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ぼくはぬりかべ

「かべ打ちして欲しい」

答えのない問いに対して悩んでいる人が、答えを返してくれなくていいから話を誰かに聞いて欲しいときに、「かべ打ち」というものをお願いするらしい。

ぼくはそのかべになることがすごく多い。


ゴツゴツした何も動かないかべではなくて、のっぺり顔をしたぬりかべだ。
細長いぬりかべだ。メガネもかけているが妖怪だ。(メガネをかけた妖怪が少ないのはなんでだろう)


伝承によればぬりかべは、夜道に、ある人の目の前に突如として現れ、見えないかべとなって前に進めなくさせてしまうらしい。

横からすり抜けようとしてもぬりかべは左右にずっと続いていて、避けて通ることができない。

ただひとつかべを消す方法として、かべの下の方を払えばいいのだそうだ。(足元払うとかスネ痛そうだな、そういうことじゃないな)


人生という道においてかべにぶち当たって前に進めなくなった人が、ぼくの前にはよく現れる。ぼくはかべになるつもりはないのに、かべになることをお願いされる。ぬりかべもきっとかべになるつもりなど本当はないのかもしれない。


前に進めず、横からすり抜けることもできず、その場に立ち止まってしまい、どうにも歩き出せない。

そういう人に対して、「どうして?」「なぜ?」と投げかけていく。「うん、うん」となるべく聞くことに徹し、自分が持つ意見はグッとおさえる。

そうやって、その人を下の方へ、下の方へと掘り下げていくと、その人自身が気づく。そして徐々にその人がぶつかっていたかべが消えていく。


かべであるぼくの役割はそこで終わりだ。でもそれでいいのだ。


「あっ、これか!!」

かべにぶち当たっていた人が自分で答えらしきものに気づき、かべを消す、そんな瞬間がぼくは好きだ。


この前、友達にかべ打ちをお願いされたとき、

「嬉しさでもなく悲しさでもなく、安心した。今の自分を認めることができた。」

と言って泣いていた。


すごくあたたかった。


その人の顔も、声も、感情も、その人を包む空気も、じわ〜とあたたかい感じがした。ものすごく綺麗だった。

かべになれて良かった。心の底からそう思えた。


きっとぼくらはどうやってかべを消すのか?は無意識的にわかっているのだろう。

GoogleさんとかWikipediaさんとかより優秀な何かが自分のどこかにはあって、答えらしきものを検索できるのかもしれない。


でもなかなか自分ひとりでは答えらしきものを導き出すことができない。

検索の仕方が下手くそなのかもしれない。

最適化に失敗しているのかもしれない。


だからかべ打ちを誰かにお願いするのだろう。


ぬりかべはきっと優しい妖怪だ。

ぬりかべ自体はかべになるつもりなどないのかもしれないが、人生という道に突如あらわれ、ぼくらに問いを与えてくれる。


「あなたにとって理想の状態は何か?」

「あなたは人生をどんなふうに生きたいのか?」

「あなたにとって幸せとは?」


ぼくはかべでいい。妖怪でいい。

優しいぬりかべとなって、人に気づきを与えられる存在であろう。

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