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依存心というマグマと恋愛

未解決の依存心を溜め込む「心の穴」について書いています。

今回は「依存心というマグマと恋愛」です。



前回のnoteで書いたように、心の穴が成長するプロセスには3つの段階があります。

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①心がすべての世界
   ↓
②ごっこ遊びだけの世界
   ↓
③物質と行動だけの世界

これは健全な心の発達段階ともリンクしています。①が乳児期、②が幼児期、③が思春期以降です。

この段階のどこかで傷つきを経験すると、心の穴に依存心が溜め込まれ、その依存心を抑えるために攻撃性が溜め込まれていく……ということです。


●子ども返りのメカニズム

実はこの3つの段階は、いったん通過したらそれで終わりということではありません。

危機的な状況に陥ったり強いストレスを感じたりすると、大人であっても①や②の状態に戻ってしまうことがよくあります。

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ふだん『③物質と行動だけの世界』に生きている人は、基本的に他人を信用していません。正確にいえば「他人の気持ちを信用していない」のです。

だから、お金、地位、学歴などのステイタスであったり、正義やモラルといった一般的にわかりやすい基準であったり、科学や専門知識といったいわゆるエビデンスを重視しようとしたりします。

本人は至って合理的に生きているつもりなのですが、その裏にあるのは「他人は絶対に信用ならない」という凍りつくような孤独です。「他人は信用していないけれど他人の評価は気になる」という相反した思いも抱えています。

こののような人がひとたびトラブルやピンチに直面すると「子ども返り」してしまうことがあります。ふだんは『③物質と行動だけの世界』に生きているのに、『①心がすべての世界』にいる乳児のようになったり、『②ごっこ遊びだけの世界』の幼児のようになったりしてしまうのです。


以前のnoteでも書いた山口真由さんのお話にも、まさに「子ども返り」した場面がありました。

常に主導権を握って交際してきた山口さんは、2年交際した彼との別れが決定的なったあと、こう思います。

〝一人になった私は、自分にこう言い聞かせました。「大丈夫、私の人生にこの失恋が及ぼす影響なんか何もないんだから」「大丈夫大丈夫」〟

現実には、最初に彼から別れたいと言われたとき、「ちゃんと話がしたい」と追いすがった山口さんです。今まで頑として譲らなかった彼女が、初めて彼のためにスケジュールを空けようとしたほどだったのだから、失恋は相当ショックなできごとだったはずです。なのに彼女は「大丈夫、なんでもない」と自分に言い聞かせました。

つまり彼女は『②ごっこ遊びだけの世界』に逃げ込んだのです。失恋しても取り乱さない私という理想の自分を演じる、架空の世界。2年付き合った彼の存在感なんてちっぽけなもの、だから失恋のショックなんて全然ない。心の穴に溢れる依存心にとりあえず蓋をして、現実逃避することによって危機を切り抜けようとしたのでした。

でもその後、やはり限界がきます。

自宅でシミ抜きに失敗してTシャツに穴を開けてしまった山口さんは、Tシャツを振り回して絶叫したといいます。まるでオムツが濡れて泣いている赤ん坊のようです。ごっこ遊びの世界に逃げ込むだけでは抑えきれなかった感情が爆発し、その感情の渦にのみ込まれてしまったのです。

これは『①心がすべての世界』です。シミ抜きに失敗したというのは単なる日常の1コマにすぎないにもかかわらず、彼女は「私はこんな普通なこともできない」と絶望し、それによって「世界は絶望的だ」と発狂してしまった。つまり心と現実の区別がつかなくなってしまったわけです。

誰よりも自立的に生きてきた山口さんの「子ども返り」は、幼児から乳児へと、より後ろへと退行していったのでした。

〝今までずっと本能を出すことを恐れて、理性で感情を抑え込み、自分の恥ずかしいことなども圧倒的な知識量と勉強量でなんとか抑え込んできました。しかしこの日とうとう本能が爆発し、私は取り乱しました
〝自分でもほんとうに驚きました。こんな自分が潜んでるなんて。


