミキさんに医療や介護の知識があって、一般の人よりも手厚い医療と介護ができて。本来ならもう亡くなっていてもおかしくない大叔母は、ミキさんに助けられて生きている。でも、ミキさんがその手を貸せなくなってしまったら、つながれた命は簡単に終わってしまうだろう。自分の手がなければ、母が死んでしまう。その重圧から、懸命に母親の介護を続けるミキさんの苦しみは、きっと私には計り知れない。


そんなミキさんの涙から、1ヶ月ほど経って。
大叔母の容態が急変し、病院で息を引き取ったという連絡が入った。大叔母が亡くなった細かい状況はわからない。ほんの少しミキさんが目を離していた間に、呼吸がうまくできなくなったようだった。

大叔母のことも、ミキさんのことも、私からしたらただの「遠い親戚」で。もちろん亡くなってしまったことは悲しいけれど、日々の生活が手につかなくなるほどに悲嘆して、涙に暮れるほどではない。いつか墓前で手を合わせられたらとは思うけれど、ミキさんのところに飛んでいって「大丈夫ですか」声をかけるような間柄でもなければ、彼女に私ができることは何一つないのも知っている。
でも、彼女がこぼした「お母さんを殺したのは、私だ」という言葉は、勝手に私の心につき刺さって、抜けてくれそうにない。


たとえば、自分の心底大切な人が、寝たきりになって、それでも呼吸だけは諦めずにいてくれたとして。私は、ずっと変わらずその人のことを「大切だ」と思い続けられるだろうか。「生きていてほしい。それだけでいい」と、願い続けられるだろうか。
もしくは、私が誰かの手を借りないと何もできなくなったとき。それでも、その手を借りてでも生きていくことを、幸せだと思えるだろうか。

医療が進み、知識や技術があれば、大病を抱えていても生き続けられることは多い。でも、ろくに会話もできず、人の手を借りることでしか生を保てない状態を「生きている」と称していいのか。

ミキさんは、やれることを精一杯やったと思うし、大叔母だってきっと、そんなミキさんに感謝しているはずだ。でも、ミキさんの心のどこかに「こんな日々が終わってほしい」と、そう思う気持ちもあったんだと思う。だから、「(そんな気持ちを持ってしまったから)母は死んだ」と、そう思ってしまったのではないだろうか。

誰も悪くない。だからこそ、苦しい。
今も雪深い東北の地で、ミキさんは大叔母と住んでいた家を、少しずつ片付けているそうだ。かたくなに積もってやまない雪が溶けて、春が訪れたら、ミキさんの気持ちも少しは軽くなるだろうか。私には、彼女が自分を責めて生きていくことだけはしないでほしい、と願うことしかできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?