●依存心というマグマと恋愛

溜め込んだ依存心のエネルギーは、想像以上のものです。

東大現役で司法試験に合格しハーバードのロースクールを出るほどの知識量や勉強量があったとしても、噴火するマグマの前では無力です。ストイックに自分を律し、どんなに社会的な成功を収めたとしても、突き上げる依存心の前では無意味なのです。

もちろん、本人としても別に、依存心のエネルギーをあなどっていたわけではありません。

自分の心の奥底に依存心が溜め込まれていること、いつかそれが爆発する日がくるかもしれないことを、本人の無意識はうすうす気がついています。甘えたい愛されたいという渇望がどれほどの脅威であるか、無意識ではわかっています。

だからこそ、より強いエネルギーで抑え込もうとしたのです。人の何倍もの勉強量、ストイックさ、それによって手にした学歴、お金、地位、社会性によって、依存心の脅威をなんとか忘れようとしていたのです。

借金取りが押しかけてくるとなれば、ドアの前に家具を積み重ねてバリケードをするのと同じです。心の奥底にある依存心が強い人ほど、強固なバリケードが必要だと考えます。自分の依存心に怯えている人ほど、何重にも保険をかけておかなければと思うのです。

そして、もしもこの依存心がいつか噴き出したら、そのときどうなってしまうのかを彼らはよくわかっています。乳児のとき、幼児のとき、見守るまなざしが不在であったこと。助けを求めたとき、差し伸べられる手がなかったこと。泣いてもすがっても、押しのけられてしまったこと。

そうした傷つきの記憶が、彼らの心とからだにはまだ残っているのです。


依存心は、恋愛関係に表れることがほとんどです。

心の発達というものが「ママと赤ちゃん」の関係を通して学ぶものであることを考えれば、未解決の依存心が恋愛に投影されるのはごく自然なことです。

もっとも古い記憶は、母親の子宮にいた頃のものです。はっきりと思い出したり言葉にするのは難しくても、私たちは「胎内記憶」というものを持っています。そのとき、自分と母親はまさしく一心同体、融合した存在でした。

乳幼児期には、母親と「感情のキャッチボール」を通して心が育っていきます。他人に甘えたり頼ったり、他人から助けられたりすることで、「自分はこの世界に歓迎されている」という実感を得ます。

スキンシップとコミュニケーションによって、母親との親密な関係を通して、世界の地図を描いた心が育ち、この世界に自分の居場所がつくられていきます。傷つきを経験し、欠けた地図しか描けなかった心でもって、居場所のない世界を生きる人もいます。

親から離れてやがてひとりの人として立った私たちが、次に親密な関係をもつのは恋人です。友人や仲間といった親しい関係はもちろんありますが、恋愛ほど、一心同体に融合したような感覚を感じ、濃密なスキンシップをするものはありません。

恋愛というのは、未解決のままの依存心をもっとも刺激する関係なのです。

溜め込んだ依存心を抑え込もうとしている人は、恋愛感情をできるだけ遠ざけるべく、『③物質と行動だけの世界』で生きようとします。恋愛感情とはつまり「親密さを求める気持ち」であるから、それが刺激されたら依存心が膨れ上がってしまうと無意識で知っているからです。マグマを刺激してはいけない、爆発させてはいけないという無意識のブレーキがはたらきます。

しかし依存心のエネルギーは凄まじいものです。

未解決の依存心には「癒やされたい」という切実な凄まじさがあります。

誰かと出会って恋に落ちそうになったとき、「この人と親密になりたい」と強く思ったとき、その感情は意識や理性では止められません。かつての傷つきに絶望した人でさえ、もう一度愛を信じられるようになるかもしれないという淡い期待を抱くのです。

そして、これはとても不思議なことですが、相手も同じ気持ちでいることがほとんどです。これこそが「ご縁」とでも言うべきものなのかもしれません。

依存心を溜め込んだ「心の穴」を持つ人は、同じように「心の穴」を持つ人に惹かれます。傷つきを抱えた人は、同じように傷ついている人と出会います。この地球上に星の数ほど人がいる中から「どうしてもこの人」と見つけ出した相手とは、強烈なエネルギーで惹かれ合います。出会ったときには、心の穴のことも傷つきもしっかり隠しているのに、なぜだかわかるのです。

ただ、こうした背景で強烈に惹かれ合った関係は、強烈に傷つけ合ってしまうことも少なくありません。

「心の穴」を持つもの同士は、つまり「未解決の依存心」が共鳴し合っているわけです。寂しさや孤独、見捨てられ不安、愛されたいという渇望が、お互いに共鳴して、惹かれ合ったわけです。そんなふたりが付き合えば、お互いの依存心はかつてないほどに刺激されます。

依存心のマグマが膨れ上がると、なんとかしなければとそれぞれに右往左往します。

恋愛にうつつを抜かしている場合じゃなかった、もっと仕事に没頭しなければと、突然音信不通にする場合もあります。激務という攻撃性によって、膨らんだ依存心を抑圧しようとします。

行動という形で、相手の愛情を常に確かめようとする場合もあります。LINEの返信を求めたり、束縛したり、デートの内容やプレゼントで相手の愛情を測ろうとします。

「子ども返り」してしまい、現実の恋人を見ようとせず、自分の空想の中だけで一方的に恋愛を進めようとしてしまう場合もあります。あるいはさらに退行して、自分の不安と現実の区別がつかなくなってしまい、LINEを待って夜も眠れなくなったり、恋人がいなければ生きていけないと思ったりします。

また、恋愛感情を抑えたまま、依存心だけを満たそうとする場合もあります。つまり『③物質と行動だけの世界』にいながら、恋愛感情は持たず、性的な関係によって依存心を形だけ満たそうとするやり方です。

恋人がいても他に複数の人と性的な関係を持っているのは、恋人とのあいだで「親密さへの渇望」という依存心を爆発させてしまうことを恐れているからです。そもそも特定のパートナーは持たずに身体だけの関係をもつのは、「物質と行動」の世界のルールで依存心を満たそうとしているわけです。

また、家庭がありながら別の人と恋愛をする不倫も、『②ごっこ遊びだけの世界』に逃げ込んでいる場合があります。夫婦間にあるような生活臭や無遠慮な感情のぶつけ合いが、不倫相手との間では感じないで済む。自分が理想の恋愛ごっこの登場人物でいられる。そうした心理で不倫関係にある場合、生々しい感情が生まれたとたんに関係が終わってしまうことが少なくありません。「ごっこ遊びだけの世界にはいられなくなった=関係は終わり」ということです。

他にも、ストーカー行為やわいせつ、買春などの犯罪行為も、裏には「未解決の依存心を満たそうとしている」という背景が少なくありません。

つまりそれほどに、恋愛には力があるということです。

未解決の依存心を抱えて生き続けるのはしんどいことです。突き上げる依存心をずっと抑え続けているのも、エネルギーを消耗するものです。社会的な成功や体面とは別に、無意識のどこかで、「ずっとこのままでいられるわけがない」と本人は知っています。でも依存心をどう癒やしたらいいかわからない。

そういうタイミングで、人は誰かに出会うのです。

同じ傷つきを持ち、同じように心の穴を持ち、同じようにしんどい思いをしながら、それでも生き延びてきた。そういう相手と、人は恋に落ちるのです。

恋愛は、単なる惚れた腫れたなのではありません。未解決の依存心を癒やすという、大いなる使命をもって訪れるものです。

傷つきを抱えた人にとっては、中高生のおままごとのようなお付き合いも、青い果実のような20代の恋愛も、結婚相手を探すときも、結婚してからも、すべてのパートナーシップは「親密な関係によって傷つきを癒やす」というただひとつの目的のためにあります。

そしていつか癒やしが完了したとき、人が生きることのほんとうの意味に出会います。その意味は人によってそれぞれですが、計り知れないほど大きなスケールの「愛と呼ばれるような何か」であることに違いありません。


